河畔に咲く鮮花  



 
 
稲穂と春

 稲穂はここのところあまり部屋からも出ず、ふさぎ込んでいた。それを慰めてくれるのは、親友のいちるだ。
「今日は、天気もいいからショッピングでもいくか?」
 稲穂はゆるりと首を振り、いちるの提案を拒否する。
「じゃあ、花でも買いに行くか?」
 稲穂の趣味である生花だったが、最近花器にはなにも飾られていない。いちるは参ったように顔を顰め、頭を掻きながら上を向きうーんと唸る。
「私、もう一度本宅に行きたい」
「そ、それはアタシだって同じ気持ちだよ。だけど、あの日から許可が下りないと入れないんだ。執事の徳山さんに言っても全然でさ」
「あの女性に会って話したい」
 なかなか会いに来てくれないともの顔が見たくて、裏口から本宅の庭へと忍び込んだあの日。そこのバルコニーで目にしたのは、見たこともない女性だった。
「分かっているけど、みんな教えてくれないしさ」
「どうして、あの女性は本宅にいたのかしら」
「お客様、じゃないのか? ほら、上杉が御三家に組み込まれるから、その縁者とか」
「本当にそうかしら」
 なんとなく違うと稲穂は思っていた。いちるの言うことが本当ならいいのだけど、上杉の嫡男と酒を交わしたのも、本宅ではなくこの別宅だったのだ。
 御三家になる上杉が来ても、本宅には上がらさないのに。
 本宅に通すほど大事な客が、上杉以外にいるのだろうか。
「とにかく、さ。気分を変えてどこか行こうよ」
 いちるに言われても外に出る気分でもなく、沈黙してしまう。自分でもいつまでもうじうじしても仕方ないと分かっているのに。
 とにかく本宅のバルコニーで姿を現したあの女性のことを聞きたかった。その答えを求めるように、忘れていた記憶が甦る。
「伊達政春」
 ふと閃いた名前に稲穂は一縷の光明を見出した気がした。
「伊達って、あんたあの男は」
「そうよ、いちる。彼がいるわ。別邸の地下室にいるんですもの。会いに行きましょうよ」
「はぁ? 嫌だよ。あの男怖いし。それに今もいるなんて分からないじゃないか」
「だったら、いるかどうか確かめに行きましょうよ。それでいなければ、すぐに戻るわ。ね、お願い」
 稲穂が頼み込むと、いちるは呆れたように大げさなため息を吐き出した。稲穂がここまで言えば、いちるは折れる。
 もう少しだと、両手を胸の前に組んでお願いと泣きついた。
「分かった。だけど、すぐに戻るからね」
「ありがとう、いちる」
「やれやれ、アタシはあんたに甘すぎるよ」
 いちるがついて来てくれることに喜び、稲穂は久々に笑顔を取り戻す。そうと決まったら早速いちるの手を引っ張り、部屋を出た。
 別邸には稲穂といちるしか客人はおらず、彼女たちの世話をするメイドが少数控えているだけだ。
 今は休憩中で、こちらから呼ばないと稲穂たちの部屋に来ないのを知っている。
 見つかるとメイドがともに密告して彼が直々に咎めにやってくるかもしれない。
 それで会えるなら、見つかってもよかった。
 少しだけ気が晴れて、稲穂の足取りが軽やかになる。あまり乗り気でないいちるの手を引っ張り、地下へ向かう鉄柵を開いた。
 錆びついてぎぃ、と嫌な音が響き、周りに聞こえるかと思ったが、それを気にする余裕はない。
 尻込みするいちるとは反して、稲穂は意気揚々と暗い地下室の階段を下りる。長過ぎる階段を下りきったところで、奇妙な懐かしさを覚える地下牢が見えてきた。
 以前と来た時と変わらず、カビ臭く陰気な雰囲気を醸し出している。
「もう少し、近くに行きましょう」
「い、嫌だよ、稲穂」
 うす暗い中では伊達政春がいるかどうか分からない。嫌がるいちるには悪いけど、彼女の手を引っ張り錆びた檻に近寄った。
「伊達政春さん、いますか?」
 目を凝らして地下牢の中を隅々まで見回すと、じゃらっと鎖の音がした。
「なんだ? 今日はやけに夕食が早いじゃないか」
少し疲れ切ったような声だが、響きだけはやたら強く感じる。暗がりから姿を現し、檻の前に伊達政春が立った。
「お前は……」
 春が片方だけ覗く目を凝らし、稲穂といちるをじっと見つめる。
「以前にも来たな」
「本多稲穂と、こちらが雑賀いちるです」
「……で?」
 春はさして興味もないように言い返すと、檻に背をもたれかける。
「あの、以前お会いした時に、私が利用されているといいましたよね」
「そんなこと言ったか」
「はぐらかさないでください! 知りたければここに来いと言ったはずです」
 思わず大きな声を出してしまい、稲穂は自分の口を手で塞ぐ。春はちらりと目の端でそれを見るだけで、つまらなそうに腕を組んだ。
「す、すみません。大声を出して」
「なんだ、やけに切羽詰まってるじゃないか」
「こっちはわざわざ会いに来てやってんだ。稲穂の話を聞いてやりなよ」
 春の態度に業を煮やしたのか、いちるが鉄柵を掴み春を睨みつける。
「それなら俺の欲しい情報を寄越せ。今、世間はどうなってる?」
「そ、それは……」
「真田家は取り潰されていないよ。それに、伊達家もね」
 口ごもる稲穂にいちるが答えた。
「ほう?」
 春の片眉がぴくりと動き、もう少し詳しくと促した。
「い、いちる、どうしてそんなこと知っているの?」
「まぁ、情報収集ってやつ。アタシが徳川家で稲穂と世話になっている、って親に言ったら世事に疎いのもよくないって言われてさ。それで色々と」
「ごめんね。私もきちんと調べたらよかったのに」
「あんたは家朝様のことにだけに集中していたらいいよ」
「そうか、無事か。で、お前はなにが知りたいんだ」
 春が安堵した様子でほっと溜息を落とし、くるりと振り返って稲穂をまっすぐに見つめる。
「あ、あの、利用されているって言いましたよね。それがどういう意味か聞きたくて来ました」
「お前、もう少し顔を近づけてみろ」
「こ、これでどうですか」
 稲穂は震えながらも、鉄柵に近づき春の顔を見上げた。その瞬間、春の手が鉄柵の中から伸びてきて稲穂の顎をとらえる。
「きゃっ!」
「おい、稲穂になにするんだ!」
「黙ってろ、近くで見たいってだけだ。なるほどね、似てるっちゃ、似てる」
 春がぱっと手を離し、稲穂を解放した。よろりとバランスを崩す稲穂をいちるが後ろからしっかりと抱きとめた。
「私、誰かに似ているんですか? 教えてください」
「下虜の女」 
「なんだよ、それ、稲穂がそんな下々の女と似ているって馬鹿にしているのか」
「熱くなるなよ。下虜といっても前覇王の花嫁にまで上り詰めた女だぜ。あの斎藤家の蝶子を退けてまでな」
「その女が稲穂に似てるって?」
 いちるの訝しがる視線など気にせず、春はついと稲穂に目をやる。
「似ている、けど、やっぱ別もんだ。なんか、こう、お前には燃え立たせるものがない」
「ふざけんな。そんな女と稲穂を一緒にするなよ。ほら、稲穂からもなんか言ってやりなよ、稲穂?」
 いちるの腕の中で稲穂は真っ青になり、ぶるぶると身体を震わせていた。
「どうしたんだ、稲穂」
「あ、あの女性、私に似ていなかった?」
「本宅にいた? よく分からないよ。遠目だったし」
「嘘! いちるは私より目がいいはずよ。彼女の顔をしっかりと見たでしょ」
 そう突きつけるといちるは顔を顰めて黙ってしまった。いちるは正直者だということは知っている。似ていると分かっているのに、自分に気を使い真実を黙っているのだ。
「もしあの女性がそうだったとしても、そう。保護されているんだよ」
「保護……?」
「ほら、家朝様は前覇王の幼馴染だし、あんな事件があったんだ。ずっと探していてとうとう見つけた。そうしたら保護するに決まっているじゃないか」
 いちるの説明は辻褄が合っていると思い、ようやく安堵感が全身を包み込む。
「お前ら、何の話をしてんだ」
「本宅に稲穂に似ている女性がいたんだ。だけど、誰に聞いても知らぬ存ぜぬで。家朝様もすっかり稲穂に会いに来なくなって心配してたってわけさ」
「似ている女……? それ、本当か」
「ああ、アタシは目がいいから間違いない」
 すると、春が鉄柵を掴みぶるぶると震えだす。
「その女の名前は?」
「だから誰も教えてくれないから分からないんだよ」
 顔を俯かせ、なにかをじっと考えていた春だったがやがては肩を震わせ笑いだした。
「くくっ、そうか。そうなのか。蘭、お前生きていたのか」
「蘭? その女性は蘭さんって言うの?」
 稲穂は彼女の名前を初めて耳にし、一人で笑っている春を見つめる。
「おい、答えろよ。何がおかしいんだ」
「利用……どころか、お前は捨てられるかもな」
 春は笑うのをぴたりと止め、稲穂を真っ直ぐに射抜く。
「何言ってんだ、お前」
「分からないのか。この女は蘭の身代わりに家朝の家に連れて来られたってだけだ。本多という家名もあるから利用もできる。だけど、本命が現れ、あっさりと捨てられる。そう言っているんだ」 
 春の残酷な物言いに、稲穂は雷に打たれたようなショックを受ける。
「稲穂、こんな男の言うことに耳を貸すな」
「嘘、だと思ってもいい。だけど、お前らは知らないだろ。家朝は前覇王の花嫁に惚れてしまい、奪おうとしていた」
「う、嘘よ、嘘よ!」
 聞きたくなくて稲穂は弱々しく首を振る。
「おい、やめろ。稲穂を混乱させるな」
「事実を言ってやっているだけだ」
「い、嫌、家朝様は私を気に入ってくださって……」
 その瞬間、稲穂の脳裏に過去の出来事が甦る。稲穂が花器に蘭の花を生けた時、ともはどこか悲しそうに、そして愛おしそうに、その花を胸の前にとどめて部屋を出ていった。
 それは、蘭という女性を思い出しての行為だったのではないだろうか。
「稲穂、もう出よう。こんな男の戯言を気にしちゃいけない」
「家朝様は、蘭の花を気に入っていたわ。だけどいつも寂しそうな顔をしていて。どうしてかしらって思っていても聞いてはいけない気がして聞けなかったの」
「稲穂……そ、それは単に生死が分からず気にしていただけだよ」
「だったら、どうして私に教えてくれないの? 私は花嫁候補としてここに来たはずよ。蘭さんを保護しているって言ってくだされば、私も力になるわ。なにか都合が悪いから隠しているんじゃないの」
「なんだ、お前家朝が好きなのか」
 話の腰を折るように春が冷ややかな声で稲穂を見る。
「そうよ。それがなにか悪い? 私は家朝様が好き。愛しているの」
「だったら、その女、家朝から奪ってやろうか」
「えっ……」
 春の申し出に稲穂は面食らったように言葉をなくす。いちるも驚いたように目を見開き、春を見やった。
「どっちにしろ蘭が邪魔なんだろ。家朝の側にいるだけで、やきもきしてしまう。だったら、俺が奪い去ってやる」
「本当にそうしてくれるの?」
「稲穂! 耳を貸すんじゃない」
「いちるは黙っていて。ねぇ、本当に出来るの」
「もちろん、お前の手引が必要だ。ここから出して、蘭と落ち合わせろ。そうしたら、二度と家朝の目の届かないところまで逃げてやる」
 春の真剣な瞳を見ていたら、本気で言っていることが分かる。いつもなら、こんな馬鹿げたことに耳を貸すことなんてない。
 それでも稲穂を動かせていたのは、ともへの愛と、蘭への嫉妬心からだった。
「やってみるわ」
「稲穂! やめな。この男を逃したら、あんただってどうなるか分からない。万が一、ここから逃したとしても、この男があの女と一緒に逃げると思う?」
「……確かにいちるの言う通りね。逃してもあなた一人じだけゃ意味がないわ。なにかメリットでもあるの?」
 稲穂は冷静になり、春に訝しむ視線を送る。逃げたい、という口実だけで騙そうとしているならこんな危ない橋を渡る意味はない。
 注意深く、春という男の真意を見抜こうと彼を見ていたら。
「あるさ。笑えることに、俺もその女に惚れているからだ」
 冷たそうな男がふわりと微笑み、目を輝かせる様は、無邪気に恋をしている少年のようで。
 たったそれだけの微笑みだけで、稲穂といちるは彼が真実を言っていると理解したのだった。




 


237

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next/  back

inserted by FC2 system