河畔に咲く鮮花  




 息を殺しながら気づかれないようにと必死で願う。緊張のあまり、震えた指先が携帯電話に触れた瞬間――バシッと春に腕を掴まれた。
 意表を突かれた蘭は驚愕して、体と共に心臓も大きく飛び跳ねた。うっすらと瞳を開ける春が、こちらを見ているだけで、乾いた喉の奥がひきつる。
「……いい度胸しているな、下慮」
 春の不機嫌そうな声が飛んできて、蘭はぐいっと引っ張り寄せられた。
 どさり――と蘭は呆気なく春の体の上に倒れ込む。
 春はそれでも怒りを刻んで、蘭の手首を掴むと思い切りぎりぎりと容赦なく締めつけた。
「放してよ、痛いっ」
 蘭が必死で振りほどこうとするが、春は残忍な笑みを口元に浮かべ、止めてはくれない。じたばたと暴れる蘭をいとも簡単にねじ伏せて、冷たい眼差しを投げてくる。
「お前、唯を手なずけてここから出ようと思っているのか? なかなかのやり手だな」
 春の嘲る笑いに蘭の体ははっと強ばる。先ほどの唯との会話を聞いていたのだ。
「……聞いていたの?」
 蘭は恐る恐る間近に迫る春の怪しい美貌を湛えた顔を見つめる。
「途中からだけどな。唯の声がうるさくて目が覚めた」
「じゃあ、聞いてたなら早いわ。どうなの?」
 唯の提案を受け入れるかどうか蘭は春に聞いてみる。
 春は流麗な瞳を一瞬細めて、すぐさま形のいい唇を動かせた。
「答えはノーだ。勝手にお前達で物事を決めるな。特権は俺にある」
 氷のように冷たい眼差しで射られて、蘭は背筋をぞくりと震わせる。

――やはりこの男は怖い。

 威圧感の込められた冷たい美貌で見つめられると、心まで凍てつきそうだった。
「……お前、別に処女じゃないんだろ? 織田の傍にいてそんなことがあるわけない。唯は純粋だから信じたようだが」
 春から髪をぐいっと引っ張られて、蘭はその痛さに顔をしかめた。蘭は震える体を意志の力で何とか抑え付け、喉の奥から言葉を絞り出す。
「……本当よ、嘘じゃない」
 髪を引っ張られた頭皮が突っ張り、じんじんと熱を持ってくるが、蘭は唇を噛みしめてそれだけを吐き出した。
「……じゃあ、調べてみるか」 
 春がにやりと残忍な笑みを口元に刻んだ瞬間、蘭の体は反転し、気がついた時には組み敷かれていた。
 灰色の天井が視界に入り、一瞬なにが起きたか分からずにいると、春の暗い瞳が降ってくる。
「嘘を暴いてやる」
 春の瞳の奥に冷たい光が宿ると同時に、まだ濡れていない下肢に手を伸ばされた。すぐさま強引にショーツを剥ぎ下ろし、太ももを差し込まれて脚を大きく割られる。
「やっ……いやっ……やめてっ……!」
 蘭が涙目になり、そんなことを言っても春が止めてくれるはずもない。春の長くしなやかな指が、すぐさま秘裂を割り、ずぷりと蜜壺に差し込んできた。
 ぎちぎちと粘膜を押し分け、春の指が侵入してくる。
「いやっ……痛いっ……お願い……だから……」
 濡れていないところに無理やりいれられる痛みと、悔しさが一気に襲ってきて蘭はいつの間にか嗚咽を漏らしていた。
 涙は頬を伝い口の中をしょっぱくする。切なくて悲しくなり、このような扱いに蘭はむせび泣いた。
 春から笑みが消えると指はぴたりと止まり、なにを思ったか中からゆっくりと引き抜いた。蘭は目を瞬かせると、まだ膜の表面を覆っていた涙の粒がぽろりとこぼれ落ちる。
「……興ざめした。俺はもう一度寝るから邪魔するな」
 春はつまらなそうにそう言うと、ごろんと蘭の隣に寝転がり目を閉じる。蘭はまだじんと鈍い痛みを残した下肢に下着をつけてベッドから降り立った。
 そして逃げるようにテーブルについて、涙を袖で拭く。
 そうしているとまた春の静かな寝息が微かに聞こえてきた。
 蘭はもうこの男と関わりたくない――近づきたくもないと思い、テーブルに顔を伏せる。
 そして少しの間だが、そのまま浅い眠りに落ちてしまった。
しばらくして眠りから覚めると、窓の外は薄暗くなっていた。
 陽が落ち、監禁されて二日目の夜がやってくる。蘭はいつまでここにいればいいのだろうと焦燥に滲む溜息を吐いて、体をねじった。
 春に目がいくが、なんだか様子が違う様に、蘭は視線をじっと向けてしまう。春はやたら寝苦しそうな息遣いで、シャツを手でぎゅっと握り締めている。
 どうしたのかと蘭は不思議に思い、そろそろと傍に寄った。
 春は寝汗を掻いて、苦しそうに荒い息を吐き出している。調子が悪いのかと思い、蘭は様子を窺いながら顔を覗きこんだ。
 春は必死に唇を喘がせて、なにかを小さく呟いている。
 何を言っているのだろうと蘭は思わず顔を近づけて、その言葉を聞き取った。
「……申し訳……ありま……せん……かあ……さま……俺が至らないばかりに……あなたまでそんな目に……」
 蘭はその切ない気持にはっと胸を突かれた。
 春の片目は眼帯がされてある。
――俺は不完全な子供――そう言った春の言葉を思い出しだ。 
 そのせいで春は、跡取りとして伊達家の後継者候補から外され、蚊帳の外。
 この様子では、そのせいで母も酷い目に遭ったのだろう。苦しそうに必死で謝り、母を思う春に蘭は戸惑いを隠せなかった。
 これまでにどれだけの悔しい想いや、辛い想いをしてきたのだろう。
 春一人ではなく、母まで肩身の狭い想いをし、全ては側室に取って変わられた。
 冷たく凍りついた男に、そんな悲しい想いが秘められていたとは思いもせずに蘭はどうしてか悲しくなった。
「か……あ……さま……俺が……あなたを……殺して……しま……た」
 春の片目からきらりと光る一条の滴がこぼれ落ちる。蘭は目を見開いて吸いつくように見てしまう。
「殺……した……?」
 春の言葉に驚き、それを口の中で復唱してみる。冷たくて酷い言葉を投げかけてくる怖い男だがなぜだか同情してしまう。
 蘭はハンカチを取り出して、そっと頬を流れる悲しみの涙を拭いてあげた。
 汗がはりついた、髪を撫でて額や首元も拭く。
 濡れた眼帯も見て、蘭はその下も拭いてあげようと、そっと取り除いた。
 こちらの目もやはり濡れている。
 蘭は壊れ物を触るように、ゆっくりと拭いてあげた。
「なにしてるっ!」
 強い声が飛んで来て、蘭は驚いて体を硬直させた。春ががばりと上体を起こし、眼帯があったはずの目にそろりと手を当てた。
 蘭は目を見開き、眼帯が取り外された春のもう片方の瞳を見つめた。
 すぐに手首を強く締められぽろりとハンカチが落ちるが、蘭には痛みさえも感じない。

 ――それほど目の前の男は悲しい顔をしていた。

「ごめん……余計なことをして……あなたが苦しそうだったから」
 蘭は言い訳することなくそれだけを春に述べる。蘭を締めていた手首がふと緩められて、春の手が離れていった。
 春は膝に落ちた涙と汗を吸ったハンカチを手に握り締めて、悲しげな視線で見つめてきた。
「……気持ち悪ければ笑えばいい」
 淡々とした皮肉めいた言葉を投げかけ、春は自分をあざ笑う。
 けれども蘭にはなにが気持ち悪いのかが分からなかった。春の瞳が醜いとも思わないし、不気味とも思わない。
「……綺麗。その瞳、綺麗だと思う。まるで宝石みたい……」
 その言葉に虚を突かれたのか、春ははっと目を見開き、視線をぶつけてくる。驚きに混じる瞳が数秒だけ揺らめき――
「くだらない嘘はよせ」
 すぐさまハッと鼻で笑い、怒りを孕んだ双眸で春は蘭を睨みつけてきた。
「嘘じゃない。そんな嘘を言っても意味がないもの」
 蘭を見ていた春の視線がふと柔らかいものに変わり、みるみる肩から力が抜けていった。そして、その瞳を隠すこともなく蘭をじっと見つめてくる。

 ――その吸いこまれそうな左右に違った瞳の色で。
 
 眼帯の下の瞳は色素が薄いのか、少しだけグレイがかった色であった。健常である瞳と色彩が違うが、それはそれで春の妖艶な美貌と冷たさを際立たせていた。
「……それもそうか。お前が俺に世辞を述べたところで、何の得もない」
 視線がすぐに逸らされるが、春は手の中でハンカチをぎゅっと握り締めた。
「……それ、洗うから貸して」
 春の視線が戻って来て、ゆるりと手の中のハンカチを差し出してくる。
「違う、そっちの」
 蘭が指差した先には春の取り外しされた眼帯。春は一瞬だが、その綺麗な顔をしかめた。
「清潔にしてた方がいいでしょ。あんまり洗ってないみたいだし」
 春は見られてしまったからには、隠す必要もないのか、眼帯を無造作に蘭の手の中に置いた。
「あっちにシャワー室があったよね。洗って来る」
 眼帯を握り締めて蘭はシャワー室で丁寧に洗う。そして、綺麗に干してから春の元へ戻った。
「……こっち来い」
 春が単調に命令して来て、蘭は警戒しながら春の傍へ寄る。春がぐいっと手を引いて、蘭をベッドに座らせた。
 上体を起こしたままで、春は前方を向きながら僅かに唇を動かせる。
「……なんて言っていた?」
 その声の小ささに蘭は春の端正な横顔を見やる。だが、春は前を向いたままの状態でもう一度呟いた。
「寝言……なにを言っていた」
 気になるのか春はそれだけをぽつりとこぼした。
「寝言は……ごめんなさい、母様って。そして俺が殺したって……言ってた……」
 蘭が少し声の調子を下げていいずらそうに言うと、僅かにだが春の肩が小さく震えた。そして一度目を伏せて、頬に長いまつ毛の翳を落とす。
 そのまつ毛は微かに震えて、苦しげに揺らめいていた。
「俺が……殺した……母様を……」
 ぽつりと吐き出された春の声は小さく震えている。その切なげな表情に何も答えることは出来ず、春の次の言葉を待った。
「俺が後継者から排斥されると決定した時に、母様は抗議をしてくれた。優しく繊細な人で、俺のことを誰よりも愛してくれていた。だが、父に逆らえるはずもない。側室の虐めにあい、追いやられ精神を崩壊して死んだ」
 それだけを言って、春はもう一度目を伏せた。
「……俺が……不完全な為に……母様は死んだ……殺したのも同然だ……」
 開かれた春の目の縁には涙が浮かべられている。蘭はあまりに目の前の男が悲しく見えて、そっと指の背で涙を拭った。
 驚いたように春はこちらを振り向き、目を見開いている。
「この俺に同情でもしたのか、下慮」
 春が皮肉気に言ってくるが、いつもの覇気はない。
光を失い翳を全身に漂わせている男はただ不器用で、寂しいだけ――。
 そんな傷ついた春に蘭は顔を上げてはっきりと言い放つ。
「そうよ、同情しているだけよ」
 愛情ではなくただの同情――。可哀想だと思い、正直に蘭は本音でそう言ってみる。
「言うじゃないか、下慮のくせに」
 ふっと寂しげに笑うと、春は蘭の体を布団の中に引っ張り込んだ。 そしてすぐに蘭の体を抱き締めると動けないように固定する。
「やっ……放してっ……」
 体を押し返すが、春の抑え込む力は強くてびくともしない。
「……なにもしないから……じっとしてろ」
 気がついたら春の体は僅かに震えていた。蘭の胸に頭を埋めて、子供のように震えている。
 蘭は体から力が抜けて、そのまま春の様子を見つめた。
「……お前はいい匂いがする……少し……母様の匂いと似ている……」
 それだけを言って春は蘭を抱きこんだまま寝入ってしまった。びくとも動かない強い力をふりほどくことも出来ずに、春にされるがままゆっくりと目を閉じる。
 悲しみの涙の跡を残した春に抱かれ、蘭も一緒に眠りの淵に意識を沈ませていった。

 






 





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