河畔に咲く鮮花  

第一章 四輪の花 2:狂おしい揺らめき


 
 義鷹の家に帰ってもご飯を食べる気になれなくて、蘭は明かりも点けずに部屋の隅で丸まっていた。
 義鷹や雪が会合でいなくて良かった――今は会う気にならない。
 蘭はさっさと寝て、帰って来ても雪に気づかない振りをしようと決め込んで布団に潜り込んだ。
 涙に暮れて目を閉じるといつの間にか眠りが襲ってくる。蘭はそのまま自然に深く寝入ってしまった。
 いつ頃か分からないが、蘭の頬を優しく撫でる感触にふと目を覚ます。
 青く――美しい月の明かりだけが部屋を淡く照らしていた。
 その薄闇色の中、同じような髪と瞳を持つ男が座りこんで、蘭の頬を指の背で撫でていた。
「ゆ……き?」
 まどろんだ意識の中でふと蘭はその名を呼ぶ。
 夜の精かと錯覚するほど、月明かりを浴びた雪の姿は艶やかで、ぞっとするほど美しい。
 雪は柔らかな微笑みを唇に浮かべると、断りもなくそれが当たり前のように蘭の布団に潜り込んできた。
「……なにかあったか?」
 蘭の隣から雪の温もりが肌に伝わってくる。雪は蘭の繊細な髪を優美な手で優しく梳いた。
 雪がこんなことをするから勘違いするのだ――蘭は怒りを覚えると同時に激しい悲しみに揺さぶられる。横暴で傍若無人に命令してきたかと思えば、こんな風にふいに優しくなる。
 あっという間にするりと気持ちに滑り込んできて、蘭の心をほんわかと暖めてしまう。
 だから下虜という立場とはいえ、勘違いを起こしてしまうのだ。
 ゴミ同然と言われる低層階級なのに、蘭はここに自分というものが確かに存在すると思ってしまう。
 それは一つの意思を持つ確実な存在――他の者が塵扱いしても雪自身が蘭を認めてくれている。
 隣で微かに口の端を上げる雪を見れば、労られていると思い込んでしまいそうなほど優しい雰囲気を滲ませている。
――そんな風に見ないで欲しい。嫌いになるくらい酷いことをしてくれれば――
 そう思う反面、本当は優しくしてもらいたい、笑いかけて欲しい――と相反する思いが心の中でせめぎあい、蘭は自分でも苦しくなってきた。
「聞いてるだろ、蘭。なにがあった? 涙の跡がついているぞ。この俺に隠し事をするな」
 穏やかな雰囲気は消えて、いつもの傲慢な雪に戻り、蘭が何も言わないことに頭にきているのか強めの語気で問い詰めてくる。 
 雪の婚約者でもある蝶子との一件を言えるはずもなく、蘭はふるふると力なく首を横に振った。
「俺じゃ駄目か? お前の悲しみを取り除けないのか?」
 雪の流麗な瞳が悲しく細められ、それを見た蘭は胸に突き刺さるほどの痛みを感じた。
 悲しみを与えているのは雪自身だというのに――。
 雪さえ蘭を手放してくれたら、飽きてくれたら、蘭はこの胸がちぎれそうな悲しみから解放されるだろうか。
 それでもどこかではこの男と一緒にいたい、この男の傍にいたい。
 手の届かない人と分かっても、遊びだと分かっていても、一緒にいたい。
 いつの間にか雪に惹かれている気持ちに驚きながらも、この切ない想いをひた隠しにする。 
 雪と一緒にいたいなど、それこそ愚かな考えだと分かっているのに。
 ――蘭、下虜でも誇りを失くしたら、終わりだ。
 ふっと蘭の脳裏に光明の言葉が降ってくる。
――情けない、あれだけその言葉に忠実にいたつもりなのに。
 ごめんね、お兄さん。やっぱり、下慮にはそんな誇りさえも、貴族や覇者達の前では塵に等しい。
 現実を目の当たりにして、蘭の存在などやはりこの世界では矮小なものだと今更気がついてしまった。どんなに目の前の男が優しく労わってくれていても――その奥に潜む雄の情欲の嵐が燃え盛っていることに気がついたから。
「そんなに悲しい顔をするな」
 雪が俊敏に――しなやかに動くと蘭の頭は持たれて、気がついた時には激しく唇を塞がれていた。
「ンっ……くっ……」
 急に口づけされて蘭は息苦しい喘ぎを漏らした。だが雪は待ちきれないのか、すぐに歯列を割り、舌を差し込んでくる。
「はぁっ……蘭っ……」
 夢中でむしゃぶりついてくる雪の柔らかく熱い唇。
――ああ、やはりこうなるのだ。結局下慮はこういう運命。
 思ったとおり、優しい言葉も、労わる瞳も、その奥に情欲を押し隠した、ただの演技。
 蘭は熱く激しいキスを受けながらも、悲しみで胸の中を濡らした。
 雪はそんな蘭の胸中も知らずに自分の欲望を押し付けてくる。雪はキスをしながらすぐさま浴衣の襟から、手を差し込み蘭の柔らかい胸を揉んだ。
「蘭っ……柔らかい……すご……気持ちいい……この感触……」
 雪は甘えた声を出して、濡れた舌を首筋に移動させていく。べろりと熱い舌で舐め上げられると、蘭は屈辱に震えながらも快感に身を悶えさせる。
 雪は荒い息を吐き出しながら、浴衣の帯を解くと露わになった胸の蕾にしゃぶりついた。獣のように激しく吸い、舐め上げられると、艶を帯びた尖りが赤く充血してくる。
「ンっ……ふっ……ゆ……き……」
 遊びと分かっているのに、一時的な繋ぎだと分かっているのに、感じる自分が浅ましかった。
「あっ……蘭っ……蘭っ……うまい……お前のここ……」
 だけど、蘭の頬は悲しみと悔しさの涙で濡れる。声を押し殺していたはずなのに、あっさりと雪に気づかれてしまう。
「蘭、どうして泣く?」
 月明かりを浴びて、美しい顔に陰影を濃く刻む雪を見上げながら蘭は言葉を詰まらせる。
 全てあなたが私に悲しみや苦しみを与えている――蘭はそう言いたかったが言葉が喉に引っかかって上手く出て来ない。
「蘭、泣くな」
 何も言わない蘭の頬を雪がべろりと舐めて涙を掬った。その行為に驚き、蘭は大きく目を見開いた。
「も……やだ。そうやって心を掻き乱さないで……」
 覇王たるものがゴミ同然の下慮の涙を舐めるなんて。そんなことをされたら、蘭はますます離れられなくなる。
「もう、私を解放して……」
 蘭は心にも思っていないことを、あまりに苦しくて吐き出してしまった。雪がぴたりと止まり、その静寂の中、静かに息を呑んだ気がした。その綺麗な瞳は大きく見開れ、どこか焦燥の色を浮かべている。
「駄目だ、お前に意思はない」
 雪の瞳に悲しみと怒りが混じり、恐ろしいほど真剣な声で言ってきた。蘭は戸惑いを浮かべて、雪の寒気がするほど綺麗な顔を見つめる。

「俺に鳴かぬなら――殺す」

 雪の底冷えするような冷えた声が、気味が悪いくらい室内の闇を濃くした。
 その情感的な唇が弧を描いた様は凄絶ともいえるほど美しく、最も底知れない深い闇を孕んだ笑みだった。
 蘭はその淫靡な艶やかさと感じたことのない恐怖で、体を震わせながら細い息を暗闇に落とす。
「だから、逃げるなんてくだらないことは考えるな」
 雪は大人しくなった蘭の体を押さえつけ、無理やり唇を重ねてきた。
「んっ……んっ……雪っ……」
 覇王に逆らうことなど出来ないのに。蘭はなにを血迷ったことを言ってしまったのだろうと後悔する。
「お前の全ては俺のものだ」
 雪は強くしかしながら優しい眼差しで蘭を見つめ、頬の涙をまたぺろぺろと舐め出した。






 





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