先輩、僕の奴隷になってよ hold-34
hold-34
愛斗は春香を解放した後、家へ戻り、自室へと引っ込んだ。
制服のままベッドに仰向けになり、カーテンの隙間から差し込む月の明かりを顔に受ける。
手にできる影を見つめ、名残り惜しそうに手錠を見つめた。
(僕は、影)
愛斗は今までのことを思い出し、ちくりと痛む胸に手をやった。
七歳になる手前で、母は見知らぬ男と車で事故を起こし帰らぬ人となった。
浮気――不倫――子供にはよく分からない言葉を周りの大人から聞かされ、父は酒を飲むようになった。
仕事一徹でお金を稼いでいた俺に恩を仇で返しやがって――
その言葉を呪詛のように聞いていた愛斗は、母はきっと良くないことをして死んだのだと思った。
そこから荒んだ家庭で育ち、母が亡くなった三年後に今度は父が事故で他界した。
酔っ払ったまま車道に飛び出し、車に撥ねられてあっさりと。
その葬式で誰が引き取ると囁いた親戚の冷たい視線にさらされ、こいつらの世話になどなりたくないと思ったのが、十歳の時。
不倫した親の息子というレッテルでのけものにされ、どこでも疎まれた。
愛斗を引き取ると、周りの噂のネタになるらしく、それを嫌った親戚は次々と手放した。
何軒目かの家には、健二といういけすかない同じ年齢の男の子がいた。
母親に可愛がられ、影では愛斗を苛めて悦に入る嫌な奴。
その時の愛斗は、七歳の頃から送られてくる足長おじさんの手紙だけが心の糧であった。
優しい言葉をかけてくれる足長おじさんは、とても暖かい人なのだろうと愛斗は思った。
それでもどこの誰かが分からず、お礼を言うことすら出来ない。
そんなある日、愛斗に大きな転機が訪れた。
外国で医者の修行に行っていた父親の弟夫婦が、愛斗の状況を見かねて引き取ってくれたのだ。
養父達は優しく、愛斗を一つの人格として見てくれる、今までの親戚達とは全然違う存在だった。
愛斗が勉強出来るのを知って、私立の中学に通わせてくれる。
愛斗は初めて居心地の良さを知り、この場所からもう出たくないと感じた。
その為には養父達を失望させたくないという気持ちが湧いて、いい子を演じるようになった。
いつの間にかそれは癖になり、天使のような仮面を装着させる。
自分という自我に余裕が出来て、愛斗は昔を振り返り、何が起こったのかを調べ始めた。
そして不倫の果ての事故という記事を見つけ、愛斗は愕然とする。
ようやく自分がなぜ、親戚や周りの大人に冷たい視線や嘲る笑いを受けていたのか。
だが今更憤りを覚えても、父も母もこの世にはいない。
文句を言える相手も、一緒に傷を共有する相手すらいなかった。
けれども、母の不倫相手の子供に娘がいることを知った。
色んな記事を漁り、愛斗は見つけてしまったのだ。
相原春香のことを――。
どんな人なのだろう――年齢は一つ上であり、愛斗は春香の通う高校を突き止めた。
そして、行くはずだった志望校を変え、進路変更したのは中学三年の時。
愛斗は春香と同じ学園に通うことになり、すぐに彼女のことを調べた。
春香も同じように、冷たい視線に晒され、非難や中傷を浴びてきたのだろう。
愛斗が味わった辛酸を分かってくれる相手を見つけ、その時は胸が打ち震えるほど喜んだ。
穢れている烙印を押されていた愛斗は、同じ闇を――同じ苦痛を知っている相手に会えて、期待を込めた眼差しで春香を見つめていた。
サークルも同じところに入り、春香に近づく。
だが愛斗を待っていたのは、失望と落胆だった。
同じだと思っていた春香は、愛斗とは全くもって違う別物で、それはまるで光と影といったほどの差があったのだ。
彼女は陽だまりで溢れんばかりの光を放ち、愛斗はそれによって出来る影の気分を味わった。
(眩しくて屈託のない笑顔が綺麗な人――)
愛斗のように演技をしているのかと思ったが、屈託ない純真な笑みは心からの微笑みだった。
じりっと愛斗の胸に焦げつく痛みが走り、春香に対する気持ちが違うものとなっていく。
この人は全然違う――傷もないし、闇もない。
屈折し、闇に囚われて堕ちているのは自分だけだと。
その上、笑えることに春香は愛斗のファンクラブに入り、愛しそうに見つめてくることがあった。
愛斗君――、名前を呼ばれて体に触れられると心にくすぶる気持ちが湧いてくる。
(この人をめちゃくちゃにしたい)
陽だまりを影の中に堕としたい――そう思ったのは、何も知らずに笑っている春香を憎らしく思っていたからだと。
愛斗がどれだけの思いで今まで生きていたのかを、春香にも思い知らせてやりたかった。
傷つけ、穢したなら愛斗の気持ちも分かってくれるだろうか。
そう、愛斗は決心をして綺麗な瞳を翳らせる春香を想像し、興奮した。
執着にも似た思いで、ずっと、ずっと春香を見続けて――その肌を穢し、自分の思い通りにしたくて。
他の男に触れられる前に、愛斗が堕としてやろうと。
愛斗は決心し、思惑通りに春香を手に入れた。
春香を抱き、穢して、思い通りに操った。
不倫のことを母にばらされたくなければ、と汚いやり方で。
穢したのに、それでも春香は美しく愛斗の目には映った。
何度抱いても、快楽に理性を崩してやっても、春香は穢れがなき、美しき存在で。
――やっぱり彼女は僕が待ち望んだ織姫にはふさわしくない。
天の川は繋がることはなく、その手を取ることができない――孤独なアルタイル。
愛斗は見つめているしかないのだ。
うす暗い気持ちを抱いたまま、ずっと――孤独に。
陽だまりのように暖かい春香――彼女といると一緒にいるとどんどん影は濃くなっていく。
それでも手錠を外したくなかったのは――春香と繋がっていたかったから。
穢したいと思いながら、いつの間にか手放したくないと思い、誰にも渡したくない欲求が芽生え、毎日不安に駆られる。
春香がいつかはこの手を離れ、違う男に走って行くのかと思えば、この身が焦げ付きそうになった。
彼女は僕のことなど嫌いなはずだ。
その証拠はありありと出ていた。
好きでもない男に抱かれ、無理やり命令されていいつけを守る春香は少しだけ痩せた。
そう、彼女が好意を抱いていた天使の愛斗はもういないのだから。
仮面の下の愛斗を誰が好きになるのだろう。
歪んで、穢れて、しつこく、影のように執着心の強い男。
春香は優しいから愛斗の傍にいてくれた。
それが、いつのまにか居心地がよくなり、ずっと手錠で繋がれたままでもいいと思っていた。
そう、口では穢したいと、堕ちて欲しいと言いながら、本当はずっと繋がっていたかったから――。
それに気がついた時、自分はこんなにも彼女を必要とし、求めていると知った。
だけど無理をさせすぎて、春香はとうとう倒れてしまった。
愛斗の気持ちに悲しみが広がっていく。
本当に、このままでいいのだろうかと。
この結果を愛斗は望んでいたのだろうかと。
もう、十分に欲望を押しつけたのではないかと。
迷いが生じ始めた時に、愛斗はとうとう真実を知ってしまう。
母は不倫をしていたのではなかったと。
愛斗は自分だけ悲劇のヒロインを演じ、綺麗な春香を同じ闇に堕とそうとした、ただの自分勝手な奴だと気がつく。
自己憐憫だけで、春香を傷つけてしまい、倒れるまで抱いた。
雪哉に甘ったれた奴だと言われても仕方がないことだった。
(先輩……僕の陽だまり……)
もう、春香は自分に関わってはいけないのだと――影は影らしく日陰で見続けるのが性にあっている、そう愛斗は思った。
それは心臓を切り裂くような決意だけど、春香にとっては良い結果になるだろう。
彼女には輝ける未来が待っている――光り溢れる眩しい世界が。
「春香先輩……僕の……愛しき人……」
愛斗はそれだけを静かに呟き、春香から離れることを決意した。
それは嫌われるより過酷で辛い道だけど、春香の為を思うなら――彼女は雪哉が見守ってくれる。
自分の変わりに雪哉が――それなのに、喪失感に苛まれ空に浮かぶ月が滲んで見えた。
その夜、愛斗は手錠を胸に抱き締めながら枯れることのない涙を流し続けた。
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