河畔に咲く鮮花  

第四十四輪の花 2::長虎の決意


 
 
*** 


「これは、傷の跡にもよくきく香油だから、体全体になじませるんだよ」
 義鷹が帰り、一同もばらばらと席を外して、部屋にいた時に蘭は長虎から瓶を受け取った。
 ハート型の可愛らしい瓶の中からは、とろりとした甘い香りが漂ってくる。
静音から逃げていた時に打ち付けた青痣がまだ体のあちこちに残っていて、白い肌には妙に目立っていた。
 香りと傷にもよい香油と手渡されて、蘭は周りに誰もいないのを確認すると丹念にそれを伸ばしていく。
肌に練りこむように塗りつけるのは貧乏性だからだろうか。
 それでもこのような高級な香油を使用したことがない為に、夢中になって色んな場所に塗りたくった。
手から腕、胸からお腹、足からお尻。傷にいい――アキに貪られた時の腫れた感じがまだ秘部に残っている。
 蘭は恐る恐る、とろりとした液を手に取り、秘部にも塗りつけてしまった。
甘い芳香が秘部から立ち込め、くらりとその匂いに酔いしれそうになる。
 慌ててショーツをつけて、すぐに瓶に蓋をすると居住まいをただした。
 今日もきっと長虎が蘭を抱き枕変わりにして寝るだろう。
 それでも長虎は蘭を無理やり蹂躙することはなかった。
 長虎が来る前に布団を敷いて、寝る支度をする。
「寝る用意はできたし、これでいいかしら」
 蘭はちらりと壁にかかった時計を見上げた。もう少しで深夜になる。いつもならこの時間に長虎は部屋に来るはずなのだが。
 急に雨が降ってくると部屋の中まで濡れ始める。
 障子を開けっ放しにしていた蘭は、慌てて立ち上がって障子を閉めようとした。
「……長虎様?」
 庭の隅に長虎が立っているのを見つけ、蘭は目を細めた。雨により視界は悪いが、確かに長虎である。
「何をしているのかしら? 雨が降っているのに」
 蘭は部屋の片隅に置いてあった傘を持つと、縁側から庭に降り立った。木に向かって何やら話しているようで、蘭は首を傾げてしまう。
「木に話しかけてる?」
 奇怪な行為に驚くが、すぐに何をしているかが分かった。木の陰には咲子がいるらしく、長虎と話をしている。
 蘭は気づかれないように、木立に身を隠して行きさつを見守ってしまった。
――これじゃ、立ち聞きじゃない
 出るに出られなくて、蘭は困ってしまう。
「……もう一度、考え直して下さいませんか長虎様」
咲子が切羽詰まった様子で長虎に問い詰める。
「もう、決めたことなんだよ咲姫」
「あなたは、勘違いしていらっしゃるのよ」
「勘違い?」
「ええ、下虜がもの珍しいだけ。恋だと思っていることは、ただの錯覚なのです」
 蘭はこの時初めて自分のことを言われていることを知った。どぎまぎしながらそっと木立から覗いて見る。
「……勘違い……か」
「そうです、遊びたければ遊べばいいのです。私は長虎様が一時の遊興を楽しんでいても気にはなさいません」
 咲子がそっと長虎の袖を掴み、美しい顔で振り仰いだ。
――咲姫、長虎様のことが好きなのね
 咲子が雨に濡れながら必死で振り向かせようとする姿はどこか悲しくて。
 ――やっぱり、私はここにいない方がいい
「下虜だから、愛人にしろと?」
「ええ、飽きたら元の場所へ帰せばいいいのです。だから、婚約は解消いたしませんわ」
「僕も本当は恋とはどういうのか分かっていないんだ」
「だったら、いいではありませんかっ、長虎様!」
 咲子がつま先を立てて、長虎の唇を塞ぐ。
「――!」
 蘭はそれを見てしまい、目を大きく見開いた。振りほどくかと思った長虎はゆっくりと目を閉じて、咲子のキスを受け入れる。
 ――長虎様――やはり、咲姫の方がお似合いです
 蘭は傘をその場に置いて、静かにこの場から立ち去った。
――そう、長虎様は勘違いしているだけ
 長虎と咲子の関係性を修正したい蘭は、このまま一人の部屋に帰るのが躊躇われた。
 きっと長虎は今夜は蘭の部屋には来ないだろう。
 雨で濡れた肌を温め合う為に――二人は一緒に過ごすはずだ。
 隙が出来たことを知れば静音がまた襲ってくるだろうか。
 静音の狂ったような笑い声を思い出し、蘭はぶるりと体を震わせた。
――ここを、抜け出そう
「人魚の里に帰ろう――健吾様が来る前に体勢を整えたらいいんだわ」
 火をつけられないように里を守る方法はあるだろうか。時間があれば志紀と対策を練ればいい。
 それとも、迷惑をかけないために公人と遠くへ行くとか。
『このまま東に出れば里へ戻れる』
 鬼ごっこをしていた時に長虎が言った言葉を思い出す。森を抜けて、外界へ出れば里に帰れるかもしれない。
 少しでも遠くへ行こうと柵のかんぬきを外して森へ出た。
――ごめんさない、長虎様
きちんと挨拶をしないで去って行くのは躊躇われたが、ここにいる必要はない。
 すぐに長虎は蘭を忘れて、咲子と上手くいくだろう。
 降りしきる雨の中では足が取られ、なかなかと前に進めない。
 それでも蘭は歩いて行くしか方法はなかった。
 体力が奪われ、雨が染み込んだ服が重いし、こう寒いと身震いが起きる。
――少しだけ休憩していこう
 岩の裂け目を見つけて、蘭は少しだけ雨から身を守ろうとその場に腰を下ろした。
 体を最小限に小さく折り、膝を抱えて俯く。
――寒いし、疲れて眠気が……
 うつらと頭が揺れ始め、瞼が重くなっていった。
――少しだけ……少しだけだから
 そうぼんやりした頭で考えながら、いつの間にか膝の間に顔を埋めて寝入ってしまう。
 それから数時間――いや、本当はたったの何分しか経っていないのかも知れない。
 ぬかるんだ土を踏みつけ、こちらにやってくる音が蘭の意識を目覚めさせた。
――誰か、来る
 はっと顔を上げた時に、ふっと人影が岩の裂け目を覗き込んでいた。
「きゃっ!」
 ぬっと顔を近づけてきた人影に驚き、つい小さな悲鳴を上げてしまう。
 その反応を見て、人影はやれやれと呆れた溜息を吐き出した。
「寝ぼけているのかい? 人の顔を見て悲鳴あげるとは……僕がそんなに怖いの」
 皮肉げな物言いの中にどこか柔らかみを帯びた声音が聞こえてくる。
 ぼけっとしている蘭を見て、くすくすと笑い声が届いてきた。
「な、長虎様……」
 ようやくそれが傘をさして腰を曲げている長虎ということに気がつき、蘭は目を何度も瞬かせた。
 どうしてここに長虎がいるのかが理解出来なくて、これはまだ夢の中なのだと思ってしまう。
「こんなところで寝て……本当に野猿の行動には驚かされる」
 にやりと意地悪く口元を吊り上げる長虎に、蘭は慌てて立ち上がった。
「あっ……蘭っ……」
 長虎が声をあげたと同時に、がつんと蘭の頭に岩がぶつかる。
「――っ」
 声にならない悲鳴を喉の奥であげて、じんじんと痛む頭を手で押さえつけた。
「ったく、君は本当にがさつだね。ほら、出ておいで」
 ぐいっと腕を引っ張られ、蘭は岩の裂け目からそろそろと出る。
「大丈夫かい? ほら、頭を見せてごらん」
 手をゆっくりとどかされて、長虎は蘭の頭のてっぺんをよしよしと撫でてきた。
「……ん、大丈夫みたいだ。さぁ、帰ろう」
 長虎は一人しか入れない傘をぐいっと蘭に押し付けて、手をしっかりと握ってきた。
「な、長虎様っ?」
「早く、傘をさして」
 強い口調に逆らえず、渡された傘を思わずさしてしまう。
 それを見て、長門は満足したように微笑むと蘭の手を握ったまま雨の中を歩んで行った。
「あの、長虎様……濡れますよ……」
 蘭がそう声をかけても長虎は気にしていないようでぬかるんだ土を踏みしめていく。
「あの……長虎様……どうしてここに?」
 蘭の言っている意味を理解したのか、長虎はぴたりと止まる。
 雨に濡れた背中が憂いを帯びていて、なんだか悲壮感を漂わせているように見えた。
「長虎様?」
 蘭は何も言ってくれない長虎を不思議に思い、もう一度だけ名前を呼んだ。
「さっきの見ていたんだね」
 長虎がぽつりと呟き、繋いだ手をゆっくりと離す。
「傘があったってことは……咲子とのことを見ていたんだね?」
 長虎が振り返り、確認するようにそう言った。
「あ……ごめんなさい……盗み聞きするつもりはなかったんですけど……」
 咲子とのキスが脳裏に浮かび、戸惑いを見せてしまう。
「それで、自分は用無しだと思ったのかい?」
 はっと顔を上げてまっすぐに長虎を見つめた。
 その通りだと告げられずに、口ごもってしまう。
「それで勝手に僕の元から離れようと?」
 長虎がいつもの余裕ぶった表情ではなく、切羽詰ったように問いただしてくるのでどう答えていいか迷った。
 降りしきる雨の中、長虎が視線を絡ませてくる中に熱情が滲みはじめ――
「――あっ」
 長虎が動いたかと思えば、あっという間に腕の中に掻き抱かれる。
 反動で、手に持っていた傘が空中に放り出されてくるくると弧を描きながら濡れた地面に落ちていった。 
「長虎さ――」
 そう呼んだ瞬間に、蘭の唇は強引に塞がれる。
「――ンっ」
 すぐさまこじ開けられ、濡れた舌が口腔内をなぞりあげていった。
 何度も角度を変えて、熱烈なキスをされると脳がぼんやりとしてくる。
 ようやく解放された唇から、二人の粘ついた透明な糸が引かれていてそれが淫靡に見えた。
「僕は最低かな……咲子と蘭……二人のキスを比べていた」
 えっと目を丸くすると長虎はふっと微かな微笑みを漏らす。
「愚かだよね……こんなにも違うのに」
 熱情的に潤む長虎の瞳が、吸い込まれそうに綺麗で――
 みとれていた蘭の唇はもう一度塞がれた。
「君との……キスは切なく……こんなにも甘い……」
どういう意味だろうと考える暇もなく、長虎は烈しいキスを浴びせてくる。
 漏れる吐息の一つもこぼさないように吸い上げてくる長虎のキス。
 ざあざあと鳴る雨の音を聞きながら――この前のキスもこんな日だったと蘭の脳裏にそれだけが掠めていった。 


 





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