河畔に咲く鮮花
第一章 五輪の花 1:絶望に打ちひしがれて
学園に通い、当初は雪がいつも傍にいたが、それから数週間経つと、御三家も義鷹も忙しそうに走り回り蘭は空きの時間が訪れる。
蘭は不思議に思うと、学園の廊下で走っていた秀樹を引き止めて何をしているのかを聞いてみた。
「戴冠式や、戴冠式の準備で忙しいんや」
蘭の質問に秀樹は簡単ともいえる返事を返してきて、ああ、忙しいとまた走り去る。秀樹が当たり前のように言うが、戴冠式がなんのことか分からずに、蘭は首を傾げるばかりだった。
「戴冠式も知らないの? 有名人」
そんな様子を見たクラスメイトの銀がにやりと不敵に笑い、蘭の肩を気軽に組んでくる。
「有名人?」
その言葉が蘭にかけられたものと分からず、思わず眉をしかめた。
「お前だよ、お前。御三家と一緒にいつもいるから、あっという間に噂が立っているぜ」
銀に言われるとそれもそうだったと思い起こす。学園にいる時は、休み時間のたびに雪が来て、意味もなく購買部に連れて行かれたり、庭で本を読まされたりしていた。保健室で寝るといっては、添い寝を強要してきたり。
男装をしている蘭が雪と寝ているのを見られると、あっという間に男色家ではないかと噂が広まるかもしれないので、断ってはいた。
ランチの時間は決まってともと秀樹が来て、四人で食事を摂る。
それが蘭の毎日の学園生活での日常であった。
御三家と一緒に行動をしている蘭は確かに目立つ存在であろう。
けれどもその割には誰も声を掛けて来るものはいなかった。御三家を恐れて、つかず、離れずと遠巻きに見ているのが本当の理由ではあるのだろうが。
こうやって気軽に話かけてくれるのは、編入した時と同じクラスメイトの立花銀だけだった。
「で、銀ちゃん、戴冠式ってなに?」
蘭の質問に、銀はわざとらしくずっこけて、やれやれと短い髪を豪快に掻く。
「戴冠式ってのは、正式に覇王の称号を受け継ぐ儀式だよ」
銀の答えに要領を得ず、蘭は眉根をひそめた。その言い方だと雪が覇王の称号を受け継ぐという意味合いに聞こえる。そうすると雪はまだ正式な覇王ではなかったということだろうか。
「ほら、織田のおっさんは体調が優れないし、早々に継承させたいみたいでさ。信雪が二十歳になるのを待っていたみたいだぜ」
銀の言葉で雪の年齢を思い出す。雪は確か二十歳だ。そうするとこの年に正式な覇王の称号を受け継ぐということになる。
「なるほど、だからあんなに忙しそうにしてるんだ」
雪もあれから本家に戻り、義鷹の家に訪れることも少なくなった。暇があれば、蘭の寝所に潜り込み、お互いを貪り合う行為をして、果てる。
だが、なぜか最後の一線だけは超えていなかった。
蘭はあれだけ、雪に激しく求められているのに、まだ乙女の記を捨てていなかった。
「それと同時に婚儀の儀もやるらしい」
銀は別に興味ないと言った風だが、蘭は驚きを顔に刻み、目を丸くした。
婚儀の儀――蘭はその不穏な響きに胸がざわめく。
それを深く聞いてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしてきたが銀はあっけらかんとして言い放った。
「お前、まさかそれも分からないわけじゃないよな? 婚儀って言えば結婚式だろ、結婚」
その言葉を聞いて雷に打たれたような衝撃が全身を走り抜けていった。
――結婚……?
全身からざぁっと血の気が引いていくのが分かる。考えたくはなかったが、蘭は無意識に言葉を紡いでいた。
「銀ちゃん……そ、それってもしかして……蝶姫との……」
最後の言葉はしりすぼみになってしまう。頭の中がぐるぐると掻き混ぜられたようになり、吐き気に似た衝動が起きる。
「まぁ、思いっきり政略結婚だけどな。覇王様の相手は蝶姫しかいないだろうよ」
銀の口から聞きたくない言葉を聞いて、蘭は絶望に打ちひしがれた。
――雪が結婚する……あの蝶姫と……
蘭を女と知り、綺麗な顔に歪んだ笑みを浮かべた蝶子が頭に思い浮かんでくる。
その時にも蝶子は雪の妻になると自信をみなぎらせて、余裕ぶった態度をしていた。念を押されなくてもそれはもうずっと前から分かり切っていたことだが、こんなに早く訪れるとは思ってもみなかった。
無意識にわなわなと体が震え始め、強張る顔では上手く笑えない。
銀の話も遠くに聞こえて、蘭はもうすぐ自分が解放される日が近いと悟った。
蘭に手を最後まで手を出さなかったのは、きっと傍にいすぎたから。蘭は蝶子から言われた言葉を思い出す。
雪が近い者に手を出さないのは、妻面されると困るからだ。だからいつも一度だけの商売女で遊ぶ。
蘭を最後まで抱くことをしなかったのは、きっと雪という存在に近すぎたからだ。
その上、義鷹の家でお世話になっているから、雪なりに気を遣ったのかも知れない。
義鷹の階級は貴族で覇者よりも下とはいえ、仲違いしたら雪も面倒なことが起きるのだろう。
今川家といえば、織田家や豊臣家に多くの献上金を捧げ、政治の一部も担っているほどだ。
そこに囲われている蘭といざこざになれば、義鷹との仲も変にこじれるかも知れない。
そこまで見越して考えていたんだと蘭はふと自嘲気味に微笑む。
あれだけ解放されたがっていた日が迫ってきているというのに、心にぽっかりと空くこの気持ちはなんなのだろう。
蘭は自分でも悲しいのか、嬉しいのかも分からなかった。
本当だったら嬉しいはず――下慮として虐げられ、体を弄ばれることはなくなるのだから。
そう――とうとう雪から捨てられる日がくるのだ。
小姓という名だけの世話役の期限が近づき、全てが終わる。
「雪……」
嬉しくて喜ぶべきはずなのに、蘭の頬にはきらりと光る一条の滴が伝い落ちていく。
涙を流し、滲む視界の中で馬鹿な自分と、愚かな自分を嘲る。
覇王に心惹かれるなんて――下慮とは身分の差がありすぎる。
――そう、分かっていたはずなのに。
「あれ、どうした? 蘭、目が痛いのか?」
銀が話を止めて、様子のおかしい蘭の顔を覗き込んできた。
「ううん……ちょっとゴミが入って」
蘭はぐいっと袖で涙を拭うと、銀には見せないように顔を逸らせる。
蘭は虚空に視線を見据え雪と心離れする決意を決めると、銀に気づかれないように悲しみの気持ちを無理やり心の内に沈めた。
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