河畔に咲く鮮花  

第二章 十四輪の花* 2:花嫁の証




 本当は雪のいない間も外出は禁止されていたが、蘭は公人を助けるべく義鷹の屋敷へ訪れることを決意する。
 義鷹に予約も取らず、ほとんどお忍びで屋敷を訪れたが、蘭ということが分かり、あっさりと会う手配をしてくれた。
 公人と蘭は部屋の一室で義鷹の到着を待つこととなった。
 待たされたのは、蘭が生活していた離れの部屋である。
――懐かしいわ、この部屋
 あの頃が懐かしく思い出され、辺りを見回す。
 もう二年近くも経っているのに、この部屋だけは何も変わってはいなかった。
 いつでも蘭の帰りを待っているかのように、花器には花が活けられて隅々まで掃除が行きとどいている。
 思い出に馳せながら物思いに耽っていると、義鷹がその場に現れた。
 後ろに控えている公人を見て一瞬驚いたように目を開くが、すぐに蘭に向き直り、いつもの柔和な微笑みを浮かべる。
「蘭、久しぶりだね。急にどうしたんだい?」
 義鷹は蘭の前にスッと音もなく座ると、メイドにお茶を持ってこさせた。
「義鷹様、ごめんなさい。突然来てしまって」
 忙しい義鷹に侘びを入れて、蘭はこうべを垂れる。
「蘭が会いに来てくれるなら私はいつでも飛んでくるさ。屋敷を何度あれから訪ねても会わせてくれなかったからね」
 寂しげに言う義鷹を見て、蘭は花見の日のことを思い出す。
 雪が義鷹からの着物を焼いてしまい、それから監視が厳しくなった。
「あの、ごめんなさい。あの時は……」
「いいんだよ、仕方ないことだ。それより、後ろの子は誰なんだい?」
 義鷹の流麗な瞳が、蘭の後ろの公人に流れる。
 「警護役の姉小路公人君です」
「警護役……姉小路? 貴族の息子だね。ふうん、男を警護役とは雪様もどういった心境の変化なのかな」
 訝るように義鷹は公人を眺めて、少しおもしろくなさそうに呟いた。
「その……それには色々と理由があって。それより、今日はお願いがあって来たんです。聞いてくれますか?」
 話が脱線しそうになったので、蘭はすぐさま軌道修正する。
「なんでも言ってごらん。蘭が頼みごとなど珍しい。私に出来ることなら何でもしてあげよう」
「公人君の借財書を返還して欲しいんです。身受人は私がなります。少しぐらい蓄えもありますので、借金の肩代わりができます」
 それを聞いて義鷹は一瞬だが、瞳にほの暗い翳りを滲ませた。
 だけどいつもの調子に戻り、にっこりと綺麗な笑みを浮かべる。
「管理している書庫に行って、見てみよう。少し待ってておくれ」
 優雅に立ち上がり、義鷹はその場を立ち去っていく。残された蘭はほっと息を吐き、肩の力を抜いた。
 思ったより簡単に公人の身受け人を引き受けられそうだ。だが公人は心配そうに眉をしかめる。
「……蘭様は今川の若様と面識があったのですか?」
 公人が雪の屋敷に来たのは、花見の後のことだ。蘭と義鷹の間柄を知る由もない。
「うん、実は二年前にこの屋敷で住んでいたのよ。そこで、雪に出会ったってわけなんだけどね。いつも優しく接してくれて本当にお世話になりっぱなし」
 蘭の言いざまにますます公人は怪訝そうに顔を曇らせた。
「どうして、そんな顔をするの? 変なことでも言った?」
 蘭の問いかけに公人は躊躇うように口を開く。
「僕は若様にお会いするのは初めてで、あんな方とは存じませんでしたが、巷の噂とは随分と違っていると思いまして」
 表情が固い公人を見て、蘭の胸がざわめく。巷の噂など蘭の耳に届くわけもない。
――公人君、かなり義鷹様を警戒しているみたい
 蘭の知らない顔をした義鷹がいるのかと思うと少し恐い気もした。
「若様は冷徹で恐ろしい人だと聞いております。ただで動く方ではない、なにかいつも裏に潜ませている。そんな噂を聞きました」
 公人の言う義鷹は蘭の見たことも聞いたこともない話。どこが冷徹で恐ろしいのかさえも見当もつかない。
 いつも慈愛に満ち、柔和な笑顔で蘭を思いやる。
 わがまま放題の雪の相手を怒りもせずに見守っている兄のような存在。
 噂と現実に大きな開きがあり、蘭は思わず吹き出した。
――まさか、義鷹様が?
「噂って凄いんだね。義鷹様がそんな冷徹なわけないよ。その証拠に私は助けられて、お屋敷で住まわせていただいたんだもの」
「そう……なんですか……それならいいのですが……若様はその、女性相手にもドライだとお聞きしました。手も早いし、執着も固執もしない。一度抱いた者には見向きもせずに、こっぴどく袖にする。それで泣いている娘も大勢いるとお聞きします」
 ますます信じられないと蘭は大笑いした。
「そんなことないよ。義鷹様は本当に優しいし、思いやりがあるお方よ。そんな根も葉もない噂をどこで聞いたのよ」
 まだくっくっと笑う蘭に公人は大きく目を見開く。
「それは、その、蘭様の耳に入れたくはないのですが、僕がまだ遊んで浮名を流していた時に、抱いた娘から聞きました」
 公人は言いたくなさそうに視線を泳がせて噂ではなく真実だと語る。それでも蘭はまだ信じられないと肩を揺らせて笑っていた。
「おや、楽しそうだね。なにがそんなにおもしろいのだい?」
 そこに義鷹が戻って来て、公人はぴたりと口を閉じた。蘭も笑うのを止めて義鷹の手に持つ借財書に視線を巡らせる。
「確かにあったよ。姉小路家の借財書。借金の肩代わりは蝶姫だね。身受け人を蝶姫から蘭に変えるのかい?」
 義鷹は静かに腰をおろして、ぺらぺらと借財書をめくった。
「はい、出来ますか? 義鷹様」
 義鷹はめくる手を止めて、ふと真顔になる。笑みが消えて、一瞬だが空気がさがった気がした。
「いいよ。でもね、蘭。条件がある」
 ゆるやかに微笑むが、義鷹の目は笑っていない。
「……何でしょうか?」
 無理難題を突きつけられるのかと思い、蘭はごくりと唾を飲みこんだ。
「雪様は大阪公務だね。その間だけでもいいんだ。あの頃のようにこの屋敷で過ごしてくれないか?」
 義鷹の突きつけられる内容に蘭は目を点にし、公人も人形のような顔に苦悶の表情を張りつけた。
「それでいいなら、借金は全部帳消しにしてあげる」
――えっ?
 義鷹の申し出に蘭は呆気に取られたように目を丸くした。
「それはっ……蘭様……ご無理なさらなくていいんです。僕の為に。あの屋敷を離れてここに住むなど……」
「小姓は黙っててくれないかな。私は蘭と交渉しているんだよ?」
 穏やかだがどこか苛立った様子で、義鷹は公人の言葉を制圧する。
 その瞳の奥の鋭さに射あてられて公人は押し黙ってしまった。
 蘭は考えあぐねて拳をぎゅっと握り締める。
――どうしたらいいの……でも……
 いくら考えても蘭の答えは初めから決まっていた。
「……分かりました。義鷹様のお傍にいます」
 きっと義鷹にも蘭がそう言うと分かっていたのだろう。その答えを聞いて、極上の笑みを湛えた。
「よく決断してくれたね。優しい蘭のことだ。そう言ってくれると思っていたよ。ああ、あの頃と同じようにまた過ごせるね」
 義鷹は嬉しそうに蘭の頬に触れ、瞳を潤ませる。
 その熱を見て取って、蘭は戸惑いを浮かべた。
「じゃあ、すぐにあの頃のように布団や服などを支度させよう」
 蘭の気持ちも知らずに義鷹はすぐさま手を叩くと、メイドを呼びつける。
 そして、簡単に命令を下すと、意気揚々と蘭に振り返る。
「ここで、食事を摂り、今度からは一緒に寝よう」
 その言葉に蘭はハッと目を見開いた。
――それってどういうこと……?
 義鷹は離れに元々は住んでいない。本家の屋敷で寝泊まりをしている。
 それを今度からはこの部屋で蘭と一緒に寝泊まりすると言うのだ。
「それは……若様でも困ります。蘭様は覇王の奥方。そのようなことは……」
「君はまだ何も分かっていない。それに蘭もだ。ここにいると言うことは主人は私だ。その命令が聞けないのであれば、借金の件も全て消える」
 公人の意見をすぐに遮って、義鷹は強い口調で言ってのける。






 





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