河畔に咲く鮮花  

第二章 十六輪の花* 1:覇王の記


 義鷹の姿が見えなくなり、蘭はようやく車の窓を閉めた。 
蘭は義鷹から貰い受けた姉小路家の借金の借財書に目を落とし、大事にバッグにしまいこんだ。
「これで、借金を返す心配もなく、蝶姫の手から離れることが出来るね」 
 公人がようやく頭を上げて、もう一度深々とお辞儀をしてくる。
「もうやだな、公人君。顔を上げて」
 そう言うとようやく公人は顔を上げるが、そこには苦悶の表情が滲んでいた。
「……もう、私の傍にいる必要はないんだよ。知っているでしょ? 私は清らかで純粋な女じゃない。がっかりしたでしょう」
 我ながら自虐的な言葉を吐いてしまったと思うが、それが真実である。 公人の手が僅かに震えているのを見て取ってか細い溜息を吐き出した。
――そうだよね。公人君も軽蔑しているよね
これでは遊んでいる上流階級の娘たちとなんら変わらない。
 公人が抱いてきた娘と同じだ。呆れて物も言えないのだろう。
 
 借財書はもう手に戻って来て、公人は晴れて自由の身になれる。
もう、私の傍にいる必要はない……
 本当は唯一の理解者を手放すのは苦しかった。それでも、公人は蝶子からの契約を遂行する義理はなくなる。
「公人君?」
 黙りこんでいる公人の顔を覗き込み、様子を窺う。
 喜んでくれるかと思いきや公人は苦々しく口を開いた。
「僕を見誤らないで下さい。言ったでしょう。傍を離れる時は死ぬ時です」
 その思いがけない答えに蘭は呆気に取られた。
 公人は顔を上げて真剣な眼差しを向けてくる。
「僕が苦しんでいるのは、あなたが権力者達のゲームの駒のように扱われることが嫌なのです。僕は認識が甘かった。護衛の役を仕ったというのに、逆に蘭様を今回のように苦しめてしまった」
 人形のように無表情な顔に珍しく感情が刻まれている。
――私がゲームの駒?
 蘭は公人の言わんことが半分も理解が出来ずに首を傾げた。
権力者というのは覇者や貴族達のこと。
その中に蘭の知っている義鷹も含まれているのだろうか。
 それが一体、どういうことを差しているのかが分からない。
さっぱり分からないと困惑の表情を浮かべていたのだろう。公人は意を決して口を開く。
「覇王の記を本当に蘭様が手に入れてよろしいのでしょうか。徳川様がそれぐらいで引き下がるようには思えません。それを分かっているはずなのに、今川の若様は急かすようにそれを手にいれろとおっしゃる」
 真理を穿つ言い方は蘭の不安の種を一瞬で芽吹かせる。
「ま……さか、公人君の思い過ごしよ。それを手に入れなければ私は正式な妻と認めてくれない。それを心配してくれているだけ」
 義鷹を悪く言われたと思い、思わず庇う物言いをしてしまう。
――義鷹様は決して酷いことはしない
 付き合いの長さでは蘭の方が上だ。その義鷹のなにを知っているのだろうと蘭は顔をしかめた。
「僕の家は借金を負い、没落して今まで見たことのない、人々の大きな闇に触れて来ました。その闇は今川様から、徳川様からも恐ろしいほど臭ってきます」
 公人の真摯な言葉に蘭は沈黙を落とす。
――底の知れない闇。
義鷹様と……とも君……
あの二人にその闇が全くないとは言い切れない。
 義鷹はまだ何かを悩んで、苦しんでいるようであった。
 ともと言えば――
「とも君は出会った時、あんな風じゃなかったのに」
 つい出た言葉は、二年前に出会ったとものことを思ってだ。
明るく無邪気で、なによりもひたむきで真っ直ぐだった。
 そのあどけない顔の裏に潜む闇を蘭が引き出してしまったのか。

 





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