河畔に咲く鮮花  

第二章 十五輪の花 1:蜘蛛の巣に堕ちる日
 



 * * *
 

 
 蘭は家族との再会を果たして車に戻るが、義鷹の姿がないのを確認する。公人は思い詰めていたような顔をしていたが、蘭のネックレスにかかっている指輪に視線を流した。
「どうしたの、公人君? この指輪がなにか?」
 蘭は不思議に思い、指輪を公人に見せつける。
「はい、少し気になりまして。蘭様、失礼します」
 公人はスイっと手を伸ばし、指輪の裏側に刻まれた鷹の紋章を見つめた。そして眉をしかめて、軽く溜息を漏らした。
「なんか知っているの、この指輪のこと?」
 公人の表情が変わったことを蘭は見逃さない。公人はいつも人形のような無表情さなので、感情が少しでも現れるとすぐに分かるのだ。
「は、勘違いかも知れませんが、この家紋は今川家のものではと思いまして」
 公人の思わぬ言葉に蘭はえっと目を丸くした。この指輪は幼い頃に貴族のお姉さんから貰ったもの。
 河畔で泣いていた貴族のお姉さんと出会い、逢瀬を重ねて蘭にこの指輪を託してくれた。
 なのに、それが今川家の家紋とはどういうことなのだろうか。
「今川家には娘は居たのかしら?」
 蘭は首をひねり、その真意を測る。あの貴族のお姉さんは今川家の親戚の人なのだろうか。義鷹の屋敷では娘の姿は見たことがない。若い娘はメイドか蘭ぐらいなものだった。
「いいえ、今川家には娘はおりません」
 公人はあっさりとそれを否定し、ゆるりと首を横に振った。
「じゃあ、義鷹様の縁者の人とか……」
 ますます分からなくなり、蘭はうーんと首を傾げて宙を見据える。この指輪の紋章が今川家のものなら、すぐさま義鷹が気がつくはずなのに、なにも言ってはくれなかった。
 公人だけはなにかの真意に気がついたように表情を崩す。
「――もしかしてですが、この指輪をくださったのは――」
その途中で、公人の言葉は途切れた。義鷹がふらりと一人で歩いて戻って来たのを見つけたからだ。
「ねぇ、公人君、なんて言おうとしていたの?」
 蘭は振り向き、公人に続きを言うように促すが、それ以上は何も言ってくれなかった。
「蘭様、やはり今川様にはお気をつけ下さい」
 それだけを言い残し、言葉は終わり、公人は一歩後ろにさがると、義鷹にお辞儀をする。
「やぁ、蘭。みんなとは顔を合わせられたかい?」
 義鷹はにこりと微笑むと、蘭を車に乗るように促す。
「あ、はい。母と妹だけでしたが、父も弟も元気にしているそうです」
「そう、それは良かった。もう時期に日も暮れる。帰ってご飯をいただこうか」
 義鷹は満足したように頷くと、車に乗って自分の屋敷へと岐路を急いだ。
* * *
 

 家族と再会出来て機嫌良く義鷹とご飯を食べた後に、また大きく天気が崩れ、空に稲光が走る。
――さっきまで天気が良かったのに
 雷鳴が轟き、これからの未来を指し示しているような不安に駆られて、一瞬だが蘭の心は曇った。
 公人が言った言葉が引っかかり、指輪の裏を見つめる。
 そこには気をつけて見ないと分からないが、確かに鷹の模様が彫られてあった。
 その紋様になぜ今まで気がつかなかったのかと蘭は自己嫌悪に陥る。
 さっきまで開け放たれていた庭に、灯篭が置いてあったはずだ。
 そこに今川家の家紋が彫られてある。確認しようとしたが、障子は締められて、今日は見ることが叶わそうだった。
 もう夜も遅い。明日、家紋を確認することにして、蘭は敷かれた布団に身を沈めようとした。
 だが、雷鳴の中、廊下をどたどたたと駆け走ってくる音と、それを追う義鷹の声が聞こえてくる。
 何だろうと身構える蘭の部屋の襖が思い切り開かれた。
 そこには走って来たのだろうか、息を切らせたともの姿があった。
――え、とも君? どうしてここに……
 金髪の柔らかい髪は雨の雫を滴らせ、きっちり着こなした黒のタキシードからはすでに蝶ネクタイが外されていて、胸元が露わになっている。
 綺麗な笑顔で微笑むと、ともは自分の家に帰って来たように蘭の許しも得ずに部屋へ入ってきた。
「とも様、お待ちください」
 遅れて義鷹が珍しく息を乱して部屋へ入ってきた。何事かと隣の部屋で控えていた公人までもが竹刀を手に駆けこんでくる。
「ああ、雨水で部屋を濡らしちゃったね、ごめん義鷹」
 ともは余裕を持った笑みで振り返り、険しい顔をしている義鷹にそう言った。
「とも君、どうしてここに? それにその格好ってパーティでもあったの?」
 まだ事態が飲み込めずに蘭は呆気に取られてともを見やる。
「ねぇ、義鷹。君はもうさがっていて。ああ、その前に寝る時の浴衣を用意してくれる」
 ともは蘭の不思議がっている声にも気づかないのかまだ立ち尽くしている義鷹に命令を下す。
 御三家の一人、徳川家朝に逆らえるはずもなく、義鷹は苦虫を噛み潰したような表情で、分かりましたとゆるやかにお辞儀をした。
「それと風呂に入るから、そこの君、タオルを脱衣場に置いてね」
 ともは義鷹が立ちさった後を見届けて、茫然としている公人に視線を投げる。
「じゃあ、もう少し待っててね、蘭おねーさん」
 ともは無邪気に片目を瞑って、嵐のように部屋を去って行った。
 なにが起きているか分からずに蘭は首をひねるばかりだ。
 そんなことを考えていると、ともが風呂から出て来て用意された浴衣を着崩して蘭の部屋へ戻ってきた。
 蘭の目も気にせずにともはどかりと座って、傍に控えている公人に声をかける。
「もう、君もさがっていていいよ。蘭おねーさんと二人っきりにさせて」
「しかし……覇王に言われ蘭様のお守りするのは警護としての務めでありまして、ここを離れるわけにはいきません」
 公人は不穏な空気を読み取ったのか、珍しく意見をする。御三家の一人、徳川に物申すのも並大抵ならぬ度胸がいるだろう。覇王という言葉まで出して、ともをけん制する。
「ここに雪はいない。落ちぶれた貴族程度が僕に意見をするの?」
 ともの暗い声の響きに公人ははっと顔を上げて、驚きを顔に刻む。公人が落ちぶれた貴族、借金を負い蝶子に買われていることをともは知っているのだ。
「とも君、そんな言い方は――」
「蘭おねーさん、こんな奴の為にわざわざ義鷹相手に身受けを請いに来たの? 相変わらず優しいね。でも、隙だらけだよ。そのおかげで僕はこうやってすんなりと会いにこれた」
 ともの明るい顔とは裏腹に声は暗く沈んでいる。蘭は澄んだ瞳の奥に翳る執着した闇を見て取って体がすくんだ。どこか苛立っている声音には全てを知っている――そうともの心は物語っているように見えた。
――なぜだか、怖い
 ともは昔からやたら洞察力に優れて、なにもかもを見透かした瞳をしている。色んなことを瞬時に察し、鋭く射る。
 この容姿に騙されてはいけないのに、ついいつもの調子で接してしまう。なぜともが苛立っているかは分からない――いや、分かりたくもなかった。
「さぁ、僕の目が届かないところまで消えて。少しでも逆らうようなら、ここで永遠に起きられないようにしてあげる」
 ぞっとするような低い声に、蘭は困惑する公人に目で合図した。
――とも君、本気だ 
ここから公人を放さなければ、きっとともは命を簡単に断つだろう。小姓が一人いなくなったところで、雪からしてもなんの変わりはない。また新しく警護役で違う者を蘭につける。だけど蘭には心を許した身近にいてくれる存在、公人が必要であった。
「公人君……さがって……」
 蘭の心を分かってくれたのか公人は深々と頭を伏せて静かにその場を立ち去ってくれた。ほっと安堵の溜息を吐きだして、怖々とともに振り返る。
「やっと二人になれたね、蘭おねーさん」
 ぱぁと顔を輝かせてともは嬉しそうにはしゃぐ。張りつめていた場は一気に緩み、蘭はほぅと胸を撫でおろした。だけどそんな柔らかい空気は一瞬だけのことだった。
「今日はさ、何の日か知ってる? 僕の十七歳の誕生日」
 ともはにこりと微笑んで、ばさりと髪を掻きあげた。
 バリッと閃光が空に走り、ともの際立つ鼻筋を浮き上がらせる。
蘭の呼吸は乱れ、ともが言わんとする意味を瞬時に理解した。
「かたっ苦しいパーティで疲れたよ。うるさく纏わりつく女達を振り解いてここに来たんだよ? どういう意味か分かるよね」
 ともが少しだけ首を傾げて、蘭の顔を覗き込んだ。
――まさか、そんな……
 思い出したくもないのに記憶は鮮明な形で舞い戻ってくる。
「とも君……冗談だよね」
 喉の奥がひきつり、上手く声が出ない。顔も強張っているだろう。蘭の胸はざわめき、カッと光る稲光を背に笑うともを見た。
「覚えていてくれたんだね。あの時の約束」
 艶を帯びたともの瞳が近付いてくる。花見の次の朝にともが言い残した言葉が脳の中を駆け巡った。
――十七歳の誕生日に貰いにいくから
――覚悟してね。僕は惜しみなく君を奪う
そう言われたことを思い出す。冗談と思う反面、真剣な眼差しのともの目を忘れてはいない。
 蘭は初めて自分の愚かさを呪った。あのまま雪の屋敷に居残ればともがたやすく会いに来れることはなかったはずだ。今のこの状況は自分自身が招いたと言っても間違いではない。
「……でも、無理よ。とも君、知っているでしょ?」
 困惑しながら、じっと見つめてくるともをたしなめた。昔ならともかく、今は雪の――覇王の妻。
義鷹の言う通り、形だけの妻かも知れないが、国のトップの、しかも雪と幼馴染のともが手を出すとは考えられない。
 しかも義鷹やお付きの公人がいる前で堂々と。
「それに言ってたじゃない。御三家は女を取り合うなんてくだらないことはしないって。均衡が崩れるから」
 学園生活でのともの言葉を思い出す。
――僕達は女の取り合いなんてくだらないことしないよ
 蘭はそれを最後の頼みに引きあいに出した。
 それを聞いてともは、大きく肩を揺らして次には思い切り声を上げて笑いだした。
「くっ、あっはははははっ」
 なにがおかしいのか分からないまま呆気に取られてともを見る。目じりに溜まった涙を拭うと、ともは艶然に笑った。
「蘭おねーさん、すでに均衡なんて崩れているんだよ。これ、なんだと思う?」
 ともは携帯電話を取り出して、ボタンを押した。その瞬間、ざっと蘭の背筋に冷たいものが走る。
 暗闇で蠢く男が白い体の女に覆い被さっていた。蘭はそれを見せつけられて体を小刻みに震えさせた。






 





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