河畔に咲く鮮花  



 
 
秘密の友達

  いちるは伊達政春に会った日から、なんとか稲穂を思いとどまらそうと画策していた。稲穂はともに意識が向いていて、いちるの言うことを聞く余裕はないようだ。
 いちるは稲穂と別で動く日もあり、なんとか元凶になっている蘭のもとへ行こうと決める。正面から行っても執事の徳山にやんわりと断られ入ることができない。
 そうするとやはり裏口からになるけど、門の前には警備員がいてこの前のように顔パスで入ることは叶わない。
 となると。
「このいちる様を甘く見るなよ」
 いちるは防犯カメラから死角になっている場所を見つけ、壁の前に別邸から持ってきた小さな椅子を置いた。それを土台にし、壁に手をかけてひょいっと登る。
 そして本宅の裏庭へと飛び降りた。
 とっぷりと日も暮れているので、庭師たちは仕事を終えて帰っている。たまに見回りにくる警備員の時間も大体だが把握していた。
 垣根の間を縫うように小走りし、花が咲き乱れる園路へとやってくる。
 白亜の建物が姿を現し、庭に面した二階のバルコニーを見上げた。カーテンは閉まっているが、明かりが漏れている。
 家朝は会合でいないと、スケジュールも押さえていた。
 だったらあの部屋には稲穂に似ている蘭という女性だけのはずだ。いちるは意を決して庭に落ちている小石を拾うと、窓に向かって放り投げた。
 こつん、と当たり手応えが感じる。
 一度では分からないだろうと、この作業を何度か繰り返した。
 何度も繰り返すとカーテンの向こうで影がゆらめき、そっと開かれた。いちるは怪しい者ではないと、大きく手を振る。
 すると、窓を開けて彼女がバルコニーに出てくると、驚いたようにいちるを見下ろす。
「あ、あなたは?」
「前に一度だけ来たの覚えてるかい?」
「ええ。とも君の客人でしょ。そう聞いたわ」
 客人。ともはそういう風に蘭に言っているようだ。確かに間違いではないけど、それにしてはよそよそしい言い回しに思える。
「ね、出て来られない?」
「え?」
「あんたと話をしたいと思ってさ」
「正面玄関から来ればいいんじゃ……?」
「ちょっと理由があってね。あんたの方から出て来られないかって」
「徳山さんにどこに行くか聞かれちゃうし、多分出られないと思う」
「あー、分かった、だったらアタシから行く」
 思ったより警護が固いと悟ったいちるは、目の前にある大木を見上げた。枝が太く、足場も思ったより多くある。腕まくりをして、大木に足をかけては一気に登った。
「え? え? 危ないよ」
 蘭が心配して身を乗り出してくるが、いちるはふっと笑う。
「大丈夫だって。アタシにかかればこんなの朝飯前」
 いちるはひょいひょいと登って、あっという間に蘭のいるバルコニーに到達した。
「ちょっとそこ、どいて」
 蘭が一歩後ろに下がったのを見て、いちるは勢いよく枝を蹴りバルコニーに飛び降りた。
「ごめん、ごめん、驚かせた?」
「う、うん」
 驚きすぎて目を丸くしている蘭を見ながら、いちるは服についた葉っぱを振り払う。
「あの、部屋に入る?」
「ああ、そうだな。あんたと話をしているところ、見回りの警備員に見られたくないし」
「うん、どうぞ」
 蘭はいちるに対してどう接していいか分からないようで、おずおずと部屋に招き入れた。
 まぁ、びっくりするよな。
 いちるはなるべく警戒されないように満面の笑みを見せながら、蘭の部屋に入った。
「……凄いな」
 いちるが蘭の部屋に入った瞬間、自然に声に出てしまう。白を基調とした高級な調度品がずらりと並べられているのを見て、呆気に取られてしまった。
「うちらの部屋も凄いけど、こっちの方が上回っているな」
「そうなの?」
「そうなの、って価値が分からないのかよ」
「う、うん。とも君が設えてくれたから、その、私はよく分からなくて」
「家朝様がこれを全部……?」
 いちるの胸にじわじわと嫌な予感が広がっていく。稲穂には、前覇王の花嫁として保護されていると言った手前、なにがなんでもそうであって欲しいという願望がある。
 それが分かれば、稲穂も嫉妬心を抱くことなく伊達を逃がす算段なんてしないだろう。
 そう思いながら部屋を見渡していると、調度品の中に浮いたものが部屋の隅に置かれてあった。
「ねぇ、あれも家朝様が用意したの?」
 いちるが指を差すと、蘭がああ、と目尻を下げて笑う。
「堅苦しすぎるのは居心地悪いって言ったら、大きなベアのぬいぐるみを持ってきてくれてね。可愛いでしょ」
「そう。あれも家朝様が……」
「あ、よければここに座って」
 蘭はどことなくうきうきとした様子で、豪奢なカウチソファにいちるを促した。
「あ、どうも」
 いちるはさりげなく蘭の様子を見ながら、ソファに腰掛ける。
「インスタントの紅茶しかないけど、いい?」
「なんでもいいよ」
「分かった、待ってて」
 それにしても。なんで蘭はこんなにもすんなりといちるを部屋に上げて、嬉しそうにしているのだろう。
 彼女は本当に前覇王の花嫁なのだろうか?
 接していると、そこらにいる一般の女性と話しているような感覚である。威厳もなければ、尊大な態度もしない。
 斎藤蝶子を退けて上り詰めた下虜だから、相当の遣り手か計算高い女、とばかり思っていたのに。なんだか拍子抜けしてしまい、ソファに深く身体を沈める。
「はい。どうぞ。後は、非常食用にお菓子を隠し持っていたんだ。これも、食べて」
 蘭は二人用の紅茶と、引き出しから隠していた洋菓子を出していちるに差し出した。
「隠し持つって、なんでわざわざそんなこと」
 そんなのメイドに言いつければ、深夜でも用意してくれる。
「だって、夜中にお腹が空いたら食べられるでしょ。メイドさんを呼ぶのも悪いし、私がキッチンに行けば、他の人を起こしちゃうかもしれないし」
 蘭の考えを聞いて、いちるはがんと頭を殴られるようなショックを覚えた。いちるは覇者の娘らしくないと言われていたが、そんなことはない。
 蘭とは根本的に考えが違うのだ。
「貧乏くさいって呆れた? 私、下虜出身だから」
 少しだけ自嘲気味に笑う蘭を見て、いちるは何度か目を瞬かせた。
「本当に下虜なの?」
「うん。義鷹様が教えてくれたから」
「義鷹様?」
「あ、義鷹様っていうのは貴族のトップの人なの。私、身売りされて嫌な人に買われちゃったんだけど、義鷹様に助けてもらったのよ」
「え、ちょっと待って。あんた、今川の若様と知り合いなの」  
「うん。そうだよ」
 それを聞いてくらっと目眩がしてしまった。話が追いつかず、整理する時間が欲しい。
「だけど、そこから色々あったみたいで、私記憶が一部すっぽりと抜けているんだ。だから、義鷹様にも迷惑をかけていて」
「……え?」
 さらに追い打ちかけるように、蘭の口から紡がれる言葉に放心してしまう。
「記憶が……ない?」
「うん。そうなんだ」
 ぱっと咲いていた花がみるみるうちに萎れていくように、蘭がしょんぼりと肩を落とす。だけどすぐさま顔を上げて、まっすぐにいちるを見た。
「ね、それよりあなたの話を聞かせて。お名前はなんて言うの?」
 そこでいちるは自分の名前を言っていないことに気がついた。
「私は雑賀いちる。この前一緒にいた子は本多稲穂っていうの」
「いちるさん?」
「いちるでいいよ」
 そう返すと、蘭が嬉しそうににっこりと微笑んだ。その綺麗な笑顔に、いちるの胸がどきりと跳ね上がる。
 確かに伊達の言うことが分かる気がした。稲穂に似てはいるが、なんというのだろうか。近くで見れば見るほど、稲穂とは違うと分かる。
 彼女はとても綺麗だ。
 いちるには分からないほど多くの傷を負っているのだろうけど、それすら凌駕するほどの強さを持ち合わせている。少しばかり不安を見せる瞳の奥には、どこか前をまっすぐに見つめているひたむきなものも感じて。
 弱い部分も強い部分も、全てを合わせたしなやかさがあるというか。
 清廉のように見える中に、人を魅了せずにはいられない艶やかさも彼女にはある。
 アタシが男だったら、惚れるのかなぁ……?
 ぼんやりと考えていたら、蘭がいちるの目の前で手を振っていた。
「いちる、聞いてる?」
「え、なに?」
「私と友達になってくれない?」
「え……」
「ごめん。唐突だったかな。私、外に出られないから話し相手が欲しくて」
「外に出られないってどうして?」
「私を守るためって言われてね。外に出られるにはもう少し時間がかかるみたい」
 それをどう捉えればいいのか、いちるには分からなかった。
 彼女が前覇王の花嫁だから、外に出したら狙われる可能性がある?
 だけど今は覇王である徳川家朝に保護されているのだ。国のトップに保護されているのに、そんな不安要素があるのだろうか。
 前覇王だって世間では死んでいる、と噂されている。彼を狙っていた伊達政春は捕まっているし。それに蘭のことは徹底的に前覇王が秘匿していたから、顔を知る者などほとんどいっていいほどいない。
「どうしたのいちる?」
「あ、いや、ちょっとね。考え事」
 うーんと、唸りながらいちるは蘭の様子を見つめる。彼女は一部の記憶がすっぽりと抜けていると言った。それを聞くとなんとなく質問するのを躊躇してしまう。
「あのさ、今の覇王は徳川家朝って知っているよね」
「……うん。それは知っていたよ。人魚の里ってところにいた時に、テレビで観ていたから」
「じゃあ、その、織田信雪って男のことは?」
「え……えっと」
 その名を告げた瞬間、蘭の様子が明らかにおかしくなる。白い額に汗が滲み、彼女の細い指がかたかたと震えだした。
「悪い、やっぱりなんでもない。忘れて」
 思った通りだった。蘭は前覇王のことを忘れているのだ。
「ほら、これを飲んで」
 青ざめた蘭に紅茶のカップを持たせて一口飲ませる。しばらくするとようやく顔色が良くなり、いちるはほっと胸を撫でおろした。 
 この様子では伊達政春のことも覚えていないのではないのだろうか。
「あのさ、家朝様のことも記憶になかったの?」
「うん。とも君は私のことを知っていたけど、私は覚えていないの。ここ最近の記憶は人魚の里からかな。そこに義鷹様が訪れてくれて、その後覇者の人に見つかって、人質にされた後、また義鷹様に助けてもらって」
「あんた、大変だったんだね」
「そうだね。下虜だから仕方ないっていうのもあるけど」
 蘭は長いまつ毛を伏せて、首にかけてあるネックレスを指先でいじった。その時、襟が大きくくつろぎ、彼女の滑らかな首筋に赤い痕があるのに気づく。
「その怪我、どうしたの?」
「あ、これ? 覇者の人の家にいた時、その人の友人に首をしめられたことがあって。爪で傷がついちゃったみたい」
 表情を曇らせた蘭を見て、いちるは素直になんでも口にする自分を呪った。
「ごめん」
「どうしていちるが謝るの? いちるのせいじゃないのに」
「分かっている。分かっているけどさ」
 そんなことをする覇者に苛立ちを感じ、どうしていいか分からずにいたところ、ふわっと手を包まれた。
「ありがとう、いちるは優しいね。私は大丈夫だよ」
 にっこりと笑う蘭を見て、衝動的に抱きしめたくなる。
 全然平気じゃないだろ……。
 ばればれの嘘を見破ってしまうが、蘭が平気と笑うならそれを尊重すべきだろう。気を取り直して話を再開しようと思ったけど、時計を見て潮時だと悟る。
「そろそろ行かなきゃ。家朝様が帰ってくる。悪いけど、アタシが来たことを黙っていてくれない?」
「……うん、なにか事情があるなら」
「ありがと」
 いちるは蘭から手を引き抜き、ソファから立ち上がった。
「また、来てくれる?」
「ああ、いいよ。アタシも話をしたいから」
「嬉しい。私たち、秘密の友達だね」 
 無邪気に笑う蘭を見ると、いちるの決心が鈍りそうになる。
 アタシはスパイしに来ているんだよ。
 心に苦い味が広がっていくのを感じながら、いちるは身を翻してバルコニーに出ると蘭の前から姿を消した。











 


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