先輩、僕の奴隷になってよ hold-37

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  抜け殻のようになってしまった春香に、雪哉はいつもより増してお節介を焼いてくるようになった。
「春香〜、今度スイーツバイキング行かね?」
 雪哉が何でもおごってやると言ったので少しだけ機嫌が直ってくる。
「うん……そうだね。甘いものでも食べてテンションあげないとね」
 いつまでも雪哉――お兄ちゃんに心配はかけさせられない。
 雪哉だって、恋焦がれる相手がいるようで――同じ気持ちを知っている春香が甘えるのは悪い。
 授業が始まり、ぼんやりと黒板を見つめるが何も頭に入って来なかった。
(はあ〜)
 空は晴れ渡っているのに、心がどんよりと曇っていく。
 そうしているとまた雪哉が振り返り、ちょっかいをかけてくる。
「春香〜可愛いねぇ」
 春香の頭を撫でたり、鼻を摘んだり――。
「もう、雪哉……」
(可愛いって……そう思うのは……身内びいき)
 雪哉はくだらないことをしてきて元気を出さそうとしてくれる。
「あのねぇ、授業中なんですけど」
 そう注意しても雪哉の行動は止まることがなく、どんどんとエスカレートしてきた。
 教師も理事長の息子ということで、雪哉に逆らえる者はいない。
 雪哉が何しようと全くもって注意をしてくることはないのだ。
 雪哉が身を乗り出して顔を近づけてくるが、それが唇が触れそうになるほどの距離だ。
「ち、近い、雪哉」
 顔を逸らそうとすると、雪哉の手が顎を捉えてぐるりと振り向かされた。
「いいじゃん、お前の困った顔をもっと見たいんだからさ」
 妹相手に色香を漂わせ、目に見えない雄フェロモンが春香の脳をくらりとさせる。
(雪哉……それ……誰に似たのよ)
 自分の両親ではなく、きっと引き取られた不動産王の父親の癖だと思った。
「意外にお父さんは色男だったんだぜ……しかも天然で無意識に女を酔わせてたって……」
 唇が触れるか、触れないかの距離で雪哉がこそりと囁く。
(え……それって、もしかして……お父さんの遺伝?)
 写真に映る父親は確かに美形で、だらしなく笑いさえしなければかなりの美男だった。
 雪哉は若い頃の父親と似ていて、それも意識して色香を出しているのがタチの悪いところだ。
「ねぇ、そろそろ冗談は止めて……授業を受けてよ」
 唇が触れそうになるので、春香は僅かにしか喋れなかった。
「まぁ、もう少し待てよ」
 雪哉が意味ありげに微笑み、瞳をうっすらと細めた。
 何だろうと思っていたら、唐突に教室のドアががらっと勢いよく開け放たれた。
 クラスの生徒がざわめき始めて、春香はその騒ぎの元に視線を巡らせる。
(え、嘘――)
 クラスの生徒の視線は一斉に授業中に乱入してきた愛斗へ注がれた。
「あれって……二年の」
「学園王子じゃない?」
「嘘〜格好良い〜綺麗〜」
 ざわざわと騒ぎは大きくなり、女子は色めきたつ声を上げて愛斗を見つめる。
 春香も視線の隅に捉えて、何度も瞳を瞬かせた。
(愛斗君、どうしたの?)
 人ごとのように見ていたら、愛斗が血相を変えて春香の元へつかつかと歩いてやってくる。
(え、なに? なに? 雪哉に用事?)
 何事かと思って見ていたら、愛斗は雪哉の肩をぐっと掴んで春香から体を離す。
「雪哉先輩……その手で触らないで下さい」
 天使の仮面はすっかり取り外され、悪魔な素顔で愛斗は低く発した。
「春香、愛斗が用事だってよ」
 雪哉がぱっと春香から手を放して、どっと椅子に腰を深く沈めた。
「ほんとっ、手間がかかるぜ」
 ぼそりと雪哉がそれだけを発したが、春香は目の前に立つ愛斗で深く追求する暇はなかった。
「僕のこと好きなんじゃないの? なのに、他の男に触られて信じられないよ」
 愛斗が怒りを刻んでいるから、春香はぽかんと口を開けてしまう。
「えっと……愛斗君?」
 わけも分からずそろりと立ちあがると、愛斗は不快そうに眉をひそめた。
「どこ、触られた? ここ? それともここ?」
 愛斗が春香の髪や、手をべたべたと触りむすりと唇を引き結んだ。
「あのぉ、愛斗君?」
(なに、なに、なに、なんなの!?)
 小首を傾げて真剣に触ってくる愛斗を見つめると、ようやく視線が交わった。
「だって、先輩……僕のことを好きなんでしょ? 違うの? 言ってくれたじゃない。あの雨の日の放課後」
 急に不安そうな顔をする愛斗に聞かれて、春香はどくどくと心臓の高鳴る音を聞いた。
 絡まれていたのを愛斗に助けてもらった放課後―― 
 雨の中で、自分の想いをぶつけて告白した日のことを今でも覚えている。
 だけど愛斗は春香から目を逸らし、目の前から消えていった。
 振られたとばかり思って、馬鹿みたいに声をあげて泣いた。
 それなのに、急に何を言っているのか理解出来ない。
「愛斗君……私のことどうでもいいんじゃないの……? だって、さようなら――って言ったじゃない」
「――は? そんなこと言ってないけど、一言もね」
「え? じゃあ何て言ったの?」
「そんなことより、僕のこと好きなの? どうなの?」
 縋るような瞳が向けられてきて、春香は思い切りたじろいでしまう。
「そ、それは――」 
(こ、ここでもう一度、告白しろって? 嘘でしょ)
 見ればこの様子を携帯の動画で撮っている生徒もいる。
 春香が顔を赤らめて言えずにいると、愛斗が苛立ちを込めた瞳を向けてくる。
「言ってよ、僕のことを好きだって」
 咎めるような言葉に春香はやけくそになりながら声を張った。
「好き……愛斗君が大好き」
「聞こえない」
「はぁ――? えっと、愛斗君のことが好き! 死ぬほど好きなの!」
 春香が死ぬほど恥ずかしい告白をすると、愛斗はようやく安堵したように頬を緩める。
「じゃあ、キスして」
 だがあっさりとそう言う愛斗に春香は絶句してしまった。
(な、何言ってるの〜みんな見ているのよ)
 口をぱくぱくと開けたり閉めたりしていたら、愛斗がむっと顔をしかめる。
「先輩、先輩は僕のモノでしょう」
「それって――」
(どういう意味?)
 そう聞こうとしたら、愛斗の手が後頭部に回りぐっと引き寄せられた。
「ね、先輩、もう一度僕の奴隷になってよ」
 唇が触れる距離で愛斗がそう囁き、春香が言い返す前に唇を塞いできた。
 生徒達がきゃあと声を上げるが、それすらも遠くに聞こえて――愛斗の柔らかい唇に陶酔する。
「――好き」
 唇を放した瞬間に、ぽつりと愛斗がそれだけを呟き耳まで赤く染めた。
「――え?」
 聞き返そうとしたが、愛斗が引き寄せ春香を痛いほど抱き締める。
「――見ないで、恥ずかしいから」
 埋めた愛斗の胸はどくどくと激しいほど大きな音を立て、燃えているのではと思うほど身体が熱かった。
(嘘……愛斗君も私のことが好き……?)
 信じられない思いでその言葉を噛み締め、かぁっと頬を赤らめた。
「ねぇ、もう一度言って……」
 春香が愛斗からの告白を聞きたくて、おねだりする。
 嬉しくて、嬉しくてたまらない――世界が一斉に花咲く感覚になって、幸せの絶頂に身を浸す。
 春香をもっと幸福にしてくれる言葉が欲しくて、じっと愛斗を見上げた。
「何度も言えないよ……」
「何度って……まだ一回だよ?」
 春香が聞きたくてうずうずしていると、愛斗はまた顔を赤面させて耳まで真っ赤にする。
「三度目だよ――健二の家の前で……」
 愛斗がいいずらそうに口をすぼめて言ってくるので、春香は瞬時に思い出した。
 健二という男子の家の前で、愛斗がぼそりと囁いてた言葉。
『――だよ』
――好きだよ
 やはりそれは紛れもない言葉――『好きだよ』と言ってくれていたのだ。
(あの時……やっぱり好きって言ってくれたんだ……)
「ま、愛斗君……じゃ、じゃあ後は――?」
「雨の日――聞こえないと思って……好きだよって……でも嫌われていると思っていたから……動揺して逃げちゃったんだけど……」
「さよならじゃなかったんだ……」
(私、勘違いしていた……)
 春香の体が急激に火照りはじめ、愛斗の綺麗な瞳を見つめる。 
「雪哉先輩が……今から春香を俺のものするってメールがきて……気がついたらここに来ていた。そこまで言えば……気持ちは分かるでしょう、先輩」
 愛斗が心配そうに言うが、それは雪哉の計画だと春香は知る。
 あえて悪役を引き受けて、雪哉は愛斗の気持ちを試したのだ。
 だからキスをする振りをしたまま、愛斗が来るのを待ち構えていた。
 それでも――
(ありがとう、雪哉……私のお兄ちゃん……)
 涙が出てきそうになり、春香は微かに震えている愛斗の背中に腕を回した。
「諦めようと思った……だけど、春香が他の男に触られて――他の奴のモノになるって考えたら……胸が掻きむしられそうになって……そいつを殺してやりたくなって……」
 愛斗が苦しげに眉をしかめて、胸の内を正直に吐露してくれる。
「一緒にいないほうが幸せだと……それが春香の為になると……思っていたのに……僕はやっぱり駄目だ……離れられない」  
 真っ直ぐに純粋な気持ちを向けられて――ようやく春香は理解をする。
 愛斗はずっと最初から自分のことを求めてくれていたのだと。
 身を焼くほどの恋焦がれる気持ちをぶつけてくれていたことに、気がついていなかったのは春香の方で。
「愛斗君……いいよ……私、奴隷になっても……一生ね……」
 愛斗は驚いた眼差しを向けてきて、春香の顔を窺う。
「いいの、春香……そんなことを言っても……本当に一生奴隷にしちゃうよ……知っているでしょ? 僕は執着心強いし、独占欲も強い。嫉妬も激しいし、しつこくて、ねちねち苛めるよ……」
 愛斗が真剣に聞いてくるので、どうしてか吹き出しそうになった。
「うん、知ってる……愛斗君こそ堂々とそんなこと言っていいの? 天使の仮面が外れちゃってるよ」
 生徒達が好奇の目を向けて見ていることに気がついて、愛斗はふっと口元を緩める。
「いいよ、もう。天使の愛斗は卒業する……春香先輩がこの手に入るなら」
 綺麗な瞳を細めて愛斗がそう言ってくれると、春香はじわりと涙が浮かんできた。
 愛しくて、胸を痛めるほどに大好きな愛斗――。
「うん……愛斗君こそ……今度こそは離れて行かないで……私のご主人様」
 おどけてそう言うと愛斗がにこりと綺麗に微笑んだ。
「春香……僕の陽だまり……」
 そう言って愛斗はひと目もはばからずに春香にキスを落とす。
 それは甘く切ない味で――春香を薄暗い楽園に堕とすようなキスではなかった。
想いがこめられている、優しくも暖かいキス――。
 春香はその幸せなキスを受け入れて、ゆっくりと静かに目を閉じた。
 そこには手錠で繋がれていなくても、確かな絆の感触があって。
 不安と恐れのないキスは陽だまりの楽園の扉を開き、春香と愛斗はお互いを確かめ合うように――愛のある口づけを交わしあった。




   


 
 
 
  

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