河畔に咲く鮮花  




 チカチカと光る携帯電話の液晶画面に網膜を刺激され、春の意識は眠りから覚醒すると瞼をゆっくり開ける。
 鳴り止まない携帯電話に手を伸ばして、春は液晶画面を覗き、数秒だが考えあぐねる。それでも電話の相手は春が取るまで交信を続けるようだ。春は深夜に関わらず電話をかけてくる相手に、今は煩わしさを感じながら軽い溜息を吐き出す。
「……どうした?」
 春は電話を耳に充てて相手の沈んだ声を静かに聞いた。
「……正春……行く日が決まったわ」
 春はそれを聞いた瞬間、眉間に皺を刻んでがばりと上体を起こした。
「豊臣のところへ行くのか、駒乃」 
「……そうね」
 春の携帯を持つ手がぐっと強まり、肌寒い空気の中に怒気を孕ませる。
「正春……私が行けばあなたと敵になる。従姉妹として、忠告しておくわ……もう、止めなさい」
「ふざけるな、駒乃。お前も豊臣秀樹の元へ行くことはない。どうせ正妃候補じゃないんだろ?」
 春は哀れな従姉妹を想い、意思に背けと忠告をするが駒乃は静かな溜息を落とすだけだ。本当は春も分かっているのだ。
 御三家の一つ、西の勢力者の豊臣に婚約者候補として、呼ばれたら断ることなど出来ない。
 いい話であるのは間違いないが、納得が行かないのは正妃候補ではないということだ。
 豊臣秀樹と同じ学園の春は、その手の早さと軽さを十分すぎるほど知っていた。それに元々、浅野家の娘、みねねが豊臣家の決めた本命の娘だということも知っている。
 それなのに、秀樹はそれに飽き足らず目をつけた娘を次々と婚約者候補などと回りくどい言い方をしては本家に呼び寄せていた。
「お前には小さい頃から世話になっていた。目が悪い俺にも分け隔てなく声をかけてくれたのは、身内では駒乃だけだ。だから、側室など辛い想いはさせたくない」
 二歳上の駒乃は父の姉の最上家の娘であり、類まれな美貌を持ち合わせていた。覇者の娘にしては珍しく身持ちも固く、人を蔑むようなこともしないが、それが周りの娘と合わずどこか浮いた存在でもある。
 それでも春とは気が合い、義弟よりも近い存在だった。駒乃は芯の強い娘だ。春の実の母のように側室の虐めにあうようなこともないだろう。
 それでも――秀樹が何人もすでに娘を西の本家に呼んでいた。その中で人と足並みを合わすことをしない駒乃が輪から外され
ることなど目に見えている。
 きっと、今日電話をかけてきたのは別れの挨拶なのだろう――。
「行くな、最上を捨てて俺の元へ下れ」
 春はもう一度、最後になるであろう頼みを駒乃に伝える。
「御三家の一つ、豊臣に逆らえるわけがないわ。知っているでしょう」
 間髪いれず駒乃はそう言い返し、今度は長い溜息を電話の向こうで漏らした。
「もう少し、待っていろ。俺が織田から覇王の記を奪い、権力トップに立つ」
「……もし、それが成功したら……正春が私を貰ってくれるの?」
 いつも強気だった駒乃の声に涙混じりの調子が含まれ、春は初めてその想いをしる。はっと目を見開き、携帯電話を持つ手が僅かに震えた。
 駒乃を実の姉のように慕ってはいたが、恋情とは別のものである。その数秒の間で、駒乃は春の想いは自分にはないと悟ったのであろう。
「――さようなら、正春――」
「駒乃っ!」
 ぷつんと虚しく切れた電話は、駒乃との間柄も途絶えた気がして――春は喪失感に襲われながら静かに目を閉じる。
 そこには怒りだけではなく、自分の不甲斐なさも重なり、己の脆弱さを呪った。駒乃にとってはこれは最後の賭けだったのだ。
 春が少しでも駒乃に愛という気持ちを持っていたなら、きっと豊臣秀樹の元へ行くことはなかった。
 それなのに春は駒乃を引き止めることが出来なかった。
「――くそっ」
 髪を乱雑に掻き上げて春は、長いまつ毛の翳りを白い頬の上に落とす。
――いつも、いつもこうである。
春が大事で、心を通わせる相手はみんな周りからいなくなる。
 その一番の始まりは春の母であった。
 春に生まれた息子に正春と名づけ、惜しみない愛情を向けてくれていた。優しく愛情深い母であったが、同時に繊細でもあった。
 目の病気を患った春は幼い頃に、母から眼帯を貰った。成長するにつれ、才覚も能力もその美貌も誰よりも長けている春だった
が、後継者候補からはあっさりと外された。  
 父は母を裏切り、第二夫人を伊達家に迎えた。後継者にもなる男を産んでは、側室の力は増す。義弟に甘い父は何をしても怒ることはしなかった。
 いたずらをした義弟を春が叱りつけても父はそれを庇い、母に教育が悪いと側室の前で怒鳴り散らした。その頃から春は父に対する怒りを覚え、堂々と虐めをしてくる側室をも憎んだ。
 孤立した中でも母だけは春の味方であり、このグレイかかった忌まわしい瞳も宝石のように綺麗だと褒めてくれた。
 春はその愛情だけで幸せを感じていたが、あっという間に崩れ落ちてしまう。
 母は神経も細く――元々は政略結婚で父の元へきたというのもあり、どこか本当に心を通わせていなかったのだろう。
 側室に虐められ、床に伏せっている間も、心惹かれた相手と結ばれなさいと口癖のように言っていた。
 その病気の見舞いによく来てくれていたのが、最上駒乃だった。
 二歳上だけだというのに、芯も強く真っ直ぐな性根の駒乃は周りからも認められるほどの美貌を持っていた。
 それでも春は小さい頃から見ていた従姉妹に姉としての感情しか持ち合わせていない。目のことがあっても、強くあれと教えてくれたのは駒乃だった。
 尊敬していた駒乃はいつでも春の味方であり、信頼のおける一人であった。眼帯の下の姿を見ているのは、母と従姉妹の駒乃、そして幼馴染の真田唯直だけである。
 少数だが心を通わすことの出来る相手がいてその時はまだ幸福に浸れる少年であった。
 けれども母は精神に負荷をかけ、いとも簡単にあの世へ逝く。
 それでも父は涙の一つさえ見せなかった。
 その頃から春の気持ちは沈み、このような世界を壊したいと思い始める。
 春というな名とは程遠い真逆の冷たい心になり、どんどんと気持ちは凍てついていった。


――力さえあれば


 織田家の嫡子、信雪は覇王の息子というだけで何もかもを待遇されていた。傍若無人に振舞うおうが、気に入らない奴をすぐに学園から追放しようが、誰も逆らえる者はいない。
 それがわがままな義弟と重なり、怒りの矛先はいつの間にか信雪に向いていく。
 一緒にいる豊臣秀樹は名高いプレイボーイで、気に入った娘にすぐに手をつける。
 徳川の家朝は甘ったれた子供で、無邪気に笑いながらその権力を思う存分に振りかざす。
 十五歳の元服と同時に脱童貞宣言などを言い渡す事態がいい例だ。徳川の名を使い、童貞を捨てる候補者を集うなど馬鹿馬鹿しいもいいところだった。
 だが、それと同時に群がる女共にも吐き気を催した。結局は権力のあるものがこの世を制する。
 あまりにもわかりやすい図式で、春はその権力争いのパワーゲームに自らも身を投じることを決める。
 唯も協力してくれると名乗りを挙げてくれ、春に心酔している伊達家の者も味方にいた。
 それでもまだ織田を失脚させるにはあまりにも兵隊が少なすぎた。
 機会があれば何度も刺客を向けたが、信雪は強運なのか命を落とすまでには至らない。
 その間も伊達家では義弟を後継にすることに余年がないのか、春の存在を父は消し去っていた。
 早くしなければ義弟は元服を迎え、成人したと見なされてしまう。その間に覇王の記を奪わなければと、焦燥だけが春を追い立てる。
春は――何度も、何度も暗い闇の中で道を見失いそうになり、身が凍えそうになる夜を越してきた。
 胸を押しつぶされそうになる日もあったが、何とか悲しみの淵から這いずりだした。
 それでも母を失った日の夜は――忘れもしない暖かく美しい春の日だったというのに、心は恐ろしいほど凍えていた。
 夜桜を振り仰ぎ、冷たい夜をこれまでも過ごしてきた。
 宵闇に舞い散る桜吹雪は、目を奪われるほど美しくて――同時に強烈な喪失感を春に抱かせた。
 人知れず、はらはらと桜の花びらが降り注ぐ中で、母に想いを馳せながら泣いたこともある。
 そのぐらい自分が身を投げたパワーゲームは、苛烈で心も屈しそうになるほど辛いものだった。
 だが権力争いで、否が応でも翻弄され、淘汰されていく母のような弱き者達を二度と作りたくない為に前進すると決めたのだ。
 権力トップに立つことを切に願い、一心不乱に進む毎日。
 それなのに、ふと立ち止まってしまう時がある。 
 それはまるで今日のような日――。
 季節は春ではないのに、あの夜と同じ気持ちを味わっている。
 姉と変わらぬ駒乃を繋ぎ止めることが出来なかった、悲しみと苦しみ。

 このような凍える夜に――誰かから与えてくれる暖かさを春は知らない。

 ふと指の先に触れた隣で寝入っている女を見下ろす。
 ――森下 蘭。
 下虜としり、戸惑いはあったが同時に愉快でもあった。駒乃とは違った芯の強さを持っているが、どことなく儚い娘。
 それでもこの娘は眼帯の下の顔を見ても、卑下することはなかった。
『綺麗だと思う――その瞳。まるで宝石みたい』
 いうことにかいて、母と同じことを言った蘭に一瞬でも心を動かされたことは否定できない。
「お前も――哀れな一人か――いや、それでも俺より温かい」
 覇王の記を持っているなど、蝶子から吹き込まれ蘭を監禁した。蝶子は表面はいつも余裕ぶる装いをしているが、本当はプライ
ドが高く、蛇のように嫉妬深い女だ。
 下虜が覇王になる信雪の傍にいるのが気に食わなかったのだろう。それで慰み者にしようとして、蘭を狼の檻の中に放り込んだわけだ。
 春は蘭を静かに見下ろし、そっと涙の跡を走らせる頬に手を添えた。
「……温かい……」
 下虜だが奇妙で変な女だ。覇者を見ても臆することはなく、堂々としている。ただの無知ということもあるが、それでもどこ
か居心地がいい。
「同情だとはっきりいいやがって」
 蘭に言われたことを思い出し、春はふっと微笑みを浮かべる。
「普通は胡麻をするもんだぞ。誰でも権力者には媚を売る。馬鹿な女だ。そんなに正直だとすぐに身を滅ぼすぞ」
 そこで春は一旦言葉を途切らせて――悲しく眉を寄せる。
「俺の母や――姉と慕っていた駒乃のように権力の犠牲になる。下虜などもっと酷い目にあうぞ」
 春が頬を撫でながら語りかけても蘭は静かに眠っているだけだ。
「ふん、馬鹿面して眠ってやがる。すでにこんな目にあっているというのに……」
 蘭にしたことを思い出し、春は少しだけ肩の力を抜く。額にかかった前髪を払って春はぽつりと小さく放った。
「済まなかった――俺も権力主義者と同じことをお前にした」
 そう言うと、蘭の口元が少しだけ緩んだような気がした。
「くくくっ……ますます馬鹿っぽい顔だな。おい、俺がお前を娶ってやろうか……退屈せずにすみそうだ」
 春は自分が言った言葉に一瞬だが戸惑いを浮かべるが、すぐさまにやりと笑う。
「それもいいな。俺が権力トップになった暁には――お前を貰うのも一興だな」
 春は蘭の白い額に自分の唇を落とし、名残惜しそうに離していった。
「妻にしたら幸せにしてやるから。だから――こんなに心が凍えそうな夜には俺を温めてくれ」 
 春はもう一度、布団に潜り込んで蘭の柔らかく温かい体を後ろから抱きとめる。
「――それだけで、十分だから」
 春は喪失感に苛まれながらも、蘭を抱き締めることによって徐々に気持ちが和らいでいった。

――久しぶりに温かくなり、春は凍える夜を安息に越せそうで。

 柔らかい蘭の髪に唇を押し付けながら、春は深い眠りへとついていった。






 





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