河畔に咲く鮮花
第一章 五輪の花 2:そして、その高貴な血は流れる
今日も義鷹の帰りは遅い。この数週間はずっとこの調子であるが、きっと雪の戴冠式の支度で屋敷を空けているのだろう。最近は、どうやら明け方に帰って来ているのを、本家のメイドが噂しているのを耳にした。
蘭はここ数週間その環境にも慣れて、一人で過ごすことが多くなっていた。
そうするとこの家にもいつまでいられるのだろう、などとよく考えてしまう。
雪の小姓という名ばかりの世話役が終われば、もう必要とされない。義鷹は優しい人だから、当初の約束通り蘭を家に戻してくれるだろう。
身売りに出た夜に救ってくれた義鷹に恩は返せただろうか。
義鷹は下虜という身分を気にせずに、十分に蘭にしてくれた。
このような広大な屋敷に住まわせてもらい、学園まで通わせくれて色んな恩恵を与えてくれた。
蘭は、色々と考え事をしていると、頭が冴えてしまい、眠れなくなった。
――もう、数時間で夜が明ける。
はぁと溜息を吐きながら蘭は部屋をそっと出ると、すぐ目の前の暗い庭が見える縁側に腰を下ろしては、澄んだ空に浮かぶ朧月を振り仰いだ。
淡い光を発する美しい月が冷たく感じるのは、夜気だけのせいではないのだろう。
雪が結婚すると聞いて、心の奥が悲しく沈んでいく。
しんみりとなった蘭はぶんぶんとかぶりを振り、雪を意識から除外しようとした。
いつまでも覇王となる雪に懸想していては意味がない。離れる運命ならばもう諦めるしかなかった。
はぁと切なく漏らした蘭の溜息は、この澄んだ夜空に溶けるように消えていく。そこからしばらく、ぼんやりと暁に染まってくる空を見つめていた。
その数秒後――じゃり、と庭に敷かれた砂紋が不穏な音を立てる。
蘭の意識は自然に音のするほうに注がれた。庭から聞こえてきた音の出処を知ろうと蘭は、目を細めて凝視していたら置き石の後ろから現れる数人の黒い人影に気がついた。
義鷹か使用人かと思ったが、蘭はすぐに違うと悟った。
数人の男達は黒い目だし帽を被り、手には銀色に光る刀を持っていた。月明かりに照らされ、抜き身の刀身はぎらりとおびただしい光を辺り一面に放っている。
――泥棒? それとも義鷹を襲いに来た敵なのだろうか。
蘭は胸に広がる不安を瞳に刻み、気づかれないように腰を浮かして、そろりと後ろにさがった。
けれどもその瞬間、蘭は猛烈な恐怖に襲われ、激しく呼吸を乱した。
義鷹が狙いだと思っていた黒い目出し帽の男達は、蘭を見つけると指を差してきたのだ。
狙いが蘭だと悟り心臓がどくんと大きく一つ跳ね上がる。
――早く、逃げなきゃ
迫り来る男達を見て、恐怖でがくがくと震える足を自身の手で思い切り叩いた。
ようやく動くようになった足でふらりと蘭は走り始める。
蘭がいる場所は義鷹の屋敷の離れになっていて、普段は用事がないと誰も訪れない。来るのは、家主の義鷹か、たまに命令を受けてやってくる顔なじみのメイドか雪ぐらいなもの。
不安と恐れだけが胸中を満たし、震える体を必死で抑え込み蘭は広大な屋敷を逃げ回る。男達は縁側を勢いよく駆けあがり、蘭の後を追いかけてきた。
蘭は廊下を曲がった時に足を滑らせ、その場に倒れ込むと男がひゅんと刀を薙ぎ払った。
はらり――と蘭の後ろ髪が一房宙に舞う。
蘭は髪を切られたと知り、恐怖ですうっと背筋が一瞬で寒くなった。
逃げ惑う蘭を執拗に追い立て、男達は力任せに刀を振り、障子や壁に穴を穿っていく。
蘭は必死で逃げるが、浴衣姿の為に足が思うように開かない。
男達との差は徐々に縮まり、蘭は裸足のまま庭に降り立つと、義鷹のいる本家に向かおうとした。
本家ならばメイドや護衛もいるから、この危険を知らせることができるはずだ。
気持ちだけが急ぐが庭の砂に足を取られてなかなかと前に進めない。男達が縦横無尽に振り回す刀は木々の葉を散らし、綺麗に整えられた植木の頭をカットした。
蘭は後ろを気にしながら走っていた為に、とうとう砂に足を取られ、ざざっと砂紋の上に倒れ込む。
とっさに顔を上げて、体をねじると男達の刀が無情にも振り下ろされてきた。
それがまるでスローモーションのようにまっすぐに落ちて来る。
死ぬ瞬間とはこういうことだろうか――
絶望と失望の中、思ったことはたった一つ――これが最期になるならもう一度だけ雪の顔を見て逝きたかった――蘭はそれだけを頭に思い浮かべ、目をぎゅっと瞑った。
閉じた瞼の裏に雪の咲くような笑顔が浮かび、胸をもぎ取られるような痛みが走る。
「雪、雪っ、雪っ!!」
蘭は最後に切望する想いで心の中の叫びをこの夜空の下で上げた。その愛しみと悲哀を帯びた悲しき声は、この澄み切った空の中に掻き消されて――もう、駄目だと思った刹那――
「蘭っ!!」
雪の悲痛にも似た声が飛んで来た。それと同時に蘭の体は暖かい雪の腕に抱きかかえられていた。力任せに雪は蘭を抱き込んだまま真横にごろりと転がる。
気がついた時には、蘭の頬は砂紋に浅く沈んでいた。その蘭を庇う雪が、くっ――と小さくうめき声を上げる。
「義鷹っ、どうなってやがるっ! 刺客をすぐに捕えろっ!!」
雪の今まで聞いたことのない怒気を孕んだ声が、この不気味なほど澄んだ闇夜に響き渡る。
全身から怒りを発しているようで、蘭は初めて雪の威厳の強さに驚いてしまった。
「雪様っ! 蘭っ!」
続いて義鷹の慌てた声が聞こえてくる。ばたばたと廊下を走って来る無数の音は義鷹の屋敷の護衛達のもの。
義鷹の屋敷の護衛達が目出し帽の男達をなぎ倒し、あっという間に地に伏せさせた。
「ねぇ、雪っ、大丈夫? 雪?」
蘭を庇う雪の体が微かに震えていることに気がついて、顔をちらりと盗み見する。
体が傾き、ずるっと雪は蘭の背から崩れ落ちると、地面に横倒れになった。
倒れた雪を見て蘭は目を大きく見開き、わなわなと唇を震わせる。
雪の私服は左の背中部分がばっさりと縦一文字に切られている。そこから赤い花が鮮やかに咲いて、この暗い夜に残酷な彩りを与えていた。それを見ただけで蘭の心臓は凍りつく。
「雪っ! まさか……私を庇って……怪我を……」
蘭は全身からざぁっと血の気が引くのを感じて、雪の体を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「蘭……無事か……」
蘭の腕の中で、蒼白になった雪が震える声でそう呟く。その雪の余裕ぶった笑顔が悲しく見えて、胸を一層切なくした。
「どうして……下慮の私を助けたの……雪……」
蘭は泣きたくなる衝動を意志の力で抑え込み、やっとの思いでそれだけを喉の奥から振り絞った。
――覇王たる者が。どうして、下慮の自分を助けたのか。
雪のその行動は常軌を逸しており、蘭の胸にちぎれそうな痛みが走る。
――位の低い下慮の為になぜ覇王という階級の者が血を流すのか。どうしてそんなことをするのか――
分からないと蘭は何度も小さく呟き、腕の中で震える雪を見つめた。
それでも精一杯笑おうとする雪に胸が締めつけられ、蘭の頬にきらりと熱い雫が伝い落ちていく。
蘭は手で出血部分を押さえ、血まみれになりながらも必死に雪の様子を見る。
辺りの騒然とした声も――もう蘭には聞こえない。
全てが静止した無音の世界で、蘭には雪しか見えていなかった。
そんな中、雪はぽつりと囁くように呟く。月明かりを浴びた雪の顔が青ざめて、それが一層悲哀さを醸し出し、胸を痛くする。
「……今だけでいい……愛していると言ってくれ――蘭」
出血で意識が朦朧としているのか、蘭にはなぜ雪がそう問うたのかが分からない。それでも蘭は雪がいっときでも安心するなら、その要望に応えようと思った。それはきっと、こういいう時でしか言えない言葉。下虜の身分では一生、雪に伝えることが出来ない、本当の気持ち。命を懸けて救ってくれた瞬間に、はっきりと確信した想い。
一生、胸の内に押し隠したままでいようと思った言葉を、全身全霊をかけて――紡いだ。
「……愛してる……雪……たとえ身分が違っていても……それを神が許してくれなくても……」
震える声で絞り出した蘭の声は雪に届いただろうか。本当に愛していると告白を紡いだ気持ちは、雪に伝えることができただろうか。
数秒――その言葉を噛み締めるように聞いていた雪は、ほっと安堵の表情を浮かべると、もの言いたげに唇を喘がせた。蘭はそれを聞き取ろうと、雪の色を失くした唇に耳をそっと寄せる。
「……俺もだ……蘭……この世界のなによりも……お前を愛している」
蘭は胸を突かれ、はっと目を大きく見開く。雪はにこりと綺麗な――屈託もない純粋な笑顔を浮かべると目を静かに閉じていった。
蘭は、雪に愛していると囁かれた瞬間――いけないと分かっているのに、たったその一言に気持ちがさらわれていく。
「雪っ! 雪っ! 雪っ! 目を開けてっ! 雪っ!」
ぐったりとなった雪を見ると、一瞬思考が凍りついて蘭は何度も体を揺すった。
もう一度抱き上げた途端、雪の冷えた髪の毛がさらりと指の間からこぼれ落ちていく。それと一緒に雪の命もこぼれ落ちていってしまいそうで、必死で体を掻き抱いた。
冷たくなった雪の体があまりにも悲しくて、せきを切った感情が一気に溢れ返っては、悲しみの涙を流した。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、雪の色を失くした顔を濡らして、切なく溶けていく。
――この人はいつもこうやって危険にさらされ、傷を作っていくのだ。
背中に残された無数の傷跡は、これまでも刺客に狙われてついたものだろう。
そして新しくつけた傷は、下慮の為に。
自分を守る為につけた傷ではなく、たかだか下慮の為につけた傷跡――。
河畔に生きる者は、殺されたとしても誰も気には止めない――矮小な存在。それを分かっているはずなのに。
蘭の腕の中にいる雪は、一番身分の低い娘の為に、命を賭してその高貴な血を流してくれた。
なんて愚かで馬鹿な人なのだろう――下虜など放っておけばよいのに。
それがあまりにも切なくて――胸を掻きむしられるほど悲しくて――
「……どうしてっ……雪っ……!」
嗚咽でそれ以上は声が出てこない。蘭は頭を抱えながらたった一人の女――奴隷と変わらぬ下慮の為に傷ついた覇王が愛しくて泣いた。
それでも微動だにしない雪を見て、蘭の心はざわめく。
――もし、このまま雪が目を覚まさなかったら?
そんな恐ろしい想像が駆け巡るが、すぐさま蘭の中に一つの答えが思い浮かんだ。
――愛しているとはっきり確信した雪が、もしこのまま命を落としたなら私も一緒に逝こう――。
下虜の為に張ってくれたその命の変わりにはならないかも知れないが、それでも雪に喜んでこの魂は捧げよう。
もしかしたら、あの世では身分差もなく心は一つになれるかもしれない。周りの目を気にすることなく、愛し合えるかもしれない。そう考えると、この命など惜しくすらない。
それは、それは本当に泡沫の夢物語のようで、有り得ない想像に蘭の顔はますます悲しく歪む。
溢れる涙は止まることなく、蘭はただただ冷たくなった雪を腕に抱き締め、何度も小さく愛していると呟いた。
「……蘭……」
それを悲しげに見ていた義鷹がぽつりと蘭の名を呼ぶ。
その悲哀を帯びた声は蘭には届かず、この冷たく凍るような闇夜に消えていった。
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