河畔に咲く鮮花  



 
* * *

「愚図め、まだ着れないのか」
 蘭はフィッティングルームの中で、外から声をかけてくる春に気づかれないようにしかめっ面をした。
 春が手錠を外してくれればすぐに洋服を着れるものの――そこまで思い、蘭は全身に映る自分の姿を見て、思わず顔を近づけて見てしまう。
 化粧をさせられた蘭は、次に高級なブティックに連れられて、買えないような洋服を試着している。
 桜を思わせるような淡い薄紅のワンピースは、動くたびに裾がひらりと翻った。
 ブラッシングされた亜麻色の髪は緩やかに背中まで伸びている。大きな瞳の色彩は深い濃緑に輝き、長いまつ毛に縁どられていた。化粧をしてはっきりと浮き出た鼻筋に、ふっくらした艶を帯びた唇。
 違う人物を見ているようで、蘭は何度も目を瞬いた。下虜でも少しは化粧をして、綺麗な洋服に身を包むと変わるらしい。
 鏡を見つめていた蘭の右手はぐいっと引っ張られて、強引にフィッティングルームから出される。
「いつまで待たせるんだ、遅い――」
 春は蘭の着飾った姿を見て、驚いたように目を見開き、言葉をなくした。じっと見つめてくる春に戸惑い、やはりこの姿は似合わないのかと不安になる。
「――行くぞ」
 春はくるりと背を向けて癖になっているのか、かつかつと革靴を鳴らして歩き始めた。素っ気ない春の態度に、似つかわしくない姿を世間の人に見せたくないと蘭は顔を俯かせる。
「……俺の隣を歩くぐらいには見れる。存外、悪くはない」
 春なりの褒めの言葉を聞いて、蘭はばっと顔を上げる。
「いつまで後ろを歩くつもりだ。隣へ来い」
 春が僅かに顔をねじり、左手を持ち上げると繋がれた手錠が引っ張られる。蘭の体は自然に春の隣に並んで、何を考えているか分からない横顔を見つめた。
 その口元の端はなんだか楽しそうに吊り上がっていて、今度はどこに連れて行かれるのだろうとそっと溜息を吐き出した。

***
 
 次に連れて来られた場所は、テレビの向こうで見たことがある高級ホテルと融合している水族館であった。
 人気の場所と聞いたことがあるが、下虜の蘭がこのような場所に足を踏み込めるはずもない。初めてということもあって、蘭はあっという間に目を奪われてしまう。
 ドーム型に巡らせている水槽は天井いっぱいに広がり、その中を悠々と魚が泳いでいる様は、幻想的で蘭の目に輝きをもたらせた。青い光の中で泳ぐ色とりどりの魚は綺麗で神秘的に映り、その一つ一つに感動してしまう。
「凄い………綺麗……」
 我も忘れて蘭はその美しさに見入るが、他に客がいないことにふと気がついた。このくらい有名な場所で、しかも今日は休日のはずだ。館内に春と蘭しかいないとは、さすがにおかしいと思ってしまう。
「ねぇ……今日は休館日なの……?」
 不思議がって聞くと、春は水槽の青い光を顔に浴びたまま、視線だけを向けてきた。
「貸切りにした。ここのホテルも伊達家のものだ。そのぐらいはたやすい」
 口元に皮肉な笑いを刻むと、また春は手錠を引っ張り歩き始める。

――これが、権力の一部

 人気の水族館を休日にも関わらず貸切りにして、高級ブティックで服をしつらえる。これが現実ではないような気がして、蘭は軽く目眩を覚えてしまう。
 それでも春は飄々として歩くと、メインである場所に来て誇らしげに口元に笑みを浮かべた。
 蘭は春の視線を追って、それを見上げた瞬間に息を呑む。
 高さは天井まで届き、横幅は室内一杯に広がる、巨大な水槽はあまりにも圧巻すぎて思わず口を開けて見入ってしまう。
 春はふっと笑うと蘭を引っ張り、その巨大な水槽の目の前に立つ。
 真っ白い砂地には珊瑚や岩場が広がり、光が差し込んでは魚達の色鮮やかさを引き立たせていた。
 数え切れないほどの魚が回遊している様は、圧倒的で目を奪われてしまう。
「凄い――」
 それだけしか言葉に表すことが出来ず、蘭は水槽を自由に泳ぐ魚をただ無心に見つめていた。
肩を並べて立つ春も食い入るように魚を見上げて静かに放つ。
「この水槽の中には様々な種類の魚がいる。サメという強い捕食者もいれば、捕食される弱い魚も」
 魚のうんちくかと思えば、違ったことを喋ってくる春に不可解に感じながらも蘭は水槽を見つめていた。確かに種類が違い、様々な魚がこの中では泳いでいる。でも、それがどうしたのだろうかと蘭は首をかしげた。
「それでも争うことなく、食べられることなく、共存している。なぜだと思う? それはここを管理している者がそうさせないように統制しているからだ」
 ようやく春の言いたいことが分かった気がして、そこで初めて顔をねじった。それでも春は水槽に視線を向けたまま――はっきりと告げる。
「人の世を統治する――それを織田信雪が出来ると思うか」
 春が名指しした名前に蘭は虚を突かれて、目を大きく見開いた。

 ――雪が創る世界――

 戴冠式を終えれば、雪は覇王となる。春は水槽の中にいる様々な種類の魚を人の世に例え、そう言っているのだろう。
 食う側である強き力の覇者と――真逆に生きる食われる弱き力の蘭達。
 それだけではなく、身分制度がある限り、水槽の中で泳ぐ魚達のように共存することは出来ない。
 その境界を崩し、雪が創る世界に安寧と平定は有りうるのかと春は言ってきている。
 蘭が本気で言った――身分制度を廃止するという言葉を春は冗談ではなく聞いていたらしい。
 それも昨日、今日のことではなく随分と前から考えていたように思えるのは勘違いだろうか。
 真意の見えない春の横顔はどこか寂しそうで、この水槽という青い海の中に消えていってしまいそうな――そんな気がして。
 強烈な光が差し込み、水槽の中に柱を立てて春の顔を照らし上げる。ゆらゆら揺れる水があまりにも儚く悲しげで、それを映りこませた春の瞳が同じように揺らめく。
 それがまるで泣いているように見えて、なぜだか蘭も泣き出したい気持ちになった。
「――もう、止まれない。俺もこの回遊魚と同じように。一生、泳ぎ続けるしかないんだ」
 春の堅い意思を聞き、蘭は拳を胸の前に当てて、静かにまつ毛を伏せた。春は雪に対して敵対視しているのを知っている。
 織田家の失脚を狙い、自分自身が権力トップに立ち、この世界を統治することを切に願っている。
 泳ぐことを止めれば死んでしまう――そんな回遊魚と自分を重ねて春は苦しげな色を瞳に滲ませた。
 春の視線の先には思い描く世界があるのだろう。蘭には計り知れない思いを知り、胸を切なく締め上げた。
 蘭はもう一度視線を振り仰ぎ、水槽の中で自由に泳ぐ魚を見つめる。

――雪。あなたが思い描く世界はどんなものだろう

 このようにみんなが自由に泳いでいても、ぶつかることがなく争いのない世界を創ってくれるのだろうか。
 それを遠くから見ることぐらいは、許してくれるよね――雪。
 蘭はその思いを胸に秘め、泳いでいく回遊魚を静かにいつまでも見つめていた。 

***

 水族館を出た蘭はクルーザーに乗せられ、海の上で豪華な食事を食べてから、元の寒々しい部屋に連れ戻された。
 今日一日だけで、夢のような世界を春から与えられ、感覚が麻痺してしまいそうになる。
 これが毎日続くのであれば、確かに価値観が狂ってしまうだろう。それも慣れていない商売人や一般市民の階級の娘が、おいしい蜜を味わってしまえば元に戻れなくなる。
 自分というものを見失ってしまいそうで、贅沢な世界に溺れてしまうことを想像すると怖くなった。
 けれども不慣れなワンピースを脱ぎ捨て、化粧を落とし、いつもの制服に身を包むと下虜に戻る。
 やはり自分はこちらの姿の方が居心地がいい――そう思いながらようやく外されて、手錠の跡が残る手首を軽くさすった。
「今日は疲れたな、久々に羽を伸ばして遊んだ」
 春はごろんとベッドに横たわり、もう見せても慣れたのか眼帯を外す。
「来い」
 春は左右に違った瞳の色を向けてきて、そう一言だけ尊大に言い放った。
「待たせるな、愚図」
 春に何かをされるのではないかと蘭はつっ立ったままで身を固まらせる。それに気がついたのか、春はくっと口の端を吊り上げた。
「何を考えている? いやらしい想像でもしていたのか、淫乱め」
 そう言われて蘭はかっと顔を紅潮させて、反発しようと口を開こうとした瞬間、春がベッドから飛び降りた。
 いつもけだるそうに歩くのに、こんな時に限って獣のような俊敏さを見せる。
 あっという間に蘭の目の前に立つと、強引に腕を取られてベッドへ連れて行かれた。 
 力任せにベッドに押し込まれると、春は昨日と同じように蘭を抱き込む。
「お前は……温かい……凍えそうな夜は……このぬくもりが心地良い」
 春はそれだけを紡いで、疲れていたのかすぐに眠りに落ちた。
 しっかりと背中に回された腕から逃れることが出来ず、蘭は諦めの溜息を吐き出して、自らもゆっくりと意識を沈ませていった。






 





37

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next /  back

inserted by FC2 system