河畔に咲く鮮花  

第二章 十五輪の花 2:落日の中での再会

 


 あれから毎夜、ともは義鷹の屋敷に現れては蘭を朝まで抱いた。
 ともの激しさは日を重ねるほどに増して、本当に蘭は体だけではなく、精神も壊されてしまうのではないかと思う。
 いつも解放されるのは、朝日が高く昇る時間だ。
「蘭様、僕の身受けはもういいです。屋敷に帰りましょう」
 ともの激しすぎる愛撫は日ごとに蘭の体を軋ませていった。
 食も細くなり、夜に脅える蘭に公人は見ていられなくなったのかそう切り出してくる。
「でも……公人君の身受けは今がチャンスなんだよ。雪が帰って来たらまた屋敷からは一歩も出られなくなる。それにきっと、とも君のことだもの。義鷹様にも私を帰すなって命令しているはずだよ」
 そう言っても公人は力なくふるふると首を横に振った。
「それでも見ていられません。日ごとに蘭様はお痩せになり、顔色も悪くなっていきます。いくら徳川様といえど、あんな風な抱き方を……」
 公人はそこまで言って決まりが悪そうに口をつぐんだ。蘭は眉をしかめて顔を背けてしまう。公人に情事がばれないわけがない。
 毎夜、毎夜、狂うようにイカされて、鳴いている声を聞かされては。
 恥じらうことも忘れ、ぼんやりと庭を眺める。
 先ほどともに解放されたばかりなのに、もう日が落ちようとしていた。
――また夜がやってくる。
 ただ蘭は待つだけ。飽きもせずに蘭を蹂躙し、翻弄し、快楽に堕とそうとする綺麗な顔をした悪魔の到来を。
 もがけばもがくほど、蜘蛛の巣の糸が絡まり身動きが出来なくなる。
 そして、蘭をゆるりと蝕んでいく――長い、長い夜がやってくる。そこには蘭の気持ちも感情もない。
 ただ快楽に溺れさすだけの行為が朝までひたすら続けられる。
 すさんだ心とは違い、整然とした美しさを湛える庭をぼんやりと見つめた。
 斜陽を浴びたネックレスが光に反射して蘭の顔を照らした。ふと視線が庭に置かれてある灯篭にいく。
 もやがかかっていた脳がふいに覚め、蘭の目に彩りが戻ってきた。
――あの紋様は……
 はっと視線を戻して、指輪の裏側に彫られた鷹の紋様と灯篭に刻まれた今川家の家紋を見比べる。
「同じ……同じだ……この指輪と今川家の家紋の紋様が」
 その瞬間、蘭の中にあの十数年前の思い出が蘇ってきた。
 幼い頃に貴族のお姉さんとの逢瀬を重ねた日々。
 毎日、河畔で会いキスを交わし、蘭を貰いに行くと言ってくれた美しい人。
 憧れて、敬愛して、好きで好きでたまらなかったお姉さん。優しくて下慮の蘭を蔑むことなく大切にしてくれた。
 女の人だったけど、蘭の初恋の相手だった。
 蘭の中の思い出のお姉さんの笑顔はとても綺麗で、可憐で見る者の心を惹きつける。
 その笑顔と体から放たれる花のような甘い芳香はあの人と同じものだった。
 蘭の中で全てのパズルが一致する。
――ああ、なんてことだろう。
 どうして今まで気がつかなかったのか。これほどに疎くて鈍い自分を情けなく感じた。
「……義鷹様……」
 全ての答えを見出したようにその名前を紡ぎ出す。
 その呟きが聞こえたのか指輪を弄る蘭を公人の目が捉えた。公人を横目に見ながら蘭は言った言葉を思い出す。その指輪を下さったのはと公人は切り出した。
 それはきっと、こう言いたかったのだ。
 その指輪を下さったのは――今川義鷹様ではないでしょうか、と。
 ――まさか……本当に……あのお姉さんは……
いてもたってもいられなくなり蘭は義鷹のいる本家へ足を運んだ。
 本家に来たことはないが、メイドがすぐに庭に義鷹がいると教えてくれる。この時間になると、いつも花に自ら水をあげているというのだ。
 蘭は息を切らせて庭に足を踏み入れる。
 そこで見た義鷹はどこか寂しそうに笑みを浮かべて咲き乱れる花の一つ一つに水をあげていた。
――その花は……
 光景を見ただけでぐっと胸が詰まりそうになる。
 なぜなら、義鷹が愛でるように育てているのは、蘭の花。
 ――蘭と同じ名前の花だったからだ
 いつも体からむせかえる義鷹の香りは蘭の花の芳香。いつからその花を育て、愛でていたのだろう。それを聞いたら義鷹ははぐらかさずに教えてくれるのだろうか。
 胸が苦しく締め付けられて聞きたいことも聞けない。
――義鷹様
 すぐにでも声をかけたいのに、言葉が紡ぎだせなかった。
 蘭の存在を感じ取ったのか義鷹が振り向いて、驚きの眼差しをむけてくる。まさか蘭が本家にいるとは思わなかったのだろう。
 だが義鷹はすぐに冷静さを取り戻し、いつもの華やぐ笑顔を浮かべた。
「珍しいね、蘭が私に会いにここに来るなんて」
水をやる手を止めて義鷹はその場で蘭が来るのを待つ。蘭は早まる心臓の音を聞きながら一歩ずつ義鷹の居る場所へ歩んでいく。
 その距離はおよそ数歩だというのに、蘭にはまるで長い道のりのように思えた。
 義鷹の前に立ち、長身を仰いで瞳を見つめる。不思議と言葉はいらなかった。義鷹もなにも言葉を発することなく蘭を見つめ返してくる。
 数秒、そういう時が流れて蘭はようやく本来の目的を思い出す。
――聞きたい……義鷹の正体を
 蘭はたまらずに指輪を手で弄り、はやる気持ちを押さえながら口を開いた。
「……この指輪……義鷹様の家の家紋と同じ紋様なんです」
 蘭の言葉に義鷹は初めて虚を突かれたように目を見開く。その動揺は鈍い蘭にも伝わってくる。
「……そうなのかい……」
 義鷹はたったそれだけを紡ぎ出して、それ以上は蘭の期待に応える回答を教えてはくれない。
 斜陽に染まる義鷹の髪が赤く染まり、その美しい瞳に苦しげな色がよぎった。
――義鷹様が、あの時の貴族のお姉さんなんでしょうか?
――だから、私と会ってからもずっと大切に優しく接してくれたのでしょうか。
 それが本当なら全てが合点いくものだった。
 家族に久々に再会した時に、蘭が身売りをした夜から仕送りがなされ、仕事が決まったと聞いた。
 そんなことは、あの夜に拾ってくれた義鷹にしか出来ない。
 ――教えて下さい、義鷹様
 喉まででかかった言葉がなぜか出て来ない。
 言葉よりも蘭の瞳からは一条の雫が伝い、頬を滑り落ちていった。
――あの河畔で出会ったお姉さんなんですか
 何も言ってくれない義鷹に、蘭はただ涙を流すだけ。 
「蘭、泣かないでおくれ。お前が泣くと私も悲しくなる」
 義鷹の手が頬に触れ、こぼれ落ちる涙の粒をすくってくれる。あの時も優しく涙を拭ってくれた。
河畔で燃えるような紅の夕日が二人を染め上げ、蘭達は束の間を幸せを抱きあったまま語った。
 今も同じような夕日が空一面を照らし、世界を黄昏色に包む。
その中で義鷹の美しい顔が悲しげに揺らいでいた。
――時折見せる悲しそうな顔
 どこか苦しそうで、救いを求めているような表情。
――お願いですから、苦しまないで下さい
 見上げている蘭をそっと引き寄せた義鷹。
「蘭……」
悲しそうな声が頭上から降ってきたかと思うと、顎を優しく掴まれた。無理なく上向かされて義鷹の顔が落ちてくるのを見つめる。
――幼い頃に会った河畔と同じような情景だわ
 目を灼く落日の中で、陰影を落とした義鷹の顔を見つめながら、自然にまぶたは閉じられていった。
 重なり合う二つの影――
 そっと唇に落ちたのは――あの時に初めて交わした触れるだけの淡いキス。
 離れたかと思えば、すぐに義鷹の深いキスが重なった。それでも愛情深い優しいキスは蘭の心を溶かしていく。
――義鷹様っ!
 初めて抱き締めるように義鷹の手が、蘭の背中におずおずと遠慮がちに回された。
 長いキスが終わり義鷹は唇を放すと、蘭を腕に抱いたまま見つめてきた。
 悠久の流れのように時が止まった世界に身を投じる二人。
 蘭は答えを聞かずとも、変わらぬキスを受けて義鷹があの貴族のお姉さんだと確信する。
 それが苦しくて、切なくて――。なぜ、こんな風になってしまったのか。
 雪に出会わなければ、このままこの屋敷で義鷹と平和に暮らしていただろう。
 お互いに笑い合い、あの時の思い出を語り合い、蘭と同じ名の花に一緒に水をやる。そんな暮らしが安易に想像が出来た。
「義鷹様……」
 溢れる涙は止まってはくれない。胸がぐっと詰まる思いで悲しく義鷹の名前を呼ぶ。
――ずっとあなたは知っていたのですね  
 商人に買われて、料亭で助けてくれたのも偶然ではなかった。 
 あの頃からなんら変わらず、蘭のことを忘れることなく、心に想って、本当に迎えに来てくれた。
 貴族の戯言でもなんでもなく十数年も前から見守ってくれていた人。
――本当に約束を果たしてくれたのですね
 涙で夕日が揺らぐと、視界が滲んでいく。大事な今川家の指輪を渡してくれた義鷹。
――貧しくてもずっと、ずっと売らなくて良かった
 こうしてやっと出会えたのだから。
 物も言わず義鷹は蘭を抱き締める。初めは壊れ物を扱うようにそっとだったが、それは徐々に力強くなった。
「義鷹様っ! 義鷹様っ!」
 苦しいほどに抱き締められて、せきを切った想いが溢れてくる。
――暖かく優しい腕は何も変わってなどいない
下虜でも優しく接してくれた貴族のお姉さん。
それが義鷹だと知り、蘭は胸の中で声を殺して泣く。
 その蘭の頭を抱え込むようにかき抱き、義鷹も苦しそうに体を震わせた。
「義鷹様?」
 震える義鷹を見上げ、蘭ははっと目を見開いた。流麗な瞳から珠のような美しい涙が頬を伝い落ちている。
 義鷹が泣くのを見て、蘭は一層切なく胸を締め上げられた。
――泣かないで下さい、義鷹様
蘭はつま先を伸ばすとそっと涙を舌でなぞった。
 驚いていた義鷹はふと笑みを漏らした。
 そして聞こえないほどの囁きをこぼす。
『あの河畔の時と同じだね』
 蘭の心は打たれて、また涙が溢れてくる。
 河畔で初めて会った義鷹は泣いていた。女の人だと思い込んでいた蘭は、涙を、心の悲しみを拭ってあげようと、今と同じように流れた涙を舌で舐めたのだ。
――やはり、あなただったのですね。義鷹様
「義鷹様……ようやく会えた……どうして……今まで……」
――河畔で会ったと言ってくれなかったのですか
 十年の想いが舞い戻り、優艶に微笑む義鷹を振り仰ぐ。
「泣かないでおくれ……私の小さき姫」
 義鷹の涙で震える声が殊更切なくて。
 今度は義鷹が蘭のとめどなく流れる涙を舌で拭ってくれる。
 全てを知っていて、傍に置いてくれた義鷹。
 いつかは会えると信じていて、指輪を肌身離さず持っていた。
 それがとうの昔に願いが叶えられていようとは。
 この感謝の想いは伝えようにも伝えきれない。
「義鷹……私……なんて言ったら……」
 言葉を紡ごうとも、義鷹の指がそっと唇に添えられて首を横に振られる。
――何も言わなくていい
 そう義鷹からの気持ちが伝わって来て、口をつぐむ。
――ありがとうございます、義鷹様。私の愛しい貴族のお姉さん
 心の中だけで感謝の気持ちを込めて見上げると、義鷹にもそれが伝わったようだった。
お互いは涙を流しては少しだけ微笑み合うと、燃える夕日の中でもう一度だけ唇を重ね合わせた。

inserted by FC2 system