先輩、僕の奴隷になってよ hold-35

hold-35




 春香は手錠を外された手を見ながら、部屋の中で座り込んでいた。
 ベッドに横たわっても寝ることが出来ず、カーテンを閉めたまま部屋の中にこもる。
 ベッドに背を預けて座り込み、愛斗のことばかりを考えたらいつの間にかカーテンの隙間から陽射しが差し込んで春香の顔を照らした。
(眩しい……もう……朝……)
 体を少しだけずらして陽射しを避けると、膝の間に顔を伏せて溜息をつく。
(学校……行けない……)
 ご飯も食べる気がおきずに、春香はそのままの状態でぼんやりとしていた。
 そんなことをしていると時は過ぎ、いつの間にか陽射しの向きが変わっている。
 閉め切った部屋はじんわりと暑くなり、喉が渇いてくるが動くことさえままならなかった。
 このままでもういい、進学も何もどうでもいい――と春香は重くなった頭でぼんやりと考えた。
 そうしていると、階下をばたばたと歩く騒がしい音が聞こえてくる。
 母が仕事から戻って来たのだろうかと思ったが、それにしては秋子らしくない歩き方だった。
 階段を上がってくる音がしたかと思えば真っ直ぐに春香の部屋へと向かってくる。
 そっと顔を上げるとドアは開かれて、男の足が視界に入って来た。
「春香、手錠外れたのか……それで、学校を休んでますって?」
「雪哉……」
 雪哉は制服のまま春香の家に上がり込んでいて、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「何回も携帯鳴らしたんだぞ? 休み前に倒れたから、心配してさ……どうやら体調悪くて落ち込んでいるってわけじゃなさそうだな」
 春香の様子を見て雪哉は困ったように顔をしかめ、部屋の中に入ってくる。
 雪哉は目の前で座ると、じっと春香の顔を覗き込み、やれやれと溜息を吐き出した。
「雪哉……どうして……家に?」
 虚ろな頭でそれを思いながら、少しだけ顔を上げて雪哉を見据える。
「わざわざ母さんの職場に行って、鍵を借りてきたの。俺って、いい奴でしょ」
 ふざけながら雪哉は笑うが、いつもこうやって春香を心配してきたのだと思えばふいに涙が出そうになった。
 母から真実を聞かされ、幼い頃に家にいた幼馴染の男の子で――本当は双子の兄。
 いつも守ってくれて、頭を優しく撫でてくれていた。
「お兄ちゃんに言ってごらん、春香の心の内に留めていること」
 雪哉がにこりと笑って、わざとらしく自分をお兄ちゃんと呼ぶ。
「雪哉……幼馴染の子って……お兄ちゃんのことだったんだね……お母さんから聞いて……私……」
「あの時は小さかったからな、仕方ないことさ。お兄ちゃんらしいことをしてないけど、今なら安く聞くぜ?」
「馬鹿……」
 憎まれ口を叩いて、いつもこの人はこうやって生きてきたのだと――軽いようで本当は何もかもを知っていて、芯が通っている雪哉に敵うわけがないと思った。
 それでも雪哉が双子の兄と知って、心強く思ったのも嘘ではない。
 雪哉の顔を見ていると段々と涙が浮かんできて、春香は胸の内に溜まっているものを吐き出した。
「……もう愛斗君には用無しって……手錠を外されたの……同じ境遇の私を見て自分と全然違うって思ったんだろうね……無知に笑う私を嫌いで……憎んで……めちゃめちゃに穢したいって復讐に似た思いを持っていて……」
 ぽつり、ぽつりと吐き出すと分かっていたことなのに悲しくなってくる。
 愛斗の目的は何も知らずに無垢に笑っている春香を同じ闇まで堕とそうとしたこと。
 そう、愛斗の積年の恨みは全て春香に吐き出されていたのだ。
「春香は手錠を外されて嬉しくないのか?」
 雪哉から穿ってくる質問をされ、春香はもう一度その頃のことを思い出す。
「最初は……悲しかった……愛斗君に純潔を奪われて……でも、違うの……気持ちがないから辛かっただけで……それが分かっていても、求められると嬉しくて、抗えなくて……手錠が繋がっている間は、自分のモノだと錯覚までして……だけど、もう――っ」
 手錠は外されてしまい、愛斗は春香の前からあっさりと立ち去ってしまった。
 真実が分かり、愛斗は春香に対して復讐心を抱かなくてもよくなったのだ。
 初めから不倫などという事実はなかった。
 それを知った愛斗はもう春香を縛る必要はなくなったのだから。   
 それを思うと涙が溢れて止まらなくなる。
 あれほど泣いたのに涙は枯れることはないのだと、また胸が痛んでくる。
「私……もうっ……愛斗君には必要とされていなくて……うっ……ひっく……」
「落ち着け、大丈夫、大丈夫だから」
 泣き出した春香をあやすように雪哉の大きな手が頭に乗せられゆっくりと撫で回される。
 それは幼い頃に、幼馴染のお兄ちゃんがよくやってくれたものだ。
 やはり雪哉は春香をいつも守ってくれていた、お兄ちゃんなのだと今頃になって実感が湧く。
 本当は双子の兄なのに、春香達の家を守る為に養子に出た雪哉。
 雪哉も辛い想いをしているはずなのに、こうして春香はいつも守られている。
「雪哉……お兄ちゃん……」
「かわいい妹、春香……その気持ちをきちんと愛斗に伝えたか?」
「――え?」
 その言葉に驚いて春香は顔を上げると、雪哉が指の腹でそっと涙を拭ってくれた。
「――好きってことだろう? それを伝えたのか?」
 雪哉に言われて春香は愛斗にその言葉を伝えていないことに気がつく。
「……でも……愛斗君は……」
 春香が好きでも愛斗の気持ちは違うと思うと、気持ちが段々と萎んでいき自信がなくなっていった。
「お前らしくないな、いつも無鉄砲で考えなしに行動するバイタリティ溢れる性格だってのに」   
「それって褒めてない……」
「そうか? 俺はそういうの羨ましいって思うけどな」
 雪哉がからからと笑い、春香の頭はぐしゃぐしゃに乱された。
「もう、髪がめちゃくちゃ……」
 春香は少しだけ機嫌の良さが戻ると、笑っている雪哉を見つめる。
(バイタリティ溢れる性格か……)
 そう言われてみればいつもそうだったと学校生活を思い出した。
 愛斗を追い掛け回し、いつも無理難題なことを押しつけ、元はといえば手錠で繋ぐ案を実行しなければこんなことにはならなかった。
 それを考えなしで春香がしてしまった為に、こういう結果に陥ったのだ。
 うじうじ悩むこともなく、前向きで何が起きても落ち込むことなどなかった日々。
 恋を知り、いつの間にか何に対しても臆病になっていたのかもしれない。
 今は自分らしさの欠片もないことに――雪哉によって気づかされた。
「そうだね……私らしくない……当たって砕けろ……じゃないけど、今までの自分だったら振られることを気にしないで告白していたかも」
 何も変わらないかもしれないが、この気持ちを伝えたいという想いが芽生えてくる。    
「おう、それでこそ春香。振られてもお兄ちゃんが慰めてやるからな」
「ケーキ食べ放題……高級ホテルのランチバイキング……」
 ぼそりと呟くと雪哉はくっと口元を歪ませ、肩を揺らせて笑った。
「おうよ、お前のためならクルーザー貸切って外国に逃避行でもいいぜ?」
 雪哉は冗談げに言うが、それが本気に聞こえて春香は頬を引きつらせる。
「ありがとう……お兄ちゃん……」
 改めてお兄ちゃんと呼ぶと、心が不思議と暖まってくる。
「お、おう……」
 春香がしんみり呟いた言葉に、雪哉は珍しく頬を赤らめて照れていた。
「うん、私……伝えてみるね……結果がどんなことになろうとも」  
「ああ、春香が愛斗に見捨てられても俺だけは見捨てない」
 ふいに真剣な声をかけられ、春香ははじめてくすりと笑顔を見せた。
「シスコンっていうんだよ、そういうの」
「だって、仕様がねぇだろ。愛しちゃってるもんな」
 雪哉がいつも通りに軽い調子でからからと笑い、春香の乱れた髪をそっと整えてくれる。
 それが嬉しくて、もう一度心の中だけでありがとうと呟いた。
 部屋に差し込む光が今はもう眩しく感じることはなく、暖かく思えて春香は涙を拭う。
(伝えるから……この気持ちを)
 そっと閉じた瞼の裏に愛斗を思い浮かべ、春香は好きであると――それを伝えることを決心した。 
  




 
  

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