先輩、僕の奴隷になってよ hold-19
hold-19
***
ある日の放課後――
春香は受験の息抜きとして、ケーキ屋に行こうと松原美奈江に誘われる。
その他にも女子が二、三人いるようで、みんな愛斗のファンクラブであった。
(私じゃなくて、愛斗君と行きたいわけね)
そう思ったが、表向きは春香を誘うという形式がとられている。
「季節限定のマロンケーキが出たの、ねぇどう?」
美奈江の鬼気迫る様子に春香はたじろぎながら、社交用の笑顔を浮かべている愛斗をチラ見した。
手錠が見えないところで、ぐいぐいと引っ張られ、春香はよたつきながら美奈江に愛想笑いをする。
「ちょ、ちょっと待ってね、美奈江会長」
春香はそっと輪を離れて、愛斗と二人きりになった。
「先輩、行きたくないんだけど」
(こ、こいつ、あっさりと)
愛斗の笑みは消えて、傲慢な態度に豹変しているが、ここで春香も負けていられない。
「あ、あの〜、愛斗君……マロンケーキを……食べたいな」
我ながら押しが弱いと思いつつ、愛斗の顔色を窺った。
「じゃあ、キスして。ここで」
愛斗に言われて春香は体を固まらせる。
ファンクラブの会長、美奈江もいるというのにそのような恐ろしいことが出来るはずもなかった。
「やっぱ、分かってない」
手錠が強引に引っ張られ、春香の体がぐっと引き寄せられた瞬間、愛斗の顔が落ちてくる。
唇を軽く塞がれたかと思えば、舌が歯列を割って侵入してきて口腔内の粘膜をぐるりとなぞりあげた。
「――ンっ」
驚いて目を見開いた時に愛斗はさっと体を放して涼しい顔をする。
「これからは、自分からするんだよ、先輩」
(み、見られてないよね)
春香は愛斗の肩ごしから後ろを見るが、美奈江達は女子同士で話をして盛り上がっていて、気がついていないようだった。
「ねぇ、先輩。かわいくおねだりしてごらん? そうしたらつまらないお茶会に付き合ってやってもいいよ」
愛斗はキスだけで飽き足らず、ちくちくと苛めてくる。
(奴隷として……主人を喜ばせる? ってこと?)
「あ、あの、愛斗君……何でも言うことを聞きますから……お願いします」
春香の頭ではこれが精一杯の言葉だったが、意外にも愛斗は反応を示した。
「何でも言うこと聞く?」
愛斗が気に入ったのはどうやらその言葉だったらしく、逡巡した挙句、にっこりと天使の笑顔を浮かべる。
「いいよ、先輩。何でも聞くんだよね……楽しみだな」
その笑顔が怖くて、やはりケーキなど諦めたら良かったと春香は後悔した。
「さぁ、行こう」
愛斗がぐいっと手錠を引っ張り、春香は無理やり歩かされて美奈江達の元へ行ったのだった。
ケーキ屋はいかにも女子が好きそうな、淡い色の壁にかわいいオブジェが所狭しと並んでいる。
ショーケースに見た目の可愛いケーキが並べられ、春香は迷ったがやはりマロンケーキを選んだ。
愛斗には苺ののるショートケーキを選んであげた。
「なんで、ショートケーキ?」
愛斗が不思議そうに問うてくるが、苺が似合うというのが春香の感想である。
丸テーブルを囲んで座るが、美奈江達はもっぱら愛斗に視線を向けていた。
春香はそちらの方が楽だと思い、美奈江達の相手をしてもらおうとしていたが、愛斗が愛らしい声を出してくる。
「……先輩、僕……左手で上手く食べられそうにありません。もし良ければケーキを食べさせてくれませんか?」
その視線が春香に向けられていることを知り、フォークを持つ手がぴたりと止まってしまう。
甘えて縋ってくる声は天使のように愛らしくて、仮面をがぶっていてもきゅんと胸が締めつけられる。
だが、すぐに春香は騙されてはいけないと首をぶんぶんと横に振り、心の揺れを払いのけた。
『左手でも器用に文字書いたり、ご飯食べたりしてるじゃないの』
口ぱくでそう言うが、愛斗は分からない振りしてしゅんと肩を落とした。
「そうですよね、先輩に迷惑はかけられませんよね」
(くっ……この悪魔……)
春香がぎりりと奥歯を噛み締めると、美奈江が大袈裟に驚く。
「ま、まさか、相原さん。家でも王子にそのような扱いなの? それはファンクラブの会長として断固許せないわ」
春香に怒りの矛先が向くと愛斗はくすっと忍び笑いを漏らした。
(会長〜、今、悪魔王子が笑いましたけど?!)
美奈江がきーきーと喚くと、周りのファンクラブも同じようにがなりたてる。
「あ……じゃあ……」
ケーキを食べさせないと怒りが鎮まらない気がして、春香は仕方なくあげようと思った。
けれども――
「お、王子、私がケケケ、ケーキを食べさせてあげる」
美奈江が顔を真っ赤にして、愛斗にそう言うと他の女子も我も、我もと殺到した。
このところずっと愛斗と二人で過ごしていた為、本当はこのようにモテていることすら忘れていた。
(愛斗君……)
春香だけのモノだと勘違いしていたが、愛斗とは手錠で繋がれているだけの関係なのだ。
愛斗と関係を持たなければこのような嫉妬という嫌な気分を味わうことはなかったかもしれない。
(愛斗君……断って……)
それでも知ったこの感情をいまさら捨てることは出来なかった。
「……はい、お言葉に甘えてお願いしましょうか。でも、先輩たち……いいんですか? ご迷惑じゃないかと思うのですが」
春香の気も知らず愛斗はあっさりとその申し出を受け取る。
(誰でも、いいの)
春香は胸を傷ませ、みるみる内に表情を曇らせていった。
「全然、迷惑じゃないわよ!」
美奈江は興奮し、フォークを手に取りケーキをすくうと愛斗の口に持っていった。
愛斗は春香の前でぱくりと食べて美味しそうにケーキを味わう。
「つ、次、わ、私も」
美奈江が終わると次々と女子がケーキを愛斗の口に運び、きゃあきゃあと騒いだ。
(見たくない……)
春香は視線を逸らし、自分のマロンケーキを食べようとするが全く食欲が湧かないことを知る。
せっかく頼んだのだし食べようと、口に運んだが味がよく分からなかった。
(おいしくない……)
フォークにマロンをすくい、そのままぼーっとしていると急にぱくりと食べられてしまう。
「えっ……」
驚き目を見開くと、腰をかがめた雪哉の顔が間近にありもぐもぐと口を動かせている。
「へっ……雪哉?」
いきなりの登場に春香は目を丸くするが、雪哉はにぃっと笑った。
「春香ぁ、さっきから手を振っていたのに、ぼーっとするなよ」
どうやら雪哉は外から春香を見つけて、手を振っていたらしいのだが気がつかないので店の中に入ってきたというのだ。
「なんだよ、ずるいよなぁ。俺も呼べっての」
雪哉が髪を掻きあげると、美奈江達が我に返りそちらを向く。
だが愛斗の突き刺さるような視線は春香に向けられていた。
(雪哉……)
いつも明るい雪哉は春香が困った時に現れる存在――軽いと思っていたが実際はそうではないのかもしれない。
改めて雪哉の良さを知り、じわりと涙が溢れそうになった。
「雪哉〜、急にどうしたの?」
――が、すぐ後に追っかけてきた女を見て春香はげっと目を剥いた。
雪哉に甘い声を出すのは、西島恭子であり、文化祭前夜に愛斗に告白した西島牧場の主。
いや、ただの例えで本当に牧場の主というわけではないが。
(やっぱり……雪哉にもアプローチしているんだ……)
雪哉は恭子の牧場で飼われる可愛い子羊には見えない。
どちらかというと狼で、恭子の飼っている牧場の――可愛い取り巻き男達を全部食べてしまいそうだ。
そんな馬鹿なことを考えていると、恭子が眉をしかめて一瞥してくる。
その視線の先は手錠であって、綺麗な顔を醜悪に歪ませた。
「そこまでして学園王子の気を引こうって魂胆は凄いわね」
いきなり突っかかられて春香は体が固まってしまう。
(私が……愛斗君にわざと手錠をかけていると思ってるの?)
恭子は愛斗に振られた腹いせにそう言ってきているのだろうが、そういう風に見ている人も少なからずいるはずだ。
美奈江達も会話をピタリと止めて、急に疑わしい視線を向けてきた。
「それは……違う……」
しどろもどろに言う春香にふんと恭子は鼻を鳴らして唇を歪めた。
「じゃあ、誰がそんなことをしたっていうのよ」
(愛斗君です……)
――とは言えず、いや言っても誰も信じてくれないだろう。
愛斗は絶大な信頼を得ているし、春香にわざわざ手錠をかける必要なんてみんなには思い当たることもない。
「さぁ、言ってみなさいよっ」
恭子がだんっとテーブルを叩き、恐ろしい形相で威嚇してきた。
「ねぇ、早く言ってみなさいよ、私がわざと手錠をかけましたって!」
恭子が近づいて来た瞬間、殴られると思ってしまい肩を竦める。
あわやの時にそれを制したのは低いボイスで――。
「止めろ、くだらない憶測で春香を追い詰めるな」
(えっ――雪哉?)
雪哉が髪を掻きあげたままで、流れるような美しい瞳をすいっと恭子に向ける。
だが、その瞳はいつものようにふざけた色はなくどこか冷たいものだった。
「え、だってぇ、雪哉」
急に恭子が猫撫で声を出して、雪哉に擦り寄ろうとするがすぐさま淡々とした声が放たれる。
「帰れ」
それは恭子に発せられたもので、その場にいた一同は固まってしまう。
雪哉がそんなことを言うのは初めてで、驚いているというのが本音だ。
「は? 雪哉?」
恭子はその言葉を受け入れがたいようで、目を丸くして雪哉をまじまじと見つめる。
「だから〜帰って、飼っている牧場の男達にミルクでも飲ませろって」
「はぁ!?」
恭子が呆気に取られて、雪哉を見るが同じく春香も目を点にしてしまった。
「ゆ、雪哉君……それは言いすぎ……ぷっ……」
美奈江が吹き出すと、他の女子もくすくすと笑い始めた。
「でかい乳を揺らしても、俺は一生お前には興奮しねぇから、ごめんね」
雪哉がはっと鼻を鳴らして笑うと、恭子の顔がみるみると赤くなり憤慨していく。
(こ、怖い……)
恭子が爆発しそうになるが、雪哉がじろりと睨むとぐっと押し黙った。
「絶対に言い寄ってきても、相手にしてあげないからね!」
負け惜しみの言葉を吐き捨てて、恭子は怒りを刻みつけながらその場を去っていった。
「あ〜あ、怒らせちまったか」
雪哉は口ではそう言うが大したことがない風にこちらに向き返る。
「もう一個、マロンくれよ、な?」
ばちっとウインクしてきて、雪哉はひょいっとケーキからマロンを取って口に含んだ。
(雪哉……いい奴……)
庇ってくれたことに対し、じんと胸が熱くなってしまう。
「雪哉先輩があんな風に言うなんて珍しいですね」
そこに愛斗がふっと漏らして、ゆっくりと雪哉に視線を向けた。
「まぁ、俺にもタイプはあるしな。何でも受け入れているわけじゃないの」
雪哉がにっこりと笑い、手錠に視線を落とした。
愛斗と繋がれる手錠はどこか冷たく、希薄なものに感じてきて春香は顔を曇らせる。
(雪哉……じっと見ている……本当は私が辛いことを見透かしているの? ……手錠で愛斗君と繋がれているだけの関係が心苦しいって……)
春香の表情を見て、雪哉の顔から軽々しい笑みがすっと引いた。
雪哉の手がそっと春香の頭に乗せられ、真剣な声で呟く。
「……春香……その手錠、外してやろうか?」
そんなことを言われると思わなかったからどきりと胸が跳ね上がる。
さっきまでこの手錠で繋がれていることが悲しい――そう思っていたのに。
雪哉の言葉に衝撃を覚えてしまうのは何故なのだろうか。
春香はそれを望んでいたはずなのに、ざわざわと嫌な気持ちが胸に広がっていった。
「――え、何、言っているの?」
掠れた声しか出てこず、頭に乗せられた雪哉の手が今はひんやりと冷たく感じてくる。
「だって、外して欲しそう。お前、そんな目で俺を見てる」
いつもふざけたことしか言わない雪哉が今日だけは違った顔をしていた。
(待って……違う……違う……)
それなのに春香の気持ちは相反して、手錠を外されたくないと思ってしまう。
ただ目の前で他の女の子に愛想を振りまいた顔を見たくなかっただけで――。
ちょっとした焼きもちを妬いていただけで――。
外されたら、愛斗は春香から去ってしまうかもしれない。
手錠が外されたと同時に愛斗の気持ちも断ち切れてしまいそうで、そんなことは考えられなかった。
「知り合いをかけあって、手錠ぐらい外せる奴いるだろうからさ」
(雪哉……もうそれ以上言わないで)
「それはいいことね、相原さん頼みましょうよ」
美奈江が嬉々とした声を上げ、女子達もその案に賛同し始める。
「や……だ……」
小さく呟いたが、女子達の盛り上がる声によってそれは儚く消えた。
このままでは手錠が外されてしまう、焦りと喪失感がないまぜとなり春香は泣き出しそうになった。
「先輩、帰りましょう。予定があるの忘れていましたよね」
その話を断ち切るように立ち上がったのは愛斗だった。
「え、愛斗君……」
予定などないと言おうとしたが、愛斗はどこか苛立ちを滲ませていた。
周りは気がつかないだろうが、いつも一緒にいる春香にはそれが分かる。
「早く行きましょう。時間がないですよ」
手錠を引っ張り上げ、愛斗は雪哉を一瞥した。
それはとても冷たい――冷たい瞳。
雪哉と愛斗の間でびりっと張り詰めた空気が走り、春香は奇妙な寒気を覚える。
愛斗から先に視線を外すと、別れの挨拶もしないまま春香を引っ張って店を出た。
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