河畔に咲く鮮花  



* * *

 それからまた数日が過ぎた頃、公人を求める恥ずかしい行為を蘭は自重していた。
 自分から誘ってしまうとは、淫らな女だと思われるかもしれない。
――こういうことはもう止めよう
 蘭はそう言い聞かせてしばらくは習い事に没頭し、自分の欲望を押さえる日々を送る。
 そんなある日のこと、珍しく離れに蝶子が戻って来た。
 またすぐに出かけるらしく、メイドや小姓がばたばたと忙しそうに走り回っている。
 蘭は習い事がいつもより早く終わって、公人の姿を探した。
 いつもは庭で剣術の鍛錬をしているはずである。
 庭を歩き、公人の後ろ姿を見つける。驚かそうと忍び足で近づくが、蝶子の姿を見て、咄嗟に木の陰に隠れた。
 蝶子と公人が対峙して、何かを話している。
 蘭は胸がざわめき、行けないことだと感じながら、盗み聞きをしてしまった。
「……それで順調なの? 公人」
 蝶子が公人に問い詰めるように質問を投げかける。
「……はい。順調です……ですが、まだ……」
 公人が一呼吸置いた後に口をつぐんだ。
「……何の為に私が屋敷を出てまで、二人っきりにさせていると思っているのかしら。早く抱いて、あなたに溺れさせ、雪様と別れさせるのよ」
 蘭の全身からざぁっと血の気が引いて行く。胸は早鐘を打ち、呼吸が乱れた。
――どういうこと? 
 蝶子がわざと蘭に公人をけしかけた。そして、騙して体を蹂躙し、雪にそれを密告する。
 聞いた限りではそういう話だ。公人は元々蝶子の小姓である。計画して、蝶子の差し金というのは十分にありえることだった。
――公人に騙されている
 蘭は頭の中が真っ白になり、心臓が早まる。
――そんな……
 今更、蘭はその事実に気が付き、きつく目を閉じた。
 公人が男が好きなのは嘘。
 そうじゃなければ女相手に機能はしない。
 どうしてその時に気がつかなかったのか、情けなくなる。
 ただの欲望だけで、公人を道具と扱った罰なのかも知れない。
 それでも公人に騙されているとは思いもよらず蘭は心を痛めた。
――公人君だけは味方だと思っていたのに……
 蝶子と公人は短い話を交わしてお互いは離れていく。
 蝶子はまた屋敷を出て行き、広大な離れには公人と蘭だけになった。
 なにも知らない振りをしようと上辺を取り繕っていたが、どうしても食事時に沈黙してしまう。
 公人は元々、自分から会話をしてくる方ではないので、蘭が黙ると静かな食卓になる。
 だが、その異変に気がついたのか公人が箸を置いて、僅かに口を開いた。
「……蘭様……ご気分でも悪いのですか? また体調が優れないとか」
 蘭は体調を崩して寝こんだことがある。それを心配したのか公人は蘭の顔を窺ってきた。
「あ……うん。ちょっとだけ。頭が痛いかも」
 蘭も食事が進まずに、箸を置いて頭痛がするという振りをする。
「いけません。すぐに頭痛薬をお持ちします」
 公人は席を立ち、引き出しから薬を取り出して、蘭の手に乗せた。水も持って来て、蝶子の計画を知らなければ、本当に良く出来た者だと思う。
 その気遣いも優しさも演技だと分かれば白々しいものに見えてくる。悲しみと苛立ちが胸中を満たし、思わず水を持つ公人の手を振り払ってしまった。
 公人が一瞬、戸惑いの表情を見せてその場で固まる。
「あ……」
 コップから水がこぼれ、畳に染みを作った。蘭は顔が強張っていることを知られたくなくて、すぐに視線を逸らす。
 だが公人は何も言わずにコップをテーブルの上に置いて、静かに床の水を拭き取った。 
 綺麗に掃除した後に、公人は蘭から少し距離を置いて正座する。
 物々しい雰囲気に蘭は居心地悪さを感じたが、喋る気にはなれなかった。
シンと静まり返った部屋には奇妙な雰囲気が流れる。
 場に不似合いなししおどしの音が庭から聞こえ、蘭の気持ちを余計に落ち着かないものにさせた。
「……蘭様……なにかございましたか? 僕に不手際があればおっしゃって下さい」
 人形のような顔に悲しみの色が浮かび上がる。そんな顔をされたら、こちらが傷つけたような気分になり、苛立ちが増した。
――全部、演技のくせに……
 落ち着きなく指をもじもじとさせながら口を開く覚悟をする。昼間に聞いた蝶子との会話の真意を聞く為に。
「……公人君って男が好きって本当は嘘じゃないの?」
 急に確信には迫れずに柔らかく回りから物事を固めていく。驚くかと思ったが公人はふと表情を和らげた。
「僕が男が好きと、一度でもおっしゃったことがありますか?」
 思ってもみない答えに蘭が目を丸くする番である。
「だ、だって、蝶姫は公人君のこと……」
 そこまで言って言葉をとぎると思考に耽ってみる。
 言われて見れば蝶子からしかそういう言葉は聞いていない。公人本人から直接男の方が好きと言われてもいなかった。
 蘭は勝手に蝶子だけの言葉で男が好きと思い込んだ。いや、思い込まされたのだ。
 その真実に気がつき、ざっと冷たいものが背筋を駆け抜けていく。
「僕が蘭様に反応を示したからおかしいと思ったのですか?」
 公人がゆっくりと顔を上げて、蘭の様子を窺ってくる。そして、歩み寄って来ては蘭を背中からやんわりと抱き締めた。
――この抱擁も偽り。貴族独特の表面的なもの
「……放して。私、聞いたんだよ。蝶姫と話しているところ」
 白々しく思えて、蘭はようやく蝶子との会話のことを口に出した。 
 公人の体がぴくりと震え、緩やかに手を放す。蘭が首をねじり、公人の顔をじっと見据えた。
 初めて公人の切れ長の瞳に苦しげな色がよぎる。それだけで蝶子との話が事実だということを告げていた。
「やっぱり……本当だったんだ。私を騙そうとしたんだね」
 悲しみと失望が胸中を満たしていく。  
「僕の話を聞いて下さい!」
 初めて公人が声を張り、畳に額をくっつけて弁明の意義を唱えた。だが、蘭にはそれすら聞く耳も持たない。騙されていたという結果が全てなのだから。
「公人君だけは、味方だと思っていたのに!」
――八つ当たりだわ、こんなの……私も悪いのに…… 
 そうは思ったもののこの場にいるのがいたたまれなくなり、さっさと寝室にこもる。
「蘭様っ!!」
 公人は後を追い掛けて来て、同じようにその場でも跪いた。
「公人君、出てって!」
 蘭が大声で拒否するが、公人の手に持っているものを見て目を瞠る。
 闇夜に浮かび上がる銀色の光。
 それは果物などを剥く鋭利な刃物。
「あなた様を騙した結果にはなりましたが、本当に僕はお慕いしているのです。捨てられるぐらいなら、この命を断ちます」
 公人は刃物を綺麗な首に持って行き、刃を横にスライドし始めた。
 白い首筋にすーっと赤い線が浮かび上がり、だらりと鎖骨に血がこぼれていく。
「ま、待って! 公人君、そんなことは止めて!」
 蘭は我を忘れて公人の手から刃物を奪い、遠くに放り投げた。
「すぐに止血しなきゃ!」
 タオルや包帯を手に持ち、公人の赤く染まった首を拭く。傷は浅いようですぐに血が止まり、ほっと胸を撫で下ろした。
「なんでこんな馬鹿なことをしたのよ」
 蘭は震えながら公人の前に座りこみ、蒼白になった顔を覗く。公人は焦燥を浮かべて悲しげに蘭の顔を見た。
「申し訳ありません……蘭様。弁明出来るのであれば聞いてくれませんでしょうか」
 あまりに色のない公人の顔を見て蘭はこくりと頷いた。人形のような顔は青ざめ、悲壮感が漂っている。
 人間味を帯びた瞳を見れば公人がどれだけ苦しんでいるかが見て取れた。
「僕の家は没落して、蝶姫に借金の肩代わりに身受けされました。その時に、契約を結ばされたのです。覇王の奥方様、つまりは蘭様を溺れさせるということを」
 蘭はそこまで聞いて、ぎゅっと拳を握り締めた。
――騙そうとしたことは真実だった
 それは分かっていたはずなのに、改めて言われると気持ちが沈んでしまう。
 公人は蘭の顔色が変わるのを見たのか、申し訳無さそうに続きを紡いだ。 
「僕には抗えるはずはありません。それに、その契約に自信もありました。これでも少しは浮名を流して、色んな貴族の娘や覇者の姫達を虜にして来ました」
 それには蘭は納得をする。これほど美しい青年が、甘い声を出して囁けばすぐにその気になるだろう。
「ですが誤算でした。蘭様は今まで出会った娘と全く違う。下慮の出とはいえ、きっと若さと美貌で覇王に取り入った娘……そう思っておりました。貴族の娘も覇者の姫も気位が高く、男にかしずかれて当り前という感覚の持ち主です」
 公人が初めてそこで蘭にスイっと美しい目を流してくる。
「でもあなたは違っていた。不遜なところも傲岸なところもない。典子を助ける為に、裸足で飛び出し、自分の足をも汚す。庇う為に、震える手で僕に竹刀を構えた。その瞬間に僕の心は打たれてしまいました」
 公人は苦しそうに眉をしかめて、蘭に向き直った。
「楽しそうに食事をする時も、屈託なく喋りかけてくれて僕の心は段々とほだされていきました。純真なほど無垢で、真っ直ぐな蘭様にいつの間にか心惹かれるようになったのです」
 公人の瞳は今にも泣き出しそうに揺れている。
――罪の告白を苦しんでいるように。
「小姓になり、すぐに体を求められると思いましたが、蘭様は一向にそのような気配がない。仕方なく、僕から仕掛けました。いいえ、僕自身が本当は抱きたかったのです」
 公人はそこまで言うと、額を畳につけて申し訳ありませんと力なく呟いた。
「蝶姫から言われて覇王から離そうとする。その役目でしたが、僕自身がもう蘭様から離れられません。捨てるというのであれば、命を断ちます」
 体を震わす公人の背中に蘭はそっと手を置いた。
――この人は本当のことを言っている……
 それが分かり、蘭はようやく公人という人物を理解した気がした。
「公人君……命を断つなんて止めて。私も悪いの。人ではなく道具として見てしまっていた自分がいたのは本当よ」
 公人は蒼白な色を刻みながら、蘭の顔を見上げる。
「いいえ、蘭様。僕は道具で構わないのです。あなた様が望まなくてもずっと傍に置いてくだされば」
 公人の真摯な眼差しを見つめ、蘭は頬を撫でた。艶があり、滑らかな公人の肌。
――美しく、蘭だけに仕える公人
「ああ、蘭様。狂ったのは僕の方です。あなたの為ならこの命さえ惜しくない」
 蘭の手に公人の手が重なる。冷たくなった指先が悲しく思えて、全てを許そうと思った。
「どうやったら公人君の借金を返せるの?」
 公人を思い、その言葉に驚いた視線が飛んで来る。
「蘭様……なにをお考えでしょうか?」
 恐る恐る訪ねてくる公人に蘭はもう一度思いの丈を伝えた。
「借金があって身受けされているんでしょう? 私が救えるなら救いたいの」
 公人は軽く溜息を吐いて、無理だというように首を横に振る。
「借金の借財書はあるお方が持っております。それを返していただければ何とかなりますが。それは難しい話なのです」
「蝶姫じゃなくて?」
「はい、蝶姫は姉小路家の借金を返していただいているだけ。借財書までは管理しておりません」
 悲壮感を込めて呟く公人に蘭はもう一度問う。
「じゃあ誰が借財書を持っているの?」
 蘭の問いに公人は呻くように言葉を漏らした。
「……今川……義鷹様です……」
 その名前を聞いて蘭の目は大きく見開く。あの義鷹が借財書を管理している。
 雪から政の一部を担う、貴族の頂点の若様。
 きっと借金などの返済などの管理もしているに違いない。
「私が義鷹様に聞いてみるわ。借財書を返していただけるか。そして、私が公人君の身受け人になる」
 その揺らぎない決心に今度は公人がハッと顔を上げた。
「……そんな、蘭様にそんなことをしていただなくとも」
「もう決めたの。善は急げね。明日にでも義鷹様の屋敷を訪ねましょう」
「……蘭様っ」
 公人がまだ何かをいいたそうに口を開くが、蘭はそっと唇を人差し指で制する。
 そして、血のついた首筋に顔を落としてぺろりと舐め上げた。
「つっ……蘭様……」
 公人は首の傷を舐められて、痛みと官能めいた喘ぎを漏らす。
「こんな無茶はもうしないで。私を守ってくれる警護役でしょ?」
 公人の首から唇を放し、蘭は柔らかい髪を撫でた。
「……はい、この公人。蘭様の為に命を賭してお守りいたします」
 潤んだ公人の瞳を見つめ、蘭はやんわりと微笑む。
 ようやく公人の顔に色が戻ってくるのを見て、蘭は安堵の息を漏らす。
 月のない夜、二人は絆を深めてようやく笑顔を取り戻した。






 





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