先輩、僕の奴隷になってよ hold-33

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――長い、長い秋子の語りを聞いて、春香も愛斗も何とも言えぬ表情を浮かべた。
 春香は雪哉が双子の兄という真実に驚き、愛斗は不倫ではなかったという真実を周りが知っていたということを。
「そんなのあなたが都合よく並び立てた話なのでは?」
 それでも愛斗は納得が行かないようで、声を震わせながら明子を糾弾する。
「愛斗君は小さいから覚えていないと思うけど……叔母さんと愛斗君ね……会ったことあるのよ……病院で……あの後で、私は違う病院に勤めているけど……」
 秋子の言葉に愛斗は弾くように顔を上げ、呆然と見つめる。
「由美さんが愛斗君を連れて来た時があってね。仲良くお話をしてたのよ」
 秋子がすっとぼろぼろの携帯電話を取り出して、ボタンをいじりはじめた。
「あの事故が遭った日、叔母さんが由美さんを送ろうと思っていて……愛斗君が留守番電話に入れてくれたのよ」
 秋子がぴっとボタンを押すと、留守番電話が再生される。
『……叔母さん、僕、愛斗だよ……いつもありがとう……お母さんを送って来てくれるんでしょ……気をつけてね』
 途切れ途切れで音は悪いが、その幼い声を聞いて愛斗は目を見開く。
「由美さんが、電話してお礼を言ってって伝えたでしょうね……これを聞いたのは……事故が遭った後で……」
 ぐすりと鼻をすすり、秋子は頬に流れる涙をハンカチで拭った。
(お母さん……)
 秋子が携帯電話の留守電を再生して聞いていたのは、父の伝言だけではなく愛斗の声も聞いていたのだ。
「……僕の……声……」
 愛斗は幼き頃に残したメッセージを聞いて、茫然自失とする。
「愛斗君……」
 春香がぼんやりとする愛斗に声をかけるが、まだその目は虚ろで何も見ていなかった。
 様子を見ていると愛斗は肩を小さく揺らして笑っていたかと思えば、次第にそれは哄笑へと変わる。
「ははははははっ――」
 その笑いは自嘲気味ていて、それを聞いていた春香は悲しくなり言葉をなくしてしまった。
(愛斗君……)
 手に持つ湯呑はすっかり冷えていて――それが今の愛斗の気持ちを現しているように思えてたまらなくなり、春香は繋がれた手錠をそっと握り締めたのだった。   
   

 ***

「ほら、愛斗君……今日は月が綺麗だよ」
 秋子が夜勤で出てしまい、家に二人っきりになった春香は憔悴しきった愛斗を連れて静かな道を歩いていた。
 愛斗は足を引きずるようにして一歩進むのさえも重たげにしている。
 気遣いながら歩いていると、手錠が引っ張られて春香は後ろを振り返った。
 愛斗が歩くことを止めて、その場でじっと立ち止まっている。
 僅かに顔を俯かせ、手錠を少し引っ張ってみても愛斗はそこで動かない。
「愛斗君……散歩止める? 家に戻ろうか」
 もう歩きたくないのだと判断し、そう声をかけたが微動だにしようとしなかった。
 愛斗の目の前に立って春香は顔を覗き込み、様子を見てみる。
「愛斗君?」
 何も答えてくれない愛斗の肩にそっと触れると、びくりと跳ねさせようやく顔を上げた。
 視線を絡ませてきた愛斗の瞳に光が戻り、春香のことを確認する。
 そしてふいに空を振り仰ぎ、大きすぎる月を見て眩しそうに瞳を細めた。
 悲壮感を漂わせた愛斗の顔に月の光がこぼれ、その血の気のない様がぞっとするほど美しく見えて――。
「本当だね……綺麗だ」
 静かに吐き出された愛斗の声はどことなく沈んでいて、白くなった息がしじまに溶けて消えていく。
「先輩……ごめんね」
 月を見上げたまま愛斗は謝るが、それが何を意図しているかが分からなかった。
「え、愛斗君? なに?」
 まだ月を仰ぐ愛斗に聞き返すが、静かな沈黙が降りる。
 数秒後に月から視線を外した愛斗は、まっすぐに春香を見つめてポケットから何かを取り出した。
 愛斗の手に持つモノは月光を浴びて鈍い銀色の光を放つ。
 それは、手錠の鍵――
「先輩……解放してあげるよ」
 愛斗が抑揚もなく述べて、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
 どくん――と心臓が大きく一跳ねする。
「ま……なと……君」
 唐突に解放すると言われて、春香は掠れた声しか出てこなかった。
 愛斗が鍵を手錠の穴に差し込み、回そうとする。
(嫌……止めて……)
 動揺してしまった春香はただ呆然とその様子を見ているしか出来ない。
 本当は、声を荒げて手錠を外さないでと言いたいのに。
――かちり
 いつか、幻聴で聞こえてきた音が、今度は現実の中ではっきりと聞こえてきた。
 視線を落とすと手首を捕らえていた輪っかが空いて、愛斗と繋がれていた手錠が外されていく。
 それは簡単に、いともあっさりと――
(嘘だ……そんなの……嫌だよ……)
 外された手錠は愛斗に回収され、用がないと言った風にポケットにしまいこまれた。
 それが終わりの合図――
 薄暗い楽園は壊れ、二人は元いた場所へ戻って別々の道を歩んで行く。
 閉ざされた楽園は二度と開けることが出来ない――それは永劫に。
「愛斗君……」
 それでもまだ手錠は繋がっているような気がして、春香は愛斗の名を呼んだ。
「春香先輩――」
 せきを切ったように愛斗が名を呼んだ瞬間、春香は息が止まるほど抱きしめられていた。
 かき抱く愛斗の腕は物狂おしいほどの熱情が込められていて――。
 ああ、まだ繋がっている。
 求められている。
 そう春香は思って愛斗の胸に顔を埋める。
「先輩、もう僕達は手錠で繋がれる必要はない。ごめんね。勝手な僕で。今までしてきたことを許してくれとは言わない……」
 けれども愛斗から発せられるのは、まるで別れを告げるような言葉で春香の指先は震えてくる。
「僕を嫌いになっていいよ……いや……もう嫌いか……」
 自嘲気味に笑う愛斗に怒りも感じて、春香はそろりと顔を上げる。
「勝手すぎるよ……愛斗君……」
 言葉足らずだと思いながら、非難を込めて愛斗に言い放った。
(今更――自由にしろって……こんなに好きにさせといて……)
「そうだね……僕は本当に勝手で……自分のことしか見ていなかった……真実を知って……情けないよ……だから……もう、先輩を手放すね」
 手放す――そう言われると体はますます震えてきて、愛斗の顔を見上げる。
 ぽつり――と頬に落ちる雫に気がついて、雨が降ってきたのかとそう思ってしまった。
「――さようなら、先輩」
 月が滲んで見えるのは自分が泣いているせいだろうかと思った。
 だが、泣いていたのは愛斗の方で――。
(どうして、愛斗君)
 さようならと言っておいて、自分が泣くなんてずるいと――春香は愛斗の背中に手を回して抱き締めた。
 月明かりを浴びた涙がまつ毛を弾き、きらりと光って真珠のように頬を滑り落ちていく。
――綺麗な、綺麗な涙
 それでも春香は愛斗の涙を拭えずに、必死で身体をかき抱く。
 このまま放したら、あっという間に愛斗は消えて行きそうだったから――。
「春香先輩……」
 愛斗がそっと唇を重ねてきて、口元に流れ込む塩辛い味が余計に悲しみを助長させた。
 もっとキスをしていたいのに、愛斗はあっさりと唇を放して見下ろしてくる。
 愛斗の瞳はまだうっすらとした涙に覆われていて、映りこんだ春香が悲しげに揺らめいて見えた。
 苦しいほど抱き締めていた愛斗の腕がふっと緩み、熱が離れていく。
「愛斗君……」
 一歩、一歩と春香から距離を取って、愛斗は涙を拭わずに悲しく微笑んだ。
(嫌っ……離れないで)
 春香が一歩迫ると、愛斗は同じ距離だけ体を離していく。
「春香先輩、今まで楽しかった。もう、僕みたいなのに関わっちゃいけないよ」
 残酷とも言える別れの言葉をはっきりと告げ――愛斗は断ち切るような笑みを浮かべる。
 それは胸を締め上げる、泣きたくなるほどの笑顔で――。
 それだけを紡いだ愛斗にくるりと背中を向けられた瞬間、胸に突き抜けるような悲しみが広がった。
(行かないで、愛斗君――)
 声を上げたいのに、それが喉で引っかかって出てこず、体が一歩も動かなかった。
 愛斗の影が小さくなっていくのを滲んだ視界で見て、そこで初めて自分が泣いているのだと知った。
「愛斗……っ」
 嗚咽を漏らし、その場に泣き崩れるようにして地べたに座り込む。
 声を枯らして泣いても、愛斗は帰ってくることはないのを知っても、涙は次々と溢れてくる。
 人はこんなに胸を痛ませて泣けるのだと――春香は自由になった左手を見て絶望する。
 ひと目もはばからず、春香はただ去っていった愛斗のことだけを想い、目を腫らして泣き続けた。
 それはとても綺麗で、氷のような月が浮かぶ静謐な夜のことだった――。 





 
  

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