河畔に咲く鮮花  

第二章  第十七輪の花  1:黒いひずみ


 蘭は約束通りに雪に遣わされて、ともの家に様子を見に行くことになった。
 相変わらず、ともの父親は意識を取り戻すことがなく、母親は心中で伏せっているらしい。
 回復した公人を警護に付け、ともの邸宅を訪れる。
 警戒していたが、ともは毒気が抜かれたように屈託ない笑みで対応してくる。
――なんだか、すっかり元のとも君に戻ってる
 高級なお菓子を用意してくれて、それに合うお茶を飲んで一時間程度過ごす。
「ほら、蘭おねーさん、このお菓子おいしいでしょ」
 瞳をきらきらさせて、話しかけてくるともから邪気は抜けていた。
――身構えしすぎたかも
公人もすっかりなりを潜めてしまったともに警戒心を薄れさせていった。
 そんなことが、それから一ヶ月も続いた。
 その間、ともは蘭に触れることは一切なかった。
 ともは肩が触れ合う距離でさえ寄ってくることはない。
 その徹底したともの様子に蘭はあの時のことが夢だったのではないかと思うまでにもなった。
 そのような状態が過ぎ季節は変わっていく。
――夏が来たのね……
 梅雨は明けて夏の到来がやってくる。うるさいほどの蝉しぐれが耳をつんざく日が続く。
――とも君は怪しい素振りはない
 ともの邸宅に行くのも慣れて来て、今は少数の警護だけでお見舞いを繰り返していた。
 そんなある日、夜に来て欲しいと言われる。
 昼間に終わらせなければならない公務があり、夜の方が都合がいいと言うのだ。
 一時間でディナーを食べた後に家へ送り届けると、ともから知らせが来て、雪はそれに承諾した。
 見舞いに行っても、きっかり一時間で蘭を雪の元へ帰してくれる。
 それを信頼して、蘭もいつも通りに公人を連れてディナーに顔を出すことを決めたのだ。
「おい、台風が近付いているから、早く戻って来いよ」
 雪が公務の途中で蘭の顔を見に来て、心配そうに念を押してくる。
「うん、分かっている。ね、それよりこの指輪を磨きたいんだけど」
 蘭は覇王の記の指輪を外して雪に見せる。
「ああ、これは代々受け継がれてきた指輪で、年代物だからな。つねづね磨いていないとすぐに汚れる。お前がとものことろ行っている間にクリーニングしといてやるよ」
 雪が蘭から指輪を受け取り、汚れのある部分を眺めた。
「その代わりにこれをつけて行け」
 雪がポーンと放り投げてくるものをキャッチして蘭は目を丸める。そこには、覇王の記と同じ指輪が手の中にあった。
「雪、これって?」
「それはレプリカだ。よぉく、見ると宝石部分に傷が入っている。環の部分の文様も違う。奪われないように、覇王は代々ダミーも持ち合わせて敵の目を欺いていたんだ」
――こんなものも作っているんだ
 雪からの説明に蘭はへぇと感心をする。一見、見ただけでは分からないように、本物の指輪と同じ細工が施されていた。
 確かに少しだけ蘭の指には大きすぎた。
「その、なんだ。一時でも、蘭に妻の証を外して欲しくないから。ダミーでもいいから形だけでもつけておけよ」
 雪がごにょごにょと恥ずかし気に言う姿は可愛らしい。
「いいの、つけて行っても?」
 蘭はダミーの指輪をまじまじと見て雪にお伺いを立てる。
「ああ、今日だけ外していたらともに変に思われるだろ」
 雪の見栄っぱりな意見を聞いて蘭はくすりと微笑む。
――そんなところで虚勢張るんだから
「笑うな」
 雪は顔を赤らめて、口をすぼめる。
「ごめん、ごめん」
蘭は笑うのを止めて、ダミーの指輪を左手の薬指に嵌めた。
「じゃあ、一時間だけこのダミーをして行って来るね」
 ひらひらと手を振り、雪の手に一時的にだけ戻った指輪を残して、ともの家へ向かって行った。
――台風がきそうだから今日は早くひきあげよう
 蘭は軽い気持ちでご飯を食べに行くことだけを考える。
 これから、どんな運命が待ちうけているかも知らずに――


  * * *


 日は沈み、ともの邸宅へ招かれた時には、天気予報の通りに雨が降り始めていた。
 台風が近付いているせいのあってか、時折吹きすさぶ風も強い。
 これから時間が経つに連れてどんどんと荒れ狂っていくだろう。
 今日はあまり長居は出来ないかも知れない。
――今日は早く帰りたい
 蘭は蝋燭だけで灯されたリビングに招かれ、食事の用意をそこで待っていた。
「とも君、ディナーはまだなの?」
 あまり帰るのが遅くなりたくはない。思ったより、食事の時間が遅れていて、つい蘭はともに質問してしまう。
「蘭おねーさん、お腹が減ったの? ごめんね、シェフにスペシャルディナーを頼んだから、少し時間がかかっているみたい。もう少し待ってくれる?」
 ともが心底申し訳なさそうに言うので蘭は慌てて手を横に振った。
「ううん、いいの。せっかちだったよね」
 食い意地張っていると思われていないか恥ずかしくなり少しだけ顔を俯かせる。
 覇王の妻が品なくディナーをねだるとは情けない行為だ。
――格好悪いことやっちゃった
 これでは、やはり下慮出身だと言われてもおかしくはない。
「ごめん、少しだけ食前酒を飲んで待っていて」
 ともが豪奢なソファから立ち上がり、自らワイングラスにシャンパンを注いでくれた。
「君も、どう?」
 ともはあくまで自然体で、あの夜を忘れたように話す。
「僕は、警護の仕事中なので、申し訳ありませんが」
 シャンパンを促された公人はやんわり断ると、軽く頭を垂れた。
「そっか、暇だからさ。チェスでもやらない?」
 ともがどかりとソファに座り、テーブルに置かれたチェス盤を眺めた。
――え、それは無理
 目の前に座っていた蘭は慌てて首を横に振り、出来ないと意思表示をする。
 ともはそれを見て取って、ちらりと公人に視線を流した。
「君は、どう?」
「たしなみ程度で少々はかじりましたが。僕相手でいいのでしょうか?」
 公人は気後れしたように視線を下げる。
 ともは、御三家トップの徳川の跡取りとは思えないような気さくな笑顔を向けた。
「ただのゲームだよ。どちらが勝っても恨みっこなし。だから、僕が徳川だからって手を抜かないでね」
「僕でよろしいのなら」
 人懐こい笑みを投げられ、公人の気持ちは和らいだのかチェスの相手をすることに了承した。
 チェス盤の上では、駒が行き交い、それを見ているだけでは蘭には分からなかった。
 二人とも真剣な眼差しで、お互いに一歩も譲らない。
――チェスって難しそう
 その隣で蘭はちびちびと高級なシャンパンで喉を潤わすだけ。
 短くなった蝋燭がジリリと芯を焼き、一本、また一本と火が消えていく。
――雨がどんどんとひどくなる
 蘭はふと窓に視線を巡らせて暗くなった空を見つめる。
 カーテンは開け放たれていて、床まである全面ガラス窓に強くなった雨が叩きつけられていた。
 それでもともは気にすることなくチェスゲームを続ける。






 





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