先輩、僕の奴隷になってよ hold-32

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 秋子の夫、夏樹はお人良しで――いわゆるいい人、悪くいえば都合よく使われる人だった。
 しがないサラリーマンで、小さな会社の営業をしていたが、買ったばかりの家のローン支払いとまだ幼い双子の兄妹の為に一生懸命働いていた。
 営業に出た途中に休憩として入ったお洒落な喫茶店で、夏樹は高校の同級生、浅尾由美と久しぶりの再会を果たした。
 聞けば由美がオープンした喫茶店であると自慢し、夫が出資してくれていると嬉しそうに彼女は笑ったと言う。 
 夏樹は売上に貢献しようと、よくその喫茶店に赴くようになった。
 順調だと思っていたが、その場所一帯は区画整理の為に住人達は立ち退きを要求されるようになる。
 開いたばかりの喫茶店の借金もあるというのに、由美は住人と一緒に立ち退きを拒否した。
 人のいい夏樹は一緒になって、住民達の味方になり、地上げ屋というガラの悪い男達と睨み合った。
 だが、地上げ屋は手段を選ばない。それを恐れた住民達は安い料金を持たされ次々とその場所を去っていった。
 喫茶店も妨害される日々。窓は割られ、いやがらせの紙を貼られ、由美は徐々に精神を止み始めた。
 夏樹は妻の秋子が働く――心療内科を紹介し由美はそこに通い始めた。
 そして、秋子は勤め先に患者として来た由美と出会い、その境遇に同情する。
 由美の夫は仕事一筋の堅実な性格だが、朴訥であまり家庭のことには口を出してこない。
 お金を家庭に入れることが夫の勤めだと思っているようだ――由美がそう悲しく漏らしたことがあった。
 なんとか由美に協力しようと秋子も考えていたが、矛先は秋子達の家庭にも及びはじめる。
 地上げ屋が、夏樹の存在を邪魔に思い、相原家にもいやがらせをし始めたのだ。
 窓が割られたり、嫌がらせの電話が朝からずっと鳴りっぱなしだったり、子供に危害を加えると脅されたり。
 そんな時は、怖がる春香を雪哉が守り、よく抱き締めていた。
 夏樹はそんな卑怯な手には屈しないと頑張っていたが、会社にまでいやがらせが及び、とうとうクビにされてしまう。
 職を失ったが夏樹はそれでも落ち込むことはなく、家庭を守る為、困っている同級生を助ける為に毎日を過ごしていた。
 だが、由美の喫茶店が放火されて、なくなってしまう。
 由美はどんどん病んでいき、連帯保証人となっていた夏樹に多額の借金が回ってきた。 
 人のいい夏樹は由美から頼まれて、連帯保証人のところに判子を押していたのだ。由美は夫ではなく、夏樹に頼んできた。
 今思えば、利用されていたのではと秋子は思ったが、そんな夏樹を好きになったのも自分だった。
 同じ区画に由美の家があった為に、そこも地上げ屋に脅され立ち退きを要求されていて――愛斗の家も多くの借金が増えていくばかり。
 そんなある日――夏樹に助けの手がのびてきた。
 借金を抱えた夏樹の家を助けようと酔狂な――その人物は正しく地上げ屋を引き連れ、その一帯を区画整理しようとしていた不動産王である。
 その名を矢崎と言った。
 事の発端の人物が、幼き雪哉を見て気に入ったというのだ。
 男を見ても動じず、強い瞳を向けてきた雪哉は将来大物になるだろうと。
 男には妻はいたが、子供には恵まれていなかった。
 そこで借金をなくす条件として、雪哉を養子に迎えたいと言ったのだ。
 もちろん、夏樹は反対したが――快く承諾したのは雪哉の方だったのだ。
『俺、金持ちの家がいい』
 などとたかだか八歳の雪哉に言われた時はショックを受けたと秋子は言う。
 だが、今思うと家の状況を分かっていて、自ら犠牲になったのではと気がついたのだ。
 こうして夏樹の家は八歳の子供によって、救われることになる。
 由美もとうとう観念して、自分の家と夢が詰まった喫茶店を地上げ屋に売り払う決意をした。
 だがその頃の由美は、病院で貰っていた薬を飲んで朦朧とすることが多かった。
 夜も眠れないと言って、大量の薬を飲むことがあった。
 一週間分の薬をたった四日ほどで飲んでしまい、秋子に裏で欲しいと要求していた。
 もちろん断ったが、秋子があまりにも泣き崩れて頼み込んでくるので――秋子は二日分だけだと、内緒で出してしまった。
 もちろん先生にも薬剤師にも秘密で、渡してしまったのだ。
 それで由美が安らぐなら、そう思って。
 由美は大事に飲む――そう言って車を運転して帰ろうとした。
 だが由美は二日分の薬をその場で飲んでしまい、秋子が見かねて送ろうとした。
 けれども、そういう時に限って患者が来てしまい、由美を送ることが出来ない。
 そこで家にいた夏樹に頼んで、由美を送っていって欲しいと呼び出したのだ。
 夏樹は快く了承し、薬でぐったりする由美を助手席に乗せた。
『お願い、実家に送って欲しいの』
 由美が山間部の実家に、息子の愛斗を預けていると言う。
 地上げ屋から守る為に愛斗を安全な場所に置いていたのだ。
 夏樹は了承して、由美を助手席に乗せたまま発進する――夫の顔色が少し悪いと秋子は思ったが夜の道を遠ざかっていく車を見送った。
 そして、二人は帰らぬ人となった。
 夏樹も本当は無理をしていたのだろう。
 雪哉を失い、ショックを受けていたのは秋子だけではない。
 顔色が悪かったのもほとんど寝ていなかったせいだろう。
 それを秋子は気がつかず、疲れきった夏樹を呼び出し由美を送らせた。
 その事故は新聞紙やメディアが勝手に不倫事故と記載し、おもしろくはやしたてた。
 秋子はあの時、由美に内緒で薬を渡さなければ――こんな惨事は起こらなかっただろうと後悔する日々を送った。
 死に至らせたのは秋子ではないかと――懺悔する気持ちで由美の夫に些少ばかりのお金を用立てた。
 まだ由美の家も借金は残っているはずだったから。
 それと同時に、同じような年齢の息子――愛斗が不憫に思えて。
 そこから秋子の贖罪は始まった。
 不倫ではないと声を枯らせていっても、状況は、周りは、結果しか見ずに浮気をしていたと非難めいた目を向けてきた。
 徐々に真実をいう気力も失せて、秋子は住んでいた家を出て違う土地へ引っ越した。
 愛斗の父が死んだと雪哉から聞かされたのは――その三年後であった。
 その頃の雪哉は――元々聡い子で、家の事情や状況をよく知り、また養父のお金の力で愛斗がどこにいるかを知ることが出来た。
 それを逐一、秋子に報告してくれて、愛斗がどこにいても手紙と些少ばかりのお金を添えて出した。
 それはもうずっと前から秋子が実行している懺悔でもあり、今更止める気などはなかった。
 だから愛斗が親戚をたらい回しにされている時は不憫に思っていたが、その後で、弟夫婦に引き取られたと聞かされ安堵もした。
 裕福で人格者でもある弟夫婦は秋子の事情を理解して、手紙を出すことを許してくれた。
 その愛斗も成長し、弟夫婦と同じ医者の道を進んでいると聞いて嬉しくも思った。
 まるで、我が子の成長を見ているように――。
 だが、愛斗は愛斗で自分の両親の死因を知って、春香の存在を知ったのだろう。
 いきなり志望校を蹴って、春香の学園に入った時は驚いたものだ。
 それでも雪哉は「俺が見ていてやるから」と秋子を安心させてくれたのだ。
 もし、愛斗が目の前に現れて――真相を聞きたがるなら、真実を告白しようと秋子はその覚悟だけをして。
 








 
  

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