河畔に咲く鮮花  

第四十四輪の花 1:義鷹の再来

 


***


 その日も天候は優れず、灰色の空からはすぐに雨が降り注いできた。
鬼ごっこ事件があり、数日経った今では長虎も蘭の看病の甲斐があり、みるみる回復していた。
 顔の腫れもすっかり治ったようで、元気になったというのに、蘭とは一緒に寝床を共にする。
本人は静音から守るという名目だと言い張るが、抱き枕変わりにされて、毎夜、好きになってくれと囁かれば段々とほだされていくというものだ。
 それが狙いなのか長虎はそれを繰り返し、挙句は一緒にいる昼間でも、父と御飯を食べている時でもその言葉を囁いた。
 実は静音よりもしつこいのではと蘭は思うが、当の本人はお構いましである。
 恋に目覚め、すっかりふやけてしまった長虎だったが、今宵ばかりはいつも通りの冷たい瞳をする青年に戻っていた。
「とうとう来たか……」
 そう呟いた長虎は渋い面をして、降り注ぐ雨の水滴の一つ一つに視線を彷徨わせる。
どことなく落ち着きを欠いた長虎は蘭に振り返り、重たそうに唇を開いた。
「蘭に客が来ている」
 長虎の低く発せられる言葉は、ぴりぴりと殺気だっていて、蘭の肌を刺していく。
蘭の客というのも目からうろこものだが、長虎にとってはおもしろくない相手なのだろう。
 あからさまに嫌な顔をする長虎を見て、蘭も僅かなりにも不安を胸に抱いた。
――客人って誰だろう
 すでに客人を待たせているようで、蘭は長虎の言われた通りに後ろをついて行く。
 深緋の間と呼ばれた、蘭が来たばかりに宴会が施された客間に入ると、ずらっと座った一同に唾を飲み込む。
 健吾、咲子、静音、アキの面々が磨き上げられた黒の御影石のテーブルに着席して、こちらを一斉に振り返った。
 何事かと固唾を飲んでいると、柔らかく暖かい声音が蘭を招き入れる。
「蘭、ようやく会えたね。浅井家にいるとは私も調べるのに少々手間取った」
 そこで初めて上座に位置する場所に義鷹がいるのを確かめて、蘭は思わず口を大きく開いてしまった。
――よ、義鷹様っ
 客人とは義鷹のことであったと分かり、呆気に取られる。
「さぁ、こちらにおいで」
 義鷹が手招きすると蘭はふらふらと歩み寄って、隣の空いた席に座らされる。
ここに義鷹がいることが信じられず、じっと真顔で見ていると少しだけ眉をひそめられた。
「蘭……ここに青い痣がうっすらと残っているね……」
 義鷹が手を伸ばしてそっと痛ましげに触れたのは、静音に殴られた時の跡。
――あっ……まだ傷跡が残っていたんだった
皮膚の薄い蘭は長虎と違ってまだ、その痛ましい跡形を唇の端に残している。
義鷹の目に怒りを帯びた感情が走り、ゆっくりと獲物を見定める眼差しで一同を見回した。
「この傷は誰が……つけたのですか?」
 一人、一人に強い視線をぶつけながら、義鷹は尋問するように冷たい声音を放つ。
ぴくりと肩を震わせた静音が我慢ができなくなったのか、顔を上げて醜悪に顔を歪ませた。
「私だよ、下虜を殴ってなにが悪いっ! こいつは長虎様を姉上から取ったんだ! 本当ならもっと痛めつけてもいいんだ」
 狂気を孕んだ形相で静音はそう怒鳴り声を上げるが、義鷹は至って冷静そのものであった。
ついと、咲子、長虎に視線を投げては何かを思案している。
「そう――ですか。そういうお考えは私は好きではありません。だが、今回は許してあげます」
 許す――といいながら義鷹の冷たい感情は、この部屋の温度を一気に下げる。
蘭はなぜだかざわりと胸が騒ぎ、記憶の一部が蘇る。
 義鷹は蘭を誰かから助ける為に、何か恐ろしい計画を立てていた。
うっすらとしか覚えていないが、邪魔な人物を潰す為に、蘭を守る為に、その誰かの両親を事故に見せかけ――。
「では、蘭は私が引き受けますので、よろしいですね」
 義鷹が有無も言わさない空気を切り裂いたのは、口の片端を吊り上げた健吾である。
「ちょっと、待てよ。そいつの所有権は俺にある」
 蘭ははっと我に戻り、凍てついた視線で健吾を見る義鷹をちらりと見つめた。
「健吾殿、私に女を見繕ってくれるとおっしゃいましたね。上出来です。蘭は私の好みです。だから有り難く貰いたいと思いますが」
 義鷹と健吾にしか分からない話をされて、蘭は目を丸くした。
 この二人はどのような関係なのだと思考を巡らせても、蘭程度では計り知れない。
「……そうだな、じゃあ少年覇王にも自慢してやろう。今川義鷹が気に入った女だってな」
 健吾の煽る言い方に義鷹の拳がぎゅっと固く握り締められた。
 流麗な瞳は細められ、今までとは違った雰囲気を醸し出している。
義鷹と健吾の間でばちりと火花が散る音が聞こえた気がして、はらはらと様子を見ているしかない。
「何が……望みです?」
 ようやく重い沈黙を破った義鷹の声音は空気を切り裂くほど冷たい。
ぐっと部屋の中の闇が増した気がして、蘭はぞくりと肌を震わせた。
「御三家にするよう、覇王を説得しろ。そしてお前は俺に服従するんだ」
 健吾の低い笑いが場違いに響き渡り、蘭はその不気味な様子を黙って見ているしかなかった。
その他の者も会話に入れないようで、じっと二人のやり取りを聞いている。
「……いいでしょう。私を服従させたいなら、御三家に入るしかないですものね。貴族とはいえ、徳川と豊臣に庇護された私を負かせるのは御三家のみ」
 提案を取り入れても義鷹の目は恐ろしいほど冷えていて、声も暗い響きを乗せていた。
そんな義鷹を見たことない蘭はどきどきと心臓が早まり、胸を押しつぶされそうな不安に陥る。
「……ちっ、やっぱりこっちが本命か」
 健吾が舌打ちを軽く打つと、忌々しげに唇を歪ませた。
――本命?
 その意味も分からず蘭は眉をしかめた。
「長虎、その女は止めとけ。さっさと今川義鷹に渡すんだ。藪ヘビつつき過ぎた」
 健吾らしからぬ弱気な発言に声を荒げたのはアキであった。
「何言ってんのさっ! 覇者より権力を持つ生意気な今川義鷹を懲らしめようと言ったのは健吾じゃない! そのまま健吾が御三家になれば何も問題はないよっ」
 アキが興奮した様子で息巻くが、健吾ははぁと長い溜息を落とす。
そして髪をわしゃわしゃと掻き乱し、じっと義鷹を見た。
「まぁ、御三家になれば今川義鷹は服従出来るとしても……こいつの黒い噂は絶えねぇ。俺も両親は殺されたくねーしな」
 健吾の言葉に反応したのは義鷹ではなく蘭の方だった。
さきほどの記憶の一部は間違いなどではなかった。
そう、義鷹が蘭を守る為に、誰かの両親を事故に見せかけ――抹殺しようとした。
だが、記憶の断片はそこまでで、すぐに黒いもやに包み込まれる。
「何の話しだよ、健吾?」
 アキは分からないと言った風に首を傾げるが、義鷹は平然とした様子で座っている。
「それに……うーん、この女は今川義鷹よりもっとやばい、邪を引っ張り出してくるぞ、長虎」
 健吾は困った風に笑うと、今度は視線を長虎に流す。
それでも長虎は毅然として答えた。
「今川殿、蘭は僕のことを好きになってもらうことにした。だから、この僕が引き取ろうと思う」
 ぱきっ――義鷹がグラスを力強く掴み、亀裂が生じた音が一同の心を凍らせる。
割れたグラスで義鷹の綺麗な手は傷つき、鮮明な血の珠を浮かび上がらせた。
 痛いはずなのに何一つ表情を変えない義鷹を見ていると、この部屋の中の空気が段々と闇色に染まり上がってくる。
 肌を切り裂かれるほどの冷たい闇が襲ってきて、蘭は思わず両手で自分の肩を抱きしめた。
「――いいでしょう。しばらくは浅井様に預けます」
 逡巡していた義鷹は数秒後に、あっさりとそう言ってのけた。
 だが冷たい空気は和らぐことがなく、義鷹が静かな殺気を滲ませているのが分かる。
「今日は引きます――蘭がどこにいるかは分かりましたので」
 義鷹は澱んだ空気を裂くように立ち上がると同時に、蘭の唇は深く塞がれた。
 ――よ、義鷹様っ……
この流れで何が起こったか分からず、体を固まらせていると周りから息を呑む声が聞こえる。
「蘭……もうしばらく待っておくれ……すぐに住める場所を用意するから……私の愛しき蘭……」
 見せつけるように口づけを交わした義鷹の唇が、ゆっくりと離れていくのをぼんやりと見上げた。
優しい笑みを湛えた義鷹は蘭の知っているいつもの顔。
 だがすぐに感情のない瞳に戻り、くるりと振り返っては長虎を見据える。
「……では、浅井様、ごきげんよう」
 もったいつけたいい様で義鷹は悠然と歩み、長虎の横を通り過ぎていった。
立ち去る義鷹の背中を見て、咲子と静音がほっと息を吐き出したのを目の端に捉える。
アキも肩の力を抜き、椅子にどっと深く腰掛けた。
「あいつ――貴族の癖にめっちゃ怖いんだけどぉ」
 緊張で乾いた喉を潤すように、アキがごくごくと一気にジュースを流し込んだ。
「――長虎……やっぱあいつはやばいぜ。会食の時と全然、顔が違うわ。みんな、柔和な笑みの裏を見抜けない。それを知って、飼っている覇王も相当な面の皮だけどな」
 健吾が友達思いを前面に出し、警告をするが長虎は押し黙ったまま拳を固く握りしめていた。
 その瞳は初めて会った時のような、澄んでいても深く冷たい色を滲ませていた。








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