河畔に咲く鮮花  

第一章 四輪の花 1:蝶子の激昂


 

 澄んだ秋空が晴れ渡る日、蘭といつも一緒にいる御三家達は会合があるとかで学園には朝からいなかった。
 蘭は一日中珍しく一人になり、帰りも義鷹の家までのんびり歩いて帰ろうと、正門を出る。朝はいつも義鷹の家の運転手が学園まで送り届けてくれていた。
 帰りも迎えに来てくれていたが、最近忙しそうにしている義鷹に運転手はつきっきりである。義鷹の手を煩わせるのは悪いので、蘭は徒歩でなら一時間ほどで帰れる家を目指す。
 義鷹の家まではほとんど一直線なので、貴族や覇者達の住む地域でも迷うことはないだろう。一時間も歩くといえば、義鷹は呆れた風に顔をしかめるのだが、蘭は下虜なので大したことはない。
 下虜街で商売人から下請けで仕事をしていた時など、一日中走り回っていたからだ。
 体力には自信があるから、何のことはない。
 それに今は車で送り迎えされているし、体がなまっているほどだ。
 肌にひんやりと冷たい空気も、歩いている内に心地良いものになるだろう。
 蘭は一つに結んだ亜麻色の髪を揺らしながら、一人きりの開放感に酔いしれる。
 制服も今思えば、男物にしてもらって良かった。女物だとスカートだし、足がすうすうとして気になってしまう。いつもつなぎで仕事をしていた蘭には、こういう男物の服の方が動きやすくありがたかった。
 初めはとものお下がりといっても、一式何十万もする制服を着させらた時は怖くて体を動かせなかった。
 だが、徐々に慣れてきて、今では高い制服を着ていても自由に動かせられる。
 それでも汚さないようにしなければと考えながら、学園前の道を歩いていると、スッと蘭の隣に黒塗りの高級車が停車して、ウインドウを下ろしてきた。
 一瞬、義鷹が迎えに来たのかと、蘭は歩くのを止めてその高級車に体をねじる。だが、後部座席に乗っている人物を見て、蘭はあっと顔を驚かせる。
 学園では一度しか見たことのない、その女生徒だったが、蘭には強烈な印象として残っていた。 ランチの時に雪の隣の席に座り、蘭について悪感情を持っていたことは覚えている。
 ――そして、雪の婚約者だということも。それが一番、蘭の気持ちを揺さぶったことだった。その雪の婚約者、覇者の娘である斎藤蝶子が車の中に座っており、蘭のことを訝しそうに眺め回してきた。
「ねぇ、少しお話がしたいの。車に乗って下さらない」
 蘭の返事も聞かずに蝶子はぶしつけに命令口調で言うと、後部座席のドアを開け放った。
 蝶子はさっとお尻を滑らし、蘭が座れるように一つ席を空ける。
 蘭は戸惑うが、蝶子の有無を言わせない態度に、仕方なく空けられた後部座席に座った。
 蘭が乗ると示し合わせたようにバタンとドアは締まり、蝶子が体をねじってこちらをむいてくる。
 蝶子はやはり間近で見ると、圧倒的な美貌ということに改めて気がつく。
 大きく張り出した胸元も、きゅっとくびれた腰も、蝶子自身が放つ華やかなオーラも全て、怪しくなまめかしい。
 そのくせ、上質な香水の香りが漂い、気品を保つ。
 住んでいる世界が真逆ということを感じて蘭は息を呑む。
 蝶子の大きな瞳が蘭を射て、訝しげに細められた。
「あなた、どこの生まれの方なの?」
 腕を組んで蝶子は蘭の頭から爪の先まで眺めてくる。居心地の悪さを感じながら、蘭はここで本当のことを言うべきだろうか考えた。
 下慮が雪の傍にいると分かれば、蝶子はどんな反応を示すだろう。
 言い淀んでいると、蝶子は長い腕を伸ばしてきて、ぎゅっと蘭の胸を掴んだ。
「――っつ!」
 胸に痛みが走り、蘭は思わず苦痛の呻きを小さく漏らした。さらしの上からでも、掴まれば胸の膨らみは分かる。蘭が女ということを確信したのか蝶子は目を瞠り、唇をわなわなと震わせた。
「やっぱり……女なのね……」
 はっと蘭はその蝶子の怒気を孕んだ声音に体を強張らせる。失礼にあたるかもしれないが、瞬時的に蘭は蝶子の手を払ってしまった。
「あなたのことは調べているのよ。下慮の生まれだそうだわね」
 手を払われたことも気にしていないのか、蝶子は綺麗な顔を歪ませて怒りが滾った瞳で睨みつけてくる。
 本当は調べて蘭にわざと出身を聞いてきたのだ。もう誤魔化しは利かないことが分かり、蘭は口を閉ざすしかなかった。
――パシッ 
 乾いた音が狭い車内に鳴り響き、蘭は一瞬のことでなにが起きたのか分からなかった。だが頬にはじいんと痛みが刻まれ、赤い跡を残す。
 蘭は頬に痛みを感じながら、蝶子の振り上げられた手を見上げた。蘭は蝶子の平手打ちを食らったのだった。
 それでも蝶子の気は収まらないのか、ぶるぶると蘭を叩いた手を震わせている。
「私は雪様の婚約者よ。それが下賤な下慮の女を傍に置いているなんて。すぐに雪様から離れなさい。どうせ、権力と地位が目的なんでしょ? それともどこかのスパイかしら? なにが目的なの。おっしゃいなさいな。お金なら私が払ってさしあげますわ」
 蝶子から心にもないことを言われて、蘭は拳をぎゅっと握り締めた。
「わ……私は……権力も地位もお金もいりません……蝶姫様がおっしゃるような計算もしておりません……」
 蘭は悔しさに震えながら、それだけは蝶子に分かってもらおうと声を振り絞った。
「そりゃあそうかも知れませんわね。下慮如きが計算できる頭があるわけありませんもの」
 蝶子の揶揄を込めた嘲る笑いが蘭の心を痛めた。それでも蘭は覇者の娘である蝶子に逆らえるはずもなく、唇を噛み締める。 
「じゃあ、あなたは何のために雪様の傍にいらっしゃるの?」
 蝶子は釈然としないのか、なおも蘭に追及してくる。蘭は拳をぎゅっと握り締めて、屈辱の一言を放った。
「私はただの小姓です……飽きて……捨てられるまでの、おもちゃです……」
 蘭の言葉を聞いた蝶子は、潤いを帯びた唇を残酷に歪ませた。
「まぁっ、おっほほほほほ! 嫌だわぁ。雪様もお戯れがお過ぎる」
 蝶子の嘲笑に蘭は悲しくなり顔を俯かせた。悔しくてたまらないが、それは本当のことだった。覇王のただの一時的な遊戯――。
 それは義鷹とて同じである。毛並みのいい貴族や覇王に飼われている下慮。
 蘭は、珍しいペットと同じ扱いなのだから。
「そういうことなら仕方ありませんわ。あの方が貴族や覇者の娘に手を出さないのは、変に関係を持って妻面させない為ですの。遊ぶ時は、いつも商売女としてますのよ。最近は忙しくて、通う暇もないから、あなたを遊び女として傍に置いているのですわね」
 蝶子の心ない残酷な物言いに、蘭の瞳から自然に涙がぽろりと滑り落ちていった。その事実を分からなかったわけではない。下慮の娘は家族を助ける為にこういう運命を辿る。
 それを幼い頃から見ていた蘭にもいつかはこういうことが訪れると分かってはいたが――。
 雪や義鷹が特別扱いして優しくしてくれたり、笑いかけてくれただけでも遊び女ではなく、一人の女として見てくれている。 
 そんな錯覚にも陥っていた。だが、やはりそれはただの勘違い。
 飽きられて、ポイっと捨てられ、雪はこの血筋の良い位の高い娘と結婚をする。
 ――蘭は、それまでのただの遊びという繋ぎなのだ。
「これでも私は覇王の妻になる女。遊び女如きに目くじらを立てても仕方ありません。これも王の戯れ。ねぇ、あなた。今の内にたっぷり雪様を楽しませておいて下さいな。遊び女ですもの、色んなことを知っているのでしょう? そして、雪様に技を仕込んで、この蝶子を抱くと時に満足させられるように、ね?」
 蝶子は妖艶に微笑むと、今度はゆっくりと蘭の髪を撫で上げた。その残酷な囁きは、蘭の気持ちを静かに蝕んでいく。蝶子は自分を抱くまでに、雪に色々技を仕込めと言ってきているのだ。
 蘭はそれまでの練習台になれと言っているようなものだった。
 蘭は屈辱で体が震えてたまらなかった。上流階級の人間は下慮をゴミのようにはいて捨てる。
 下虜をただの道具として扱い、そこに意思を持たせない。それは下虜街でお兄さんと慕っていた光明も同じことを言っていた。
――俺たちは結局、どろ沼を這うような生活から抜け出せない
 光明の怜悧な顔に初めて苦渋の色が見て取れたことを蘭は覚えている。幼くてまだ意味がわからなかったが、蘭は覇者の世界の者と出会い、その自分の存在の矮小(わいしょう)さを身に持ってしる。
 自分という存在は、覇者達にとっては、道端に落ちている石ころ――いや、それ以下のもの。
「さぁ、行って」
 蘭の髪をひとしきり撫でた蝶子の綺麗な顔は、醜悪に歪んだ。それを見ただけでも強烈な吐き気を催す。
 蝶子の高貴な香水の香りは今や、気持ちが悪くなるほど鼻を吐き、蘭の心は内に沈んでいく。 
 蝶子は冷たい視線に戻り、ドンと蘭の体を激しく押して、汚いものに触れたように高級なハンカチで手を綺麗に拭きとった。
 悲しくて悔しくて――蘭は開け放たれた車のドアから逃げるように走り去った。
 屈辱に心を震わせ、泣きたくもないのにぼろぼろと涙がこぼれては、頬を流れ落ちていく。
 蘭は血が滲むほど唇を噛み締め、義鷹の屋敷へ駆け走る。
 体を動かせて心地よく感じるはずの風は、蘭の身と心をただ切り裂くように冷たくしていった。







 





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