河畔に咲く鮮花  

第一章 六輪の花 1:愛という名の別れ


 雪は悪夢の夜からすぐに応急処置がなされ、義鷹の屋敷で療養することになった。
 傷は深くないものの、刃先に毒が仕込まれていたようで、雪は何日にも渡って苦しみ抜いた。
 その間も蘭はつきっきりで看病をして、片時も離れることはなかった。

 ――自分の命を救ってくれた雪。今度は蘭が全身全霊をかけて雪を救おう。

 蘭の献身的な看病が功を奏したのか、雪の顔色は徐々に良くなり、目を覚ました時には会話も交わせるようになった。
 そこからまた数日が過ぎて、ようやく回復の兆しがみえた雪は上体を起こせるようになるまで復活した。
「雪、今日は天気いいよ。障子を開けるね」
 蘭が部屋の障子を開け放つと、久々に陽を受けた雪は眩しそうに目を細める。
 蘭は雪の傍へ戻り薬湯を手渡し、飲む様子をじっと見つめた。雪の顔色はまだ良くはないが、唇は色を差してきている。それだけで蘭はほっと安堵の息を漏らした。
「……これ、苦い……」
 薬湯を一口飲んでぽつりとこぼされた雪の声。飲むのを躊躇っているようで、手に持ったまま固まっていた。
「雪、駄目だよ。飲まないと。よくならないよ」
 蘭は顔をしかめて、雪をたしなめるが、すっと湯のみを差し戻してきた。
「返品は受け付けませんから」
 蘭がしかめっ面をして言うと、雪は何かを訴えるような目でじっと見つめてくる。
「飲ませろ……」
 雪は頬を恥ずかしそうに赤く染めると、ぐいぐいと湯のみを蘭に押し付けてきた。仕方なく蘭は湯のみをそろりと雪の口に運ぼうとする。
「違う、口移しで」
 雪にすぐさまそう返されて蘭は目を何度も瞬かせた。そんなことを不意に言われると、変に胸がどきどきと高鳴ってしまう。 
 雪との口づけが久しぶりということもあるが、良く考えてみると自分からしたことはない。
「早く……飲ませろ」
 雪はますます頬を朱に染めると、蘭からの口移しを待っているようだった。
「わ、分かった」 
 蘭も気恥ずかしくなるが、薬湯を口に含んで恐る恐る雪の唇に運んだ。
「――んっ」
 唇が触れ、開いた隙間から薬湯を注ぎ込むと、雪はゆっくり味わうように喉に流しこんだ。
「もっと……飲ませろ」
 子供のように催促してきて、蘭は口に含んで雪に何度も飲ませて上げた。湯のみに入っていた薬湯を全て口移しで飲ませた後に、雪は満足そうに微笑んだ。
「寝るから、手ぇ握れよ」
 まだ上体を長く起こすのが辛いのか、雪は青ざめた顔で蘭にそう言ってくる。雪は背中を庇うように、そろそろと上体を倒し始めた。
蘭がその体を支えてあげて、雪を布団に優しく寝かせてあげた。雪は掛け布団からそろりと腕を出して、蘭の手を握り締める。きゅうっと力強く締めつけてきて、雪はふわりと柔らかく微笑んだ。
「子供みたいに甘えるね」
 雪の熱い想いが繋いだ手から伝わってきて、蘭は恥ずかしくなり、わざと突っぱねる態度をとる。
 思えばこんなに長い時間、雪と一緒に過ごすことはなかった。
 二十四時間、何十日も雪の看病をしている。雪が意識を取り戻してからも、他愛ない話をしたり、布団を並べて隣で寝たり。ご飯も口に運んで食べさせているほどだ。
「お前は相変わらず生意気だな」
 雪にぎゅっときつく手を握り締められて、蘭はその痛みで少しだけ顔をしかめた。
「病人は人に甘えたくなるものだ。今ぐらい甘えさせろ」
 怪我人とは思えない雪の命令口調に蘭は相変わらずだと嘆息する。それでもどこか嬉しそうに笑みを浮かべる雪にふと疑問が浮かぶんできて思ったことを問うてみた。
「……病気になったり、怪我した時はお母さんに甘えなかったの?」
 背中の傷が増える度に母に看病をしてもらい、甘えていたに違いない。そう思っていたが、雪の答えに蘭は絶句してしまう。
「……いや、看病は身の周りの世話をしているやつがやる。何人も大袈裟に部屋の中に立ちっぱなしで、寝ている俺を囲んでるんだ。笑えるだろ」 
 笑える――そう言った雪の瞳は少しも笑っていなかった。
 反対にどこか悲しみを帯びた色を浮かべている――それは背中に負った傷よりも深く痛々しく見えた。
 蘭の胸にずきんとした痛みが走り、悲しく顔を歪ませる。下虜である蘭でさえ、いつも両親と兄弟達が必死で看病をしてくれた。
 近所に住む光明を呼びにいっては、お金がかかるというのに風邪一つで大袈裟に医者を手配してくれたり。
 幼い妹と弟は、河畔で薬湯に使用出来る草を探して、夜中まで家に帰って来ずに、反対に心配されたり。
 それなのに、国を束ねるトップの――雪は家族から看病も受けたことがないなんて。
 お付きの人に全て世話をさせている、その愛情の欠片もない無情さに心が悲しく沈んでいく。
 権力トップの覇王という家系で、何もかもが手に入る王子という身分なのに、人に甘えることを知らない孤独を背負っている寂しい人。それを考えると今だけでも蘭は、たくさん甘えさせてあげたくなった。
「雪……いっぱい……甘えていいよ……」
 蘭は雪に近づくとそっと唇にキスを落とした。蘭からキスを受けた雪は、驚いたのか瞳を大きく見開き、どこか陶然とした面持ちで頬を染めていく。蘭はゆっくりと唇を放して、儚く消え入りそうな微笑みを浮かべた。

 今だけ――そう、今だけでいいから、私だけの王子様でいて――。心の中でそれだけを思って、悲しく瞳を揺らめかせる。

 雪が回復して健康になる間だけ、蘭はこの愛しい人の傍にいられる。それだけでも幸せだと思わなければいけない。
「もう一度、キスして――お前から」
 雪は嬉しそうに瞳を潤ませてキスをねだってくる。それを愛しく感じて、蘭はもう一度、雪の唇に自分の唇を重ね合わせた。
 いつものような獣のような荒々しいキスではない。

 それは触れるだけの、切なく溶けるような――キス。

 それだけのキスでも雪は熱に浮かされたように頬を染め、心から嬉しそうに笑った。
 その笑顔を向けられると、蘭の心に甘く満たされた思いがじんわりと広がっていく。
――雪はずるい

 いつも横暴で散々振り回してくるのに、その屈託のない清々しい笑顔だけで全てを許してしまう。
 そのような気持ちも知らぬまま雪は安心したように、蘭の手を握り締めて眠りの淵に身を委ねていった。
「……雪、今だけ……傍にいさせて……」
 幸せそうに寝入った雪を見つめる蘭の目には涙が滲んでいた。看病が終わると、雪は戴冠式に出席する。
 今は、世間に動揺を与えない為、義鷹と御三家だけの者が本当のことを知り、雪が病に伏せっているのを隠ぺいしていた。
 戴冠式も準備が整っていないと偽って、先延ばしにしている。
 本当は健康になる日が来なければいいと、蘭の心は荒れ狂い、自分も知らない黒い感情が芽生える。蘭は自分の中にそのような気持ちがあることを始めてしった。下虜街で過ごしていた時は、家族に向ける愛情はあったものの、身を焦がすほど狂おしく激しい感情をもったことはない。
 愛というものを雪に出会って教えられ、こんなに苦しいものだとしった。
 愛していると囁かれたあの言葉だけで、幸せになったというのに。
 それでもすぐに別れが待っている――。

 絶望と幸福は紙一重なのかもしれない――

 それでも蘭は覇者の世界に身を置いて、はじめて知る人を愛する激しい感情も、同時に打ちのめされるほど悲しい気持ちも否定したくなどなかった。
 全てを含んで愛だということを――初めて愛する人が出来て気づかされたのだ。
 本当はもっと愛というものを知りたい――雪の元にいて幸せも苦しみも一緒に味わっていきたい。
 それなのに雪は若さゆえかどんどんと回復していき、日に日に元気を取り戻していった。
 もう、この熱い想いで繋がれた手は離れてしまうのだ。
 蘭の腕からするりとすり抜け、蝶姫のものになる。
 これから雪が怪我をしても蝶姫が看病をするのだろう。
 毎日、雪からの荒々しいキスを受け、この逞しい胸に抱かれ、寵愛を受ける。
 考えただけでも、胸がじりっと焦がされ、激しいほど心を掻き乱された。
 けれども、蘭は――下慮。
「……雪、今だけ……傍にいさせて……」
 幸せそうに寝入った雪を見つめる蘭の目には涙が滲んでいた。 身分階級も一番下の位であり、本来ならこのように覇王に出会うこともなかった。
 こんな思いをするくらいなら、出会わなかった方が良かった。
 それでも、もう走ってしまったこの気持ちは止まらない。
 雪が蘭を庇い、このなににも比べ用もなく得難い高貴な血を流してくれた。
 その時に熱に浮かされたように囁かれた――たった一言。

『俺もだ……俺も、蘭を愛している』

 蘭はその言葉を何度も噛み締めて、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 そう――それだけで十分だった。その一言に心は奪われ、その言葉だけを心に刻み、これから生きていける。

 下虜街に戻って過ごしても、決して忘れはしないだろう。
 テレビの向こうの世界で覇王として祝福される雪を見るだけで、きっと自分も幸せな気持ちに浸れるだろう。
 それだけで――もう十分――十分ほどに雪は愛を与え、教えてくれた。けれども、今だけ。
 ほんの束の間だけでいいから、傍にいさせて――
 蘭はもう一度、安心しきって寝ている端正な雪の顔を見つめ、強く握られた手を握り返すと、声を押し殺して泣いた。
 涙はぽたり、ぽたりと次々に落ちて、畳に水玉模様を作っていく。
 それでも、蘭はこの手がもうすぐ離れていく悲しみに暮れて、荒れ狂う気持ちを押し殺したまま泣き続けた。

***

 それからまた時間は経ち、雪はとうとう回復をむかえた。傷は少しひきつるように残ってはいるが、毒はすっかり体から抜けて体を自由に動かせるまでになる。
 戴冠式が近づいて忙しいはずなのに、雪は相変わらず時間を見つけては義鷹の屋敷にいる蘭の傍にいる。


――まるで、別れを惜しんでいるかのように。


 それを見かねてか、義鷹が無情でもあることを雪に述べた。
「雪様、おわかりでしょうが、これ以上は蘭の傍にはおられない方がいいです」
「俺がなにしようが、どこにいようが勝手だろ。お前にあれこと言われる筋合いはねぇ」
 雪は回復して元気を取り戻したのか、義鷹にいつもの調子で毒づいた。
「……いいえ、蘭が狙われたのは雪様が傍にいるからです」
 義鷹は決まりが悪そうにそれだけを小さくこぼす。その真実に蘭と雪は目を丸くした。義鷹は屋敷に入って来た賊を捕えて、事情を割り出したそうだ。
 雪の弱点になりそうなところを狙い、蘭を襲ったのだと――。
 それを義鷹から聞いて、雪は血が滲むほどぐっと拳を握り締める。蘭は初めて知る真実に少なからずショックを受けた。
 逆に蘭が雪の傍にいたから、雪を危ない目に遭わせてしまったことにもなる。
 その現実を切り裂くように雪はバンッと畳を叩いて、ぎりりと音が鳴るほど奥歯を噛み締めた。そしてなにを考えいるか分からないが、雪は視線を宙に向けてじっと見据えていた。
 それから誰もが黙り込んで、言葉を発することはなくなった。
 胸の内に内包するそれぞれの想いは、この静寂な部屋の中に静かに沈んでいった。







 





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