河畔に咲く鮮花  




 
「おい、起きろ愚図。もう昼を過ぎてるぞ」
 蘭は眠りから目覚めると、肩を思い切り揺らしてくる男を寝ぼけなまこで見つめた。
 降ってくるのは、左右に違った美しい切れ長の瞳――。
 そこまで確認してから一気に脳は覚醒する。
 ここは、灰色の寒々しい部屋で、蘭を見下ろすのは監禁している首謀者の伊達正春だ。
「早く起きろ、飯ができてる」
 警戒しながら蘭はがばりと起き上がるが、春の言葉を確認するようにゆっくりと首をねじる。
――飯ができている、春はそういったように思えた
 テーブルの上には簡易ではあるが、どうやら本当に御飯の支度がされてあるようだった。
 漂ってくる香りをついくんくんと嗅いでしまい、春は一瞬だが呆れたような視線を向けてくる。
「お前は、犬みたいな奴だな。冷めるから早くしろ」
 行儀がなっていないと言われた気がして、蘭は白い頬を瞬時に赤らめた。春はいうだけ言って、くるりと背を向けてはテーブルへと向かい、どかりと椅子に腰を沈めた。蘭も恐る恐るベッドから下りると、春の傍へ寄っていく。
 テーブルの上にはオムレツにサラダとパンが用意されて、春は蘭を待たずにぱくぱくと食べていた。
「いつまでそこで見ているんだ。座れ」
 フォークを片手に春は向かい側の椅子を指し示してくる。蘭は戸惑いながらも言われた通りに春の真正面に座った。
「……これ、まさかあなたが作ったの?」
 蘭の席にも用意されてある食事を見下ろして、春に尋ねると僅かに眉を寄せて不機嫌そうに唇を引き結んだ。睨まれて蘭は肩を竦めると、慌てて春と同じようにフォークとナイフを手に取る。
 ふわふわのオムレツに添えられている、ウインナーを切ろうとしたが上手くいかずにかちゃかちゃと音を立ててしまう。
 焦りが生じて、思い切りウインナーを半分に切ったところ――
 もう半分が勢いよく皿からぽーんと飛び出て、綺麗な放物線を描き――春の皿へ転がり落ちた。 
 春のナイフとフォークを持つ手がぴたりと止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「……お前」
 春は怒りを刻んだ一言をこぼし、蘭を見えない力で威圧してきた。
「ひっ! ご、ごめんなさない。ナイフとフォークは苦手で……」
 春はすぐさま蘭からフォークとナイフを取り上げ、変わりに箸を無造作に放り投げた。 ころころと転がる箸を見て蘭は春をちらりと盗み見するが、本人は何事もなく食べている。
「あっ、ウインナー……」
 春が皿に飛んできたウインナーをぱくりと食べて、蘭は思わず声を上げる。それでも春は静かに食べ続けるので、蘭もそれに倣い食事を続けた。
「今日はアールグレイでも淹れるか」
 食事を終えた春はすぐさま紅茶を淹れてくれる。冷たくて残忍な男だと思っていたのに、なんだか至れり尽くせり世話をされている気がして複雑な気持ちになった。
 紅茶を一口飲んで蘭は体に広がる温かさを感じて、ほぅっと小さな溜息を吐く。春も優美な所作で飲んでいるが、どことなく上の空な気がした。
 虚空を見据えたまま片手にカップを持って止まっている。
 まるでそこだけ時間に取り残されたみたいな、触れてしまってはいけないような空間。
 何かあったのかと思いながら蘭はもう一度、高級な紅茶を口に含んだ。
 ぼんやりそれを見ていると、急に現実に意識が引き戻される。ぴんぽん、ぴんぽんとチャイムを鳴らす不協和音がこの静かな空間を壊した。
 春は視線をドアに向けてカップを置くと、けだるそうにインターホンのボタンを押す。
「正春、やっと掴まえたわ」
 インターホン越しに聞こえてくる明るくて甲高い声がこの寒々しい空間に色を添える。春は溜息を一つ落とすと、眼帯を装着してドアを開け放った。
「もう、いつかけても電話取ってくれないし、心配していたのよ」
こつこつとヒールを鳴らして現れた女性は華やかで派手な女性であった。綺麗な洋服は蘭から見ても高級品で、手には有名なデパートの紙袋を提げている。
「これはこれは、玲子様。ご機嫌麗しゅうございます」
 春は玲子と呼んだ女性の片手を持ち上げて、きめ細やかな手の甲に唇を落とした。
 態度がまるで違う春に唖然として、蘭は箸を持ったままの格好で固まってしまう。
「……あら……そちらの方は……?」
 春の肩ごしから玲子の顔が覗き、その麗しい顔に瞬時にだが険しい皺を刻んだ。ごくりと唾を飲み込み、蘭は何度も瞬きを繰り返す。
「あの、私は――」
「学園での男友達ですよ、玲子様」
 ――男と紹介されて蘭は自分の姿に視線を落とした。男装している為に蘭の制服は男物である。
 髪はほどいているが、玲子には男に見えたのだろう。すぐさま柔らかい笑みを浮かべて、春に視線を戻した。
 化粧もしておらず、髪も起きたてである為に乱れている。玲子から見ればそのような身だしなみの女性が周りにいないのだろう。
 あっさりと春の嘘を信じたようで、目の前で楽しそうに笑っていた。
「ありがとうございます、これはいただいておきます。すみませんが、こいつと出かける予定がありますので」
 春は紙袋を取ると、まだ帰りたくなさそうな玲子の肩を抱いてドアまで見送る。玲子を追い返し、しっかりと施錠をした春は面倒臭そうに紙袋をベッドに放り投げた。
 その変わりように蘭は呆然として、春を見つめるだけだ。
「……なんだ? 文句がいいたそうだな」
 その視線に気がついたのか春は椅子に座っては軽く睨みつけてくる。
「……全然、態度が違う……」
 蘭がぽつりと放つと春はくっくっと喉の奥を鳴らして笑った。
「しようがないだろ、あっちは覇者の名家の娘。怒らせたら、家同士の関係が面倒だ」
 春は悪びれもなくそれだけを言うが、蘭は納得が行かずに紅茶をがぶりと一気に飲み干す。それを見ていた春は口の端をにやりと上げるとおもしろそうに笑った。
「この本性を出せるのは数人しかいない。その一人が下虜だとはな。くくくっ」
 何がおかしいのかが分からずに蘭はますます眉を不快にしかめる。
「下虜だから、本性を出せるんでしょ。私が覇者の名家の娘ならあなたも今のように雅に物を言うんでしょうね」
「お前が……覇者の娘? ふんっ、全く想像がつかないな」
 皮肉げに言ってきては春は温くなった紅茶を一気に飲み干す。
「権力が欲しいか? それなら俺がお前に与えてやろうか、蘭」
 下虜と言っていた春が蘭を名前で呼び、その切れ長の瞳に妖しき光を宿した。明らかに空気が変わると、ぴりぴりと肌を刺すようなひりついたものを感じ取って、思わず呼吸が乱れる。
「……もし、権力を持ち下虜では想像もつかない金が手に入ったらお前ならどうする?」
 春が何を考えているかが分からないが、どうしてかその瞳を逸らすことは出来なかった。蘭は狭い脳の中で考えあぐねて、思いついたことを口からぽろりと滑り出す。
「お金があるなら、家族の家を綺麗にしてあげるわ。権力を持ったなら身分制度を廃止する」
 それを聞いた春は一瞬だが呆気に取られた顔をすると、すぐさまくっと忍び笑いを漏らした。
 それはどんどんと大きくなり、いつの間にか部屋に鳴り響くほどの笑いとなる。
「有り余る金があるのに、家族の家を綺麗にするか。小さい願いだな。それに身分制度をなくすって……お前、他の覇者や貴族の前で言ってみろ。あっという間に殺されるぞ」
 春の馬鹿にした言い方に蘭は椅子を弾いて立ち上がり、怒りを全身に刻ませた。本当のことを言っているのに、あざ笑う春が腹ただしい。
「……理想論かもしれない。でもあなたに笑う資格はない! 権力者にしか出来ないことを覇者は自分たちだけの為にしか使わない。それを馬鹿にするなんておかしいわ」
 春はようやく笑いをぴたりと止めて、立ち上がったままの蘭を振り仰ぎ冷めた瞳を向けてくる。


 残忍で凍るような眼差し――


 その冷たい瞳はこの部屋の空気を一気に下げ――蘭はぶるりと背中を震わせた。怒りに任せて思いの丈をぶつけてしまったことを後悔してしまう。
相手は覇者であり、元はといえばこの身分制度を定めた者達だ。
 ピラミッド階級のトップに座する覇者が、甘い蜜を吸い贅沢に暮らす生活を壊されたくなどない。
 そのような相手に命知らずなことを言ってしまい、蘭の怒りがさぁーっと音を立てて去っていく。 
 春は僅かに目を細めると、肩を竦める蘭を見て唇を動かせた。
「……お前は変わらずにいられるのか」
 吐き出された言葉の意図が分からずに、蘭は眉根を寄せる。
「権力を持ったとしても、その瞳は曇ることを知らず純真なままでいられるのか」
 何を言っているのかが分からず、蘭はますます険しい皺を眉間に刻ませた。
「愚図め。お前が覇者もしくは、貴族の妻として娶られても権力に溺れないのかって意味だ」
 想像を絶する内容で分かるわけもないではないかと蘭はむっと不快そうに顔をしかめる。
 覇者、もしくは貴族の妻になどと――なれるはずもないのに。
「そんなの分からないわ……なったことがないんですもの」
 その言葉に春は冷たい瞳の奥を瞬時に和らげて、また愉快げにくっくっと肩を揺らせて笑った。
「それもそうだ……だが、それでいい。想像だけでも権力を持ったらならばと、人は様々なことを思い浮かべる。実際に商売人や一般市民の階級の娘が上流階級に嫁入りして人が変わったのを腐るほど見てきた」   
「……全てが変わってしまったってこと?」
「そうだ。気立てのいい優しい娘も、上流界に入り、あっという間に権力に溺れて、己の煩悩のまま生きる。自分より下の者には目もくれず、上の者には媚を売る。今まで相手にされなかった覇者にも色目を使い誘ってくる」
 春がにやりと笑い、唇の隙間からちらりと赤い舌を覗かせる様がやたら淫靡に見えて、ぞくりと身体が震える。     
 きっと春も上流界に仲間入りした娘に誘われた口なのであろう。
 それでも蘭には権力に溺れることなど想像が出来ない。

 権力を持てば、ただ身分制度を廃止する――そのある意味極端で突飛な想像はさぞかし春を楽しませたであろう。

 美しい宝石や贅沢な食事、煌びやかなパーティに覇者を誘う遊興、きっとそれがお金を手に入れた娘達の普通の感覚に違いない。
 今更、壮大な事柄を述べた自分が気恥ずかしくなり、頬を赤く染める。
「……少し出かけるか」
 春はうすら笑いを浮かべると、がたりと勢いよく立ち上がった。
「お前に権力の一部を少しだけ見せてやる」
 一緒に出かけると聞こえた気がして、蘭は思わず首を傾げる。監禁されているというのに、連れ歩くというのが理解出来なか
った。この男は蘭が逃げると想像しないのか――そう思ったが甘かったのは蘭の方である。
 春は手錠を自分の左手にかけて、その一方の輪を蘭の右手に容赦なくかけると、にやりと不敵に笑った。







 





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