河畔に咲く鮮花  

第四章 四十三輪の花 2:長虎の熱ー2


 ***

 まどろみ寝ていた蘭を起こしたのは、長虎の屋敷の侍女である。
 いつの間にか部屋へ戻り、浴衣を着させられていた蘭は、上体を起こし、軽くだが寝ぼけ頭を振った。
 長虎が助けてくれたのは覚えているが、そのあとは疲れがどっと出て眠ってしまったらしい。
もしかして寝てしまった蘭をここまで運んでくれたのは長虎だろうか。
 ぼんやりと考えていると、侍女は庭の前で止まり、ぺこりをお辞儀だけをして去っていってしまった。
 以前に蘭が、紅葉の掃き掃除をしていた庭であったが、また積もっている。
 蘭が軟禁され部屋にこもっていた為に、作業が出来なくなってしまったからだ。
 紅い葉が絨毯のように地面に敷き詰められている様は、掃いてしまうのがもったいないほど美しい。
 縁側に座り込み、堀池に映し出される紅葉を見ながら蘭は無心にその情景だけを見つめていた。
「この景色は美しいかい? 紅葉を見ながら和菓子でも食べようか。そうしたらもっと美しく見える」
 ぼうっとしていた蘭の隣にすっと座ってきたのは、何事もなかったような顔をしている長虎だ。
 驚いて長虎に振り向くと、柔らかい微笑みが返ってきた。
 作り物の笑顔ではなく、肩の力を抜いた本来の笑み。
 だが一瞬だけ眉根を寄せて、悲しげに瞳を揺らせては、繊細な指を蘭の口元に伸ばしてくる。
指先が口の端に触れた瞬間、ちりっと痺れに似た痛みが走った。
「――つっ」
 言葉にならない叫びを喉の奥だけで上げて、蘭はその痛さに顔をしかめる。
 長虎がそろりと指を放し、小さくて丸い容器の蓋を開けて白いクリームを掬った。
 指先に乗ったクリーム状の個体は蘭の唇の端に触れ、優しく塗りこまれる。
 真剣で労わるような長虎の顔を見ると、蘭はどぎまぎと心が乱された。
「特性の傷薬だからね。すぐによくなると思うよ」
 わざわざ蘭の為に傷薬を持ってきてくれたのかと思うと、先ほどまで長虎の指が触れていた唇の端がじんと熱を帯びる。
「さぁ、今度は和菓子と暖かいお茶だ」
 長虎が用意したのかお盆の上にはポットと湯呑があり、和菓子の乗った高級な皿を差し出された。
 羊羹のようだったが、何を思ったのか長虎が小さく切っては蘭の口に運ぶ。
「な、長虎様っ?」
 恥ずかしいけれど長虎は蘭が口に含むまで止めてくれなさそうだった。
 仕方なく口を開けては切り分けられた羊羹を食べる。
 唇の傷跡が痛まないように、小さく切り分けてくれたのかと思うと、胸が暖かくなった。
――長虎様って……気が利く……
 きっと普段からデートの相手にもこのような甘いことをしているのだろう。
 親衛隊がいる長虎を見て、ようやくモテる理由が分かった気がした。
「ありがとうございます。今度はお返しにしてあげますね!」
 蘭が羊羹を切り分けて今度は長虎の口に運んだが、本人は目を瞬かせて固まってしまっている。
「長虎様?」
 不思議に思い顔を伺うが、間違いでなければ長虎の白い頬は朱に染まっていた。 
「ごめんなさい、はしたないことをして」
 もしかして上流階級の女性はこのようなことはしないのかもしれない。蘭は慌てて手を 引っ込めようとするが、がしりと腕を掴まれてそのまま羊羹を食べられる。
「うん、おいしいね。蘭が食べさせてくれると思えば、余計に旨みが増す」
 長虎が上機嫌に笑いながら、もぐもぐと羊羹を食べる姿は可愛らしい。
冷たい仮面を剥ぎ取った長虎の表情はどこか払拭されて、今まで以上に綺麗に見える。
 元々綺麗だったが、これほど美しかっただろうか――蘭は長虎の瞳に映る自分の間抜けな顔に気づき、慌てて視線を逸した。
「蘭……僕のことなど嫌いだろうね」
 ふと漏らされた切なげな声に視線を戻すが、長虎は庭の紅葉をじっとみやっている。なにか言おうと思ったが、すぐに長虎が艶のある唇を開く。
「僕……いや、覇者というものが嫌いなんだろ? 君の態度を見れば嫌でも分かる」
 それに関しては蘭は言葉を詰まらせてしまう。
 雲の上の覇者という存在がどのようなものか見てしまった。
 人魚の里を火の海にしようとした上杉健吾のことが思い浮かび、知らずに眉が寄ってしまう。
 そして、長虎から嫌味で冷たい態度を浴び、アキにも馬鹿にされた。
 だが一番の苦しみの要因は、静音であった。
 下虜をゴミ同然、畜生以下に見ては、暴力を平気で奮い、犯そうとし、その上、首を絞められて殺されそうになった。
 思い出すだけでも指先が震え、心を内に沈ませる。
「当たり前だよね。酷い仕打ちばかりしているのだから」
 いつもより覇気のない長虎の声が僅かに震えて、この美しい庭に静かに落とされた。
「……覇者は嫌いです……初めは長虎様も嫌いでした。でも、今は嫌いじゃないです。下虜相手にもこうして話してくれるし、労わってくれる。静音様からも助けていただきました。それにきっと長虎様は自分で思っているほど嫌な奴じゃないと思います」
 蘭が正直にいうと長虎は小さく肩を揺らして、ふっと忍び笑いを漏らした。
「下虜の癖に言うじゃないか。僕だって、君が来た時は煩わしかったよ。せっかく休養を兼ねて別荘に来たっていうのに、いきなりしらない女が土足で踏み込んできた。そんな感覚だったよ」
 いつもの長虎に戻り、沈んでいた瞳の中に光を宿しはじめる。
「それはこちらも同じです。知らない場所に連れて来られて、嫌味は言われるし、野猿扱いされるし、冷たくされるし」
 蘭は負けじと言い返すと、ますます長虎は愉快気に肩を揺らせて笑う。
こっちは何もおもしろくはないと言うのに、蘭は不快に顔をしかめた。
「だって君は本当にはちゃめちゃだもの。裸足で庭に降りたり、アキの嘘に騙されて馬鹿みたいに湖に潜ったり。挙句に、僕の親衛隊と喧嘩はするし……くくっ……」
 生卵を体中にくっつけて親衛隊に向かっていった様子を思い出したのか長虎はおもしろそうに笑いをあげる。
「あれは、お父様を守ろうと思ってです。それにアキちゃんは大事なネックレスって言っていたから、気持ちは分かるんです。まぁそれが嘘で良かったんですけどね。私もなくしたら絶対に探しますもん」
 蘭はそこまで言うと、胸にかけられたネックレスについた指輪をそっと握り締めた。そうすると長虎の手が伸びてきて、鎖にかかった指輪を力任せに引き寄せる。
「鷹の紋様……っ……今川義鷹が送ったものか」
 長虎の表情ががらりと変わり、どこか苦しげに呻きを漏らした。
「長虎様……苦しいです」
 首に引っかかったままネックレスを長虎に手繰り寄せられている為、蘭は思ったことをそのまま伝える。
 長虎はようやくその事態に気がついたのか、そっと指輪から手を放してくれた。しゃららと音を立てて、鎖が蘭の首元に戻っていく。
「今川義鷹とはどういう関係なんだい?」
 長虎の瞳に悲哀がぐっと増した気がして、蘭はそろそろと話をし始める。
「それが……記憶をなくしていまして……下虜の私は身売りに行き、豪商に買われました。暴力を奮われ、逃げ出したところ、偶然居合わせた義鷹様に助けてもらったんです。そこから引き取られて、屋敷に住まわせてもらうようになったのですが……そこからは何も覚えていないんです」
 そこまで語ると長虎は驚いたように蘭に振り向く。そのような反応が来るのは分かっていたことだから、蘭は微かに微笑んでみせた。
「どうして、記憶が……?」
「記憶をなくした要因が定かになっていなくて……でも、義鷹様は知っているようでした。聞くなら教えてくれると言われましたが、なんだか不安で怖くて……知る度胸がないんです」
 蘭はふぅと溜息をついて、心配そうにみてくる長虎を見つめ返す。
「ですが、ときに記憶が戻ってくることがあって。この間の咲姫が主催した生花会ですが、倒れる直前の映像の一部が残っています」
 咲子が催した生花会のことを口に出すと、長虎の顔は曇り、済まなそうに眉がひそめられた。
「あの時は悪かったね。咲子がまさか蘭に見繕った着物と同じものを作らさせていたとは。僕がお馴染みにしている仕立て屋を知っているから、わざとあてつけにあのようなことを」
 長虎が悪いわけでもないのに、必死で言ってくれる様を見て蘭はゆっくりと首を横に振る。
「いいんです、差し出がましいことをしたのは下虜である私です。咲姫は長虎様のことを好きなんですね」
「だからと言って、花に仕掛けを施したり、静音の暴挙を黙認したりするのは許されないことだ」
 花に仕掛けが施されたことを長虎は知っていたのだ。
蘭は目を丸くするが、長虎は視線を感じ取ったのか苦笑する。
「咲子を問い詰めてもいいが、そんなことをするとますます蘭に当たりがきつくなると思ってね。だから、波風を立てなかったんだ。でも……今度静音が君に何かをしようとしたら、絶対に許さない」
 揺るぎない強い決心は蘭の心の奥まで染み込んでくる。
 その言葉を聞けただけでも冥利に尽きる。
 そう蘭は思い、長虎に感謝の眼差しを向けた。
「いいんです。そう言っていただけるだけで。下虜に肩入れなどすると長虎様の立場が悪くなります。咲姫と仲違いして、家同士の争いになったらどうするんですか」
 政略結婚と言ったが、お互いの家が利益があって結ばれるのであろう。
 その均衡を崩してはきっと長虎に迷惑がかかってしまうに違いない。
 今でも十分に優しく接してくれた。
 初めは冷たい長虎も今は心を許してくれているように思える。
 下虜としてはそれだけでも十分に幸せなことであった。
「下虜……か。僕は初めはそれ程度のものだと思ってたよ。でも温かみや、優しさや、輝かしい笑顔がある。人を思いやる気持ちや、虐げられても負けない強い気持ち。それを全部、教えてくれたのは君だよ」
 優しげな口調で長虎が囁いてくれると、蘭はほんわかと心が温まる。
 冷たい匂いを纏わせていた長虎がこのように優しくなるとは思っても見なかった。
「だから君を見ていると、覇者というものがどれだけ醜く、汚れているものかが分かる。対比する者がいて、ようやく気づくなんて愚かもいいところだ」
 最後は自嘲気味に笑い、長虎はそっと蘭の頬を撫でる。
 指の腹でつーっと感触を確かめるように触られるとくすぐったくて堪らない。
「お願いだから、逃げないでくれないか。君の肌は吸い付くようで、滑らかだし気持ちいい」
 指の腹だけだったのが、手に包みこまれると何度も蘭の頬をやんわりと揉む。
「覇者は権力を振りかざし、下虜の意思も誇りも奪う。愚かだが、今夜は僕もそれを使用することにするよ」
 えっと蘭が思ったのも束の間、暖かい手が頬から離れていき、長虎はすっと立ち上がった。
 長虎の言った意味が理解出来ずに蘭は戸惑いが隠せない。
だが、すでに話は終わったようで、長虎はその場を静かに退出した。
 庭の敷き詰められた紅葉が風に寄って、かさかさと舞い散り、その音がなぜだか無性に切なく蘭の胸を締めつけた。
 







 





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