先輩、僕の奴隷になってよ hold-36

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***
 
 春香は絶望の淵から蘇り、熱き闘士を燃え立たせて愛斗を追いかける日々が始まった。
「あの、鳴沢愛斗君いる?」
 二年の教室へ訪ねに行くが、愛斗はあからさまにいないと言ってきて春香に会うことはなかった。
 サークルに顔を出すこともなく、愛斗が行きそうな図書室や花壇に張り込んでも現れない。
 それでも諦めずに春香はクラスの前で張り込み、愛斗がいたら声をかけようとする。
 だが、春香を見た瞬間にくるりと踵を返し、愛斗は全力で逃げていくのだ。
「愛斗君!」
 追いついてそう呼ぶと、一瞬だけ立ち止まり決まりが悪そうに振り返る。
「あの、愛斗君……」
「僕、急いでいるんで。先輩ごめんなさい」
 他人行儀に断ってくると愛斗はさっさとその場を立ち去った。
 とりつくしまもないとはまさしくこのことで、春香は失意の日々を送る。
 追い掛け回しては愛斗に話すことはないと断られ、さすがに参ってきてしまう。
(あ、愛斗君)
 女子に囲まれている愛斗を見つけ、寄ろうとするとファンクラブ会長の美奈江がずいっと行く手を阻んできた。
「相原さん、最近は王子の迷惑になる行為をしているそうね。悪いけど規則を乱す人はファンクラブから除名よ。もう、近寄らないでちょうだい」
 女子の輪から愛斗が一瞬視線を投げてくるが、すぐに逸らしていつもの虚飾の笑みを浮かべてファンクラブの相手をしている。
(なによ、少しぐらい聞いてくれてもいいじゃない、馬鹿愛斗)
 立ち去るまで美奈江が見張ってくるので、春香は仕方なくその場から移動した。
「私がこんなので諦めると思ったら大間違いよ」
 春香は余計に使命感に満ち溢れ、気持ちを燃え立たせた。
 

そんなある日――


 黄昏に染まる、藍と橙の混じった空が急に曇って、どんよりとした鈍色になる。
 天気予報は雨が降るとはいっていなかったのに。
 春香は校舎の外壁に寄りかかっていた。
 愛斗が会ってくれないので、待ち伏せ作戦と決行したのだ。
(これって……ストーカー行為って言うんじゃ……)
 愛斗に通報されたらどうしようと思いながらも、根気よく待つことにする。
(愛斗君……)
 あれからどうやって過ごしているのだろう。
 会えない日々が続いて、胸に穴がぽっかりと空いた気分であった。
 愛斗は同じように淋しいと思ってくれていないのだろうか。
 感傷に浸りながら閉じた瞼の上に、ぽつ――と冷たい滴が落ちてくる。
 瞳を上げると、ぽつ、ぽつと曇天の空から雨が降ってきたことを確認した。
(ああ、最悪……)
 きっと本格的にどしゃ降りになるだろう。春香は仕方なくハンカチで雨を塞ごうとしていたら、数人の女子がこちらに歩いて来るのが見える。
 その中心には西島恭子と、愛斗のファンクラブの女子の姿があった。
 なんだか嫌な予感がする――春香は身構えるが、すぐさま取り囲まれる。
「相原さん、手錠が外れたのにまだしつこくつきまとっているんですって?」
 恭子が開口一番に言うと、ファンクラブの女の子たちが目を吊り上げてこちらを見ている。
「西島さんには関係のないことでしょう」
「そうはいかないのよ。あなたのせいで、私はとばっちりよ。雪哉には相手にされないし、愛斗君はファンクラブにも最近、愛想悪いみたいで」
 恭子は結局、雪哉に冷たくされたのを根に持っているようだった。
 雪哉は双子のお兄さん――声高で言ってやれば、恭子の態度はころっと変わるだろう。
 急に春香に取り入るようになり、雪哉との間柄を取り持てと言ってくるに違いない。
 恭子に付きまとわれるぐらいなら、この真実は伏せたほうが雪哉のためになる。
 言いたいのを我慢して、押し黙っていると恭子はふんっと鼻で笑う。
「ファンクラブの皆さんも愛斗君が変わったのはあなたのせいだと言っているのよ」
(それは、愛斗君のもともとの性格が出てきただけじゃ……)
 天使のような表面に騙されていると言っても、証拠は何一つないのだ。
 誰も信じてくれるはずがなく、喉まででかかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「ほら、謝りなさいよ」
 恭子がどんっと肩を押してきて、春香の態勢はぐらっと崩れる。
「あんたたちも、不満があるんでしょう。やりなさいよ」
 恭子が連れてきた愛斗のファンクラブの子に苛立った声をあげた。
「そ、そうよ、謝ってよ」
 一人が上ずった声をあげて、同じように春香の肩を押してくる。
 それを皮切りに髪を引っ張られたり、やじを飛ばされたり――。
 その場に力ずくで跪かされた時には、ざざぶりの雨が春香の制服を濡らしていた。
「ほら、土下座して謝って」
 恭子が怒りをこめた瞳で見下ろしてくるが、春香はぎりりと奥歯を噛み締めたまま。
(そんなの、絶対に嫌)
 こんなやり方をしてくる人たちに屈したくなくて、春香は反抗的な目を向ける。
 その態度が気に食わないのか、恭子ががしっと髪を掴みあげてきた。
「ほら、謝って」
 屈辱的で涙がでそうになるが、それでも春香は謝らない。
 にらみ合いが続く中――
「なに、してるの――」
 この雨の中でも凛と響く透き通った声がこちらに届いてきた。
 誰もが自然に視線を向けると――そこに立っていたのは、傘をさして立っている愛斗で――。
 愛斗の形相が変わり、すたすたと歩いてきて恭子の腕を掴み上げる。
「ねぇ、何しているの?」
 いつもの愛斗らしくない低い声に恭子は言葉をなくした。
「ま、愛斗君が最近、相手にしてくれないから」
 ファンクラブの一人がもごもごと口の中で呟き、決まりの悪そうな顔をする。
「だからって、こんなことを頼んでないよね?」
 流麗な瞳には冷たい光りが宿り、愛斗の内側が露になってくる。
(愛斗君……)
 それを見守りながら、愛斗が助けてくれたことに胸がじんと熱くなった。
「痛い……離して……」
 ぎりりと腕を掴み取られる恭子が顔を真っ青にして、助けを乞う。
「もう二度とこんなことはしないって約束してくれる? そうしないとこの場で腕を折るから」
 一切よどみなく発された言葉に、恭子はわなわなと唇を震わせた。すいっと愛斗がファンクラブの女の子に視線を向けると、驚愕に目を見開いている。
「お願い……離してっ……」
 苦痛に顔をしかめる恭子の腕はさきほどより痛々しい音を発していた。
「愛斗君、止めて――っ」
 本気で折る気だと思って、叫び声をあげると愛斗がはっと我に返る。
 ぱっと手を離した瞬間、恭子とファンクラブの女の子はばたばたと逃げるように去って行った。
 その場に残された春香と愛斗――
(助けてくれたの? 愛斗君)
 ゆっくりと振り返った愛斗の瞳には、さきほどの苛立ちはなりを潜め、悲痛な色が滲んでいた。
 沛然(はいぜん)と降りしきる雨の中で、愛斗は傘を持ったまま座り込んだ春香の元へやって来る。
「春香先輩……怪我は?」
 愛斗は跪き、春香の濡れた髪の毛を撫で上げて安否を確認した。
 その仕草に愛情が感じられるのは春香の思い過ごしだろうか。
「愛斗君……助けてくれてありがとう」
 正直な気持ちを述べると、愛斗の瞳にくっと悲哀の色が刻まれた。 
「春香……っ」
 せきを切ったように名前を呼ばれた瞬間、愛斗の胸元に引き寄せられる。
(愛斗君も、雨に……濡れちゃうよ……)
 そんなことをぼんやりと考えながら、そっと視線を上げた。
「お願いだから、気持ちを掻き乱さないで――春香に何かあったら……僕はあいつらを殺している」
「――えっ」
 激しい感情をぶつけられ、体が知れずに火照ってくる。愛斗も同じ気持ちでいてくれるのかと思ってしまう。
 それでも――
「分かった? だから僕に関わっちゃいけないんだ」
 愛斗から発せられるのは、絶望の言葉――
 はらり――と一条の滴が頬にこぼれ落ち、泣き出しそうな愛斗の顔を見つめた。
 怖くて屈辱的な思いをしたけど、その瞬間は泣かなかったというのに。
愛斗に突き放されて、涙を流すのは情けないほど滑稽で――
(こんなにも……好きなのに……)
「春香……泣かないで……お願いだから」
 雨に濡れる愛斗の繊細なまつ毛から滴がしたたり、春香の頬に伝い落ちていく。
 それがまるで泣いているように見えて、殊さら胸が締めつけられた。
「私……私……っ」
 雨に濡れた冷たさと絶望に沈んだ寒さで、声が震えてくる。    
(言わなきゃ、伝えなきゃ……っ)
 それでも上手く言葉が出ずに、愛斗の瞳に映り込む自分の姿を見つめる。
「長くいすぎたね……僕はもう行くよ」
 すっと傘を持たされて、愛斗は視線を無理やり剥がすと、立ち上がった。
(愛斗君が……いっちゃう……)
ずくん――と胸に引き裂かれそうな痛みが走り、愛斗の優艶を帯びた顔を見上げる。
 くるりと背中を向けられた瞬間、行かないで――と心の中で何度も叫んだ。
 遠ざかろうとする愛斗を見つめながら、最後の気力を振り絞って立ち上がる。
(私は……愛斗君を……)
「愛斗君――聞いて! 聞き流してくれてもいいの。だけど、伝えるから!」
 雨の音にも負けないほどの大きな声に、愛斗が踏みとどまり振り返ってくれた。
 綺麗だけど――感情を断ち切るような冷たい瞳がこちらを見ている。
 春香から離れたがっているのは知っている。
 それでも言わなければ一生後悔してしまう。
「私ね、愛斗君のことが好きなの! 好きで、好きで、好きで、たまらないの! 大好きなの!」
 春香が想いを伝えると、初めて愛斗の瞳が動揺するように揺らいだ。
 二人の間に冷たい雨が途切れることなく降りそそぐ中で、お互いは求め合うように視線を絡ませた。
 その一瞬が永遠とも思える刹那で――悲しくて、涙が止まらなかった。
(やっぱり……駄目なの……?)
 愛斗は、明らかに動揺をしていたが何も応えてくれない。それでも春香は好きだという、本気をぶつける 
「愛斗君が好きなの、本気だよ」
 いつの間にか雨の音が遠ざかっていて、まっすぐな感情で愛斗を見つめる。
「本当に言っているの……春香……嘘だ……そんなの……」 
 愛斗がぽつりと呟き、視線をあちこちに彷徨わせて手で口を塞いだ。
「愛斗君……」
 雨に濡れて血の気を失った愛斗の顔がほんのりと赤くなっているように見えた。
 ぶるぶると身体を震わせた愛斗は、うっすらと涙で濡れた瞳を向けてきて、口元をわずかに動かせる。
(愛斗君――何て言ったの?)
 雨に滲む視界の中で、愛斗が何を言ったのかが聞こえなかった。
 愛斗は泣き出しそうな笑顔を浮かべて、今度こそ本当に背中を向けて去っていく。
『さようなら――』
(そう言ったの? 愛斗君)
 胸に突き抜ける痛みが襲ってきて、その場に佇んだまま天を仰ぐ。
 空から降ってくる雨が悲しみを流してくれそうで、冷たいことさえ気にならなかった。
(もう……終わったんだ……私の初恋……)
 頬を伝うのが、雨なのか涙なのかがもう分からない。
 それでも心を濡らしていく、とめどない悲しみの涙――。   
(苦しい……苦しいよ……)
 喪失感だけが胸の内に広がっていき、立つこともままならないまま、その場で体勢を崩していく。
 このまま雨があらゆる感情の全てを洗い流してくれたらいいのに――。
 ふらりとバランスが傾き、そのまま倒れこむ体をがしっと支える逞しい腕に意識が引き戻された。
「雨に濡れるいい男、参上――ってね」
 肩を抱きとめられたままそろっと顔を上げると、雨に濡れた金髪の髪を捉える。
 すでにずぶ濡れになっている雪哉――。
「いつからいたの……? 雪哉」
「……二人っきりの時はお兄ちゃんだろ?」
 愛斗との一連のことを見守っていたのだろう。それを傘もささずに見つめてくれていた雪哉。
(馬鹿……シスコン……)
 一緒に雨に濡れなくてもいいのに――。
 それでも雪哉の気持ちが嬉しくて、広い肩にそっと顔を預ける。
「振られちゃった……」
 それだけをぽつりとこぼすと、ぐっと肩にこもる強い力。
「そっか……俺の妹を振るとはいい度胸だな、あいつ」 
 冗談げにいう雪哉の瞳には本気が混じり、その熱い想いにますます涙が溢れてきた。
「ごめんね……私に魅力がなかったみたい」
 涙に掠れる声で雪哉を見上げると、体が宙に浮くほど激しく掻き抱かれる。
「お前は魅力的だよ……誰よりも、誰よりも――」
 情感のこもった声で言われると、少しだけ気持ちが和らいできた。
 雪哉に――美しく強い兄にそう言われると、緩やかに自信が戻ってくる。
 自分はたった一人ではないことを改めて思わされて。
「俺がいるから、悲しむな。俺だけはずっとお前の傍にいて守ってやれる」
「お兄ちゃん――」
「そうだ、俺はお前のお兄ちゃんだから――」
 雪哉の瞳に涙の膜がうっすらと浮かび、そこでぐっと言葉が途切れる。
 なぜか切ないほどの表情で、こちらまで悲しくなってきた。
「だから――一生、傍にいてやる」
 春香の背中に回された腕が微かに震え、雪哉の艶やかな瞳から一筋の滴がこぼれ落ちる。
「お前が嫌いといっても一生追いかけてやるから。そのぐらいお前を――」
 苦しげな色を瞳に滲ませ、雪哉の最後の言葉は消えていく。
 聞こえなかった言葉は分からないが、想ってくれている気持ちが伝わってきて、胸が詰まる。
「ありがとう――お兄ちゃん」
 兄だけは春香を見捨てない――。泣くほど心配してくれる雪哉の胸に顔を埋めて、感謝の言葉を紡いだ。
「お兄ちゃん……失恋って苦いんだね」
 自嘲気味にこぼした声を拾ってくれる雪哉は、濡れた髪を優しく何度も撫でてくれる。
「ああ、そうだな……恋って苦いものなんだよ」
 同じような想いをしているのか、雪哉の声は珍しく震えていた。
(お兄ちゃんも知っているんだ、この切なさ……)  
 誰にそのような想いをしているのかは聞くことはしまい。聞いてもきっと雪哉は言葉を濁して上手くはぐらかすだろうから。
「だから、今だけは一緒に泣いてやる」
 そっと顔を上げると、にっこりと笑う雪哉の瞳からぽろぽろと流れ落ちる涙――。
「馬鹿……お兄ちゃんが泣いてどうするのよ……」
 それでもその気持ちが嬉しくて、せきを切った感情が溢れ出してくる。
「ひっく……ひっく……愛斗君の馬鹿っ……」
 声をあげて泣く春香を離さまいと抱き締め、雪哉は一緒に泣いてくれた。
 悲しみの声も、絶望する心も――全てはこの雨の中に掻き消されて――
 春香は雪哉にしっかりと抱きとめられたまま感情の全てをぶつけたのだった。    


 
 
 
  

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