河畔に咲く鮮花  




 寝る時も公人は雪の命令を守り、蘭と同じ部屋で寝る。
 それからも毎日、公人は風呂場に現れては蘭の体を洗い流し、本当に忠実な犬のようにつきっきりの状態だった。
「蘭様、マッサージを致しますね」
 公人は蘭の体をマッサージするようなって、肩こりの蘭に取っては嬉しいことである。
 今も、蘭はいつものように椅子に腰かけ、桶の中で公人に足をほぐしてもらっている。
――公人君って優しい手つきだから気持ちいい
 足の甲やくるぶしをマッサージされて、蘭は夢うつつになる。
 ここまで忠実だと本当に犬のように見えてきた。
 だけどそれは雪が好きなので、守っている事柄だ。
 なにを言っても、覇王の為にと言う公人がどこまで蘭の言うことを聞くのか試したくもなった。
 そんな嗜虐的な部分が目覚めて、蘭は跪いている公人に声をかける。
「ねぇ、どんなことでも願いを聞いてくれるの?」
 そんなふとした疑問にも公人は顔を上げる。
「はい、私は蘭様の犬。なんでもお申し付け下さい。覇王にそう命令されました」
 ――また、覇王
 なにかある度に、覇王、覇王と言う。
「それって雪の為だからって聞こえる。公人君自身の忠誠の証が見たい」
 少し意地悪だったかなと蘭は人形のような公人の顔を見た。それを言われたところで公人は少しも動揺を浮かべない。
 感情のない無機質な瞳に見られて、蘭はたじろいだ。
「あ、やっぱり、嘘。冗談だよ」
 命令出来ない自分が情けなくなりながら肩を落とす。公人は足に視線を戻し、またマッサージを始めるかと思いきや、そっと持ちあげた。
「僕は蘭様の忠実な犬です。お望みのことがあれば何でも叶えて差し上げます」
 公人は自分の顔の前まで持ちあがると、次には蘭の足の親指を口に含む。
「――公人君!?」
 驚いて目を見開くが、公人のねっとりとした口腔内に指が含まれて、蘭は体が震えた。
「そ、そんな汚いところ、公人君が口に含んじゃ……んっ」
 公人の熱い舌が親指をちろりと転がす。
「あっ……公人君っ……」
あまりにそれが官能的すぎて、蘭は艶を帯びた吐息を漏らしてしまった。
 公人は相変わらず、無表情のまま親指を口内で舐め上げる。
 それを見下ろしながら蘭はどうすることも出来ずに体を預けた。
 公人の舌は想像よりも、熱く粘ついていて濃密だ。
 無表情で、無機質な瞳では舌も冷たく乾いたものかと、勝手な想像をしていたが、それは全くもって違っていた。
――公人君の口の中、あったかくて気持ちいい
 そのギャップが蘭の体の奥をじんと疼かせた。
 公人が舌を出して、親指や人差し指まで舐める。
 赤く蠢く公人の舌を見て、蘭の体は熱く火照ってきた。
 指の間まで舌を差しこまれて、粘着質のある粘りがなぞりあげていく。
「公人……君……んっ……」
 他の指にも移動して、公人は丹念に舌を動かし、舐め回した。
 蘭は足の指を舐められることが、こんなにも気持ちいいこととは知らずに、しばし甘美な世界に浸る。
 公人が指を口に含んで、引き抜く度にちゅぽんと音を出し、透明で粘り気のある糸が引かれた。
 ごくりと蘭は喉を鳴らし、その様を熱を帯びた瞳で見下ろす。
「蘭様、こちらの足も」
 公人が顔を上げると、その人形のような顔には、ぬらりと光る艶めいた唇。
 それが何ともいえずに、淫靡な雰囲気を醸し出し、蘭の情欲をぞくぞくと掻き立てた。
 「――も、もう大丈夫だから。ありがとう」
 じっと見つめてくる公人から、視線を無理やり引き剥がして蘭はさっと足を引き抜いた。
「蘭様に対する忠誠はこんなものではありません。もっと望みを言って下されば、なんでもいたします」
 公人は唇を舐めとることもせずに、その形のいい口元を動かす。
「ありがとう、十分に公人君の気持ちは分かったから」
 足元をもじもじさせながら、蘭はまだ粘り気ある指を曲げて、公人の舌の感触に浸っていた。
 そんな折に、蘭に客人が来たと伝えられる。
――誰かしら? 私にお客様って
 蘭は気まずい空気を切り裂くように、立ち上がると庭に出た。
 すぐさま公人も立ち上がり後をついてくる。
 庭には髪の短い女性の立ち姿。
 蘭はその人物が分からずに、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの、どちら様ですか?」
 そう声を掛けるとくるりと振り返り、ニカッと豪快な笑みを浮かべる女性。
「俺だよ、俺。忘れたのか? 白状だな。銀姫様だ」
 蘭は呆気に取られて、女性の服を着ている銀を見た。
 信じられないことに銀はスカート姿だったのだ。
「銀ちゃん? 嘘、どうしたの? その服」
「お前、久しぶりに会ったのに、突っ込むところは服かよ?」
 銀は相変わらずな快活さで太陽のように眩しい笑みを漏らす。
「蘭様、紅茶をご用意しますので、こちらにどうぞ」
 公人が気を利かせ、庭に簡易なテーブルを設置してくれた。
「あ、ありがとう公人君」
 蘭は銀と一緒にテーブルについて、まじまじと銀を見つめる。
「少し里返りしててな。ほら、土産」
 ぽんとテーブルに置かれたのは辛子明太子。
 首を傾げて見ていると銀は笑った。
「俺の実家は九州でな。これは九州でも一番うまい明太子だぞ」
 蘭は銀のくれた桐箱に入る高級な明太子を眺める。
「今、食べてみたいな」
 ぽつりと漏らすと、それを聞きとった公人がスッと歩み寄って来て、桐箱を開けてくれる。
「……こいつ、誰?」
 銀が呆気に取られて、公人を訝しげに見上げた。
「え〜と、護衛役の姉小路公人君。あ、こちらは立花銀ちゃん」
 お互いを紹介すると、銀と公人は少しだけ頭を下げる。
「男が護衛してんのか? よくあの織田が許したな」
 銀は目を丸くして、かなり驚いているようだ。そんなに雪のことを知らないはずなのに、どうしてそんなことを言うのか首を傾げる。
「お前、籠の鳥なんだな。世間から遮断されているなぁ。知らないのか? 戴冠式の後の婚儀は編集されて闇に消されてる。それでも噂を呼び、織田の花嫁の追求が世間では賑わっているぜ」
 銀の言葉に虚を突かれ、蘭は驚きに満ちた目を向けた。
「織田側が一切の取材拒否をして、蘭は謎の存在みたいになってる。でも実際は織田信雪が、蘭を男と一切会わせたくない為に、拒否しているって噂だ」
 蘭はそれを聞いて目をますます目を丸くする。まさか世間ではそんな風になっているとは夢にも思わないからだ。
「だから、俺もわざわざ女に戻って、会いに来たんだ」
 蘭はようやく銀が女性の格好をしている真意を知る。
「銀ちゃん、ありがとう」
 そこまでして会いに来てくれて蘭はじいんと胸が熱くなった。
「友達だろ、俺達は」
 銀はくしゃくしゃと蘭の髪を撫でて、豪快に笑う。
「蘭様、皿に取り分けましたから、どうぞ」
 そこに公人が皿に明太子を盛ってくれて、蘭は口に運ぶ。
「う〜ん! 銀ちゃん。おいしいよ、これ」
 蘭の喜んでいる姿を見て、銀も微笑ましく見つめていた。
「……蘭、あれから春や唯に会ったか?」
 銀がふと神妙そうに声のトーンを落とす。蘭はその名前を聞いてあのお花見の時を思い出した。
「う、うん。実は蝶姫の招待で二人が偵察に来ていたんだ」
「はぁ? 蝶姫?」
銀が大きい声を張り上げるので、蘭はシーと指を口にあてた。ちらりと視線を巡らせて、蝶姫の姿がないか確認する。
「大丈夫です。蝶姫はこの時間はお休みになられています」
 公人がすぐに答えてくれて、蘭はあまりの手際の良さにはあと頷く。
「そのぉ、第二花嫁候補? みたいな感じで居座っているの」
 蘭から聞いて銀は思い切り顔をしかめると髪をばりばりと掻いた。
「まだ諦めてないのか。覇王の嫁になりたがっていたもんな」
 銀は覇者でしか知らないような情報をぼやく。
「雪のことは好きじゃないの?」
「まぁ、本人よりまず家系に惚れてると思うぜ」
 そういう風に聞き蘭は少し拍子抜けしてしまう。あの蝶子が雪自身より織田の名前、覇王の花嫁の名称が欲しいとは。
 そう言えば政略結婚と聞いたことがあった。蝶子は雪が覇王でなければ興味を持たないということだろうか。
「とにかく、蘭に会いに来たのは春と唯が裏でなにかをしているらしい。気を付けなってのを伝えに来たんだ」
 銀が話を戻して春と唯の近況を聞く。蘭は春の言葉が思い出されて、どきりと胸を跳ねさせた。
 雪は溶けて春が来る――。
「銀ちゃんは、もうあの二人とは関係ないの?」
 立花家を復興させたい為に春と唯と一緒にいた銀。それが心配になってそれとなく聞いてみる。
「ああ、馬鹿なことは止めた。力で何とかしようなんて、誰かを傷つけるだけだ」
 銀がしんみり言うので、蘭も少し切なくなる。
「そんな顔をするなよ。だが、蘭は覇王の花嫁になったんだ。これから身の回りには気をつけろよ」
 わざわざ伝えに来てくれた銀に嬉しく思い、蘭は顔をほころばせた。
 それから銀の近況報告や色んな世間話をして、陽は暮れる。
 銀との楽しいひと時を過ごして、蘭は上機嫌にその日を過ごせることが出来た。
「良かったですね。お友達が訪ねてくれて。蘭様が嬉しそうに笑っている姿を見たら僕も嬉しくなります」
 公人が夕食後のお茶を淹れながら久々に可憐な笑顔を浮かべる。
 いつもは少し笑む程度だが、そんな顔をされたらどきりと胸が鳴る。
「公人君の笑顔って綺麗だね。品があるっていうか、柔和っていうか。やっぱり貴族の人は違う」
 お茶を飲みながら公人の顔をぶしつけに眺めた。
「蘭様には比べ物になりません。純粋な笑みは人を惹きつけます。それは時には眩しいほどに」
 公人はいつもの無表情に戻り、世辞の言葉を紡ぐ。感情が乏しいのか、蘭にはときに公人がなにを考えているかが分からなくなる。
 淡々と仕事をこなす、そんな印象しかない。
「じゃあ、公人君は偽りの笑顔ってこと?」
 公人の心が覗きたくて蘭は掘り下げる質問をした。
「はい、貴族としてのたしなみです。それが自然に身についているのです」
 あっさりと言われてはぁと蘭は頷くしかない。
「蘭様もそれがお望みなら、いつでも華やかな笑顔を浮かべていますが?」
 公人はくるりと首をねじり、無機質な瞳を向けてきた。
「……う〜ん。その無理な笑顔が演技っていうなら、別にいい。今の公人君で。気を遣うのもしんどいでしょ」
 蘭の答えを聞いて、またふっと和らぐ笑みを浮かべては、少しだけお辞儀をしてきた。
「ありがとうございます。僕は本当に幸せ者です。これからも犬として忠誠をお誓いしますね」
「そんなぁ……犬なんて。私のことは少しは知っているんでしょ? その、下慮だってこと」
 しりすぼみになって蘭は声を小さくしてしまう。それでも公人は何一つの驚きを見せない。人形のような顔は無表情のままだ。
「知っております。でも、それは関係ありません。蘭様は蘭様です。覇王があなたを閉じ込めるのも分かります」
公人の意外な褒め言葉を聞いて蘭は目を向ける。
「やっぱり、公人君は貴族だ。興味のない女にもそうやってお世辞言えるんだもん」
 公人はぴたりと止まり、蘭をじっと見つめた。やはり無機質な瞳。
 感情の見えない深い瞳は、まるでガラス玉のようで。
――やはり公人の心は分からない
 蘭では公人の気持ちを読むことは無理だった。
「蘭様、そろそろお風呂をいただきましょう。こんな時間です」
 公人はそれだけを言って、先に風呂場へ歩いて行った。
 もう日常的になっている蘭はそんなに公人の前で裸になることも躊躇わなくなる。
 本当に感情のない人形――そんな感覚だ。
 毎日、同じように無機質な瞳で蘭の裸を洗い、無感情な反応。
 魂も心のない人形を相手にしているようで、お風呂の時などはそれが有り難かった。






 





67

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next /  back

inserted by FC2 system