河畔に咲く鮮花  

第三章 三十六輪の花 2:上杉家の鬼姫


 最近は徳川からの捜索がないために、落ち着いてはいたが、まだ油断は出来ない。
 典子は自宅の道場ではなく、雪のいる潜りの医者のところに仕方なく綾乃を連れて行くことにした。
 裏口から入り、いつものように典子は狭い物置小屋のような部屋で睡眠をとる。
 今日は綾乃がいるので、おんぼろのソファで悪いが、そこに寝かせて典子は雪の元へ向かった。
 雪は変わらずにベッドの上で目を閉じている。闇医者はというと、相変わらず酒を飲んでは、隅のソファで寝転がっていた。
 典子は雪の寝顔を見ては、色々な話を聞かせる。
「覇王……徳川の家朝様が新生覇王の戴冠式を終えて、お披露目パレードもなさいました」 
 心拍はなにも変化を見せず、いつもと変わらない。
それでも典子は様々な世間の話をして、寝ている雪に話をする。
 そのうちに典子は疲れて、闇医者をソファから落とすと、床に転がしては自分が腰掛けた。
 綾乃に会ったこともあり、典子は緊張の糸を途切れたのか、そのまま深い眠りについてしまった。
 典子は人の気配がして、眠りから目覚めた。
 雪の護衛役として日々を過ごしていたもので、いくら寝ていても危険を察知する能力は研ぎ澄まされている。
 虚ろに目を開けると、すぐソファの隣に立てかけていた竹刀に手を伸ばすがすぐに止めた。
雪のベッドの真横に立っているのが、寝ていた綾乃だったからだ。
 綾乃は制止したままで、雪の寝顔をじっと見下ろしている。
「……綾乃さん? 目が覚めたのですか?」
 綾乃の後ろ姿に声をかけて、典子は上体を起こすと、雪のベッドに歩み寄った。
「この人は怪我をしていて、ずっと寝ているのです」
 典子は綾乃に説明すると、安らかな顔で寝ている雪に視線を落とす。
「見るつもりはなかったんだけど、喉が渇いて典子を探したらここに来たってわけ」
 綾乃は少しだけ肩を竦めて、寝癖のついた髪をわしゃわしゃと豪快に掻いた。
「ねぇ……この人って……」
 綾乃の眉がしかめられると、みるみる快活な表情が曇っていく。
 典子はごくりと喉を鳴らして、綾乃の横顔をちらりと盗み見した。どうやら綾乃は雪の顔に面識があるらしい。
 典子ははやる胸を押さえて、なるべく平静を装う。
 せっかく、隠し通していたのに、ここで露見すると水の泡だ。
 この部屋から出さねばと思った時に、綾乃がすっと手を伸ばして雪の頬をぎゅっとつねる。
「な、なにをやっているんですか、綾乃さん!」
 典子は驚いて、綾乃の行為を止めさせようとするが、全くもって手を緩めない。
「起きろよ、いつまで寝てんだ。あんたがいなくなったから、世間は大騒ぎなんだから。ていうか、うちも御三家に組み込まれそうで、迷惑被っているんだよ!」 
 綾乃は罵倒しながら、今度は雪の耳をむぎゅっと強くつまんだ。
「綾乃さん、御三家って?」
 典子は驚きの表情を刻んで、綾乃を見てしまう。
「あっ、興奮してつい言っちゃった」
 綾乃はくるっと典子に顔をねじって、しまっとと口を大きく開いた。だが、指は雪の耳をつまんだままだったので、典子は慌てて綾乃の手を掴んだ。
「綾乃さん、止めて下さい! 覇王がっ!」
 つい出た言葉に今度は典子はあっと口を閉ざす。綾乃も典子と視線を絡めさせて、沈黙したままだった。
「やっぱり……織田信雪なんだね……」
 綾乃の手が雪の耳から放れて、確信したように一つ頷く。
典子は言ってしまった手前、どうすることも出来ずに言葉を詰まらせてしまった。
 奇妙な沈黙が典子と綾乃の間に流れ、お互いがお互いを何者かというような読み合いをする。
 そんな時間が数秒過ぎた時に、綾乃があっと目を見開いた。
 綾乃の視線は、典子ではなくその後ろにいる雪に注がれている。
「ねぇ、あいつ目を開いているよ」
 綾乃が恐る恐るそう言って指を差した。
 典子はえっと目を丸くして、振り返り雪に視線を巡らせる。
 そしてわなわなと小さな体を震わせて、雪を見て目を大きく見開く。
 雪の目が微かに開いて、世界を確認するように何度も瞬きを繰り返した。
「覇王がお目覚めになられた……」
 典子は唖然として、雪の様子を伺い、その場で立ち尽くす。
 雪はようやくばちりと目を開いて、まだ虚ろに天井だけを見つめている。
「覇王……お分かりですか? 典子でございます」
 典子は歓喜に打ち震えて、雪の目覚めに感激した。雪は典子の声が聞こえたのか、ようやく首をねじってこちらを見つめる。
 徐々に瞳に光が戻って来て、雪は口から酸素マスクを外す。
「……あれから……どのくらい……経った?」
 掠れた声で雪はそれだけの言葉を途切れ途切れ口にした。
 典子は一瞬答えに詰まるが、ひと呼吸置いて頭を下げる。
「……あれから……四ヶ月の時が過ぎました」
 それを聞いた雪の目がカッと大きく見開かれる。何かを思案しているような、そんな表情を浮かべたまま黙ってしまった。
 典子はこの間に起きたことを、雪に一つ残らず話さなければならない。
 何から話せばいいのか分からずに、長い眠りから目覚めた雪を不安そうな顔でいつまでも見つめていた。






 





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