河畔に咲く鮮花  





 その強烈な存在感は、春が望まずにも反対勢力の頭に持ち上げられていく。唯が今更、止めろといってもその足は止まることはないだろう。

 ――それでも、お前は進んで行くんだな

 その生き方の全てが不器用すぎて、肩に大きなものを背負って歩いて行く春に胸が打たれる。

 ――そう決めたなら、もう泣くな

 春の泣き顔など見たくなかった。そんな悲しい表情は唯にとっても辛いものだ。
「泣くな――唯」
 振り向いた春が僅かに口元を動かして、それだけを囁いた。
「え……?」 
「お前が泣くと――俺も辛い」
 沈む表情の春が滲んで見えて、唯は無意識に指を頬にあてた。 
 月明かりに濡れた指先を見て、唯はようやく理解した。
 桜の下で泣いていたのは春ではない。

 ああ、桜の下で泣いたのは――俺の方だった。

 いつも、いつも寂しげに佇む春の背中を見て、心を痛めていたのは唯の方。
 春を見て泣いていたのは、唯の心だった。
「二十四歳にもなって、べそかくとはな」
 春が不敵に笑って、意地悪な言葉を投げてくる。唯は慌てて涙を拭うと、恥ずかしくて顔を俯かせた。
「唯――これを持て」
 下げた視線に赤い盃が映る。注がれた酒の表面が揺れて、映し出された月がぐにゃりと歪んだ。
 それがまるで愉快げに笑っているように見えて、唯は思わず盃を手に取ってしまう。

 ――月まで俺を笑っているのか? 愚かな奴だと

 春に突き放されて、協力も出来ない唯はむっと顔をしかめて顔をあげる。
 その上、めそめそと泣いてしまい格好がつかない。桜の下でいつも泣いていると思っていた春の方が実は唯より強かった。
 ――そのぐらい、お前の気持ちは強いものなんだな
 春の覚悟を再確認して、唯は盃を持ったまままっすぐに見つめる。

 ――こんな弱い俺は春にとっては邪魔になるだけであろう。それでも俺は――

 唯は春の強い視線を真正面から受け取り、決意を固めた。
「春、お前が俺を必要としなくても、絶対について――」
「俺についてくるか?」
「だから、俺は反対されても……えっ? なんて言った?」
 春の言葉が信じられなくて、唯は思わず聞き返してしまう。
 春はふっと微笑して、意地悪く目を細めた。

 ――あ、また笑った

 春は心から笑む時は、少しだけ目尻が下がる。心を惑わせる、その妖艶ともいえる笑顔を何人の者が見られるであろう。
 それを見ただけでも唯は得した気持ちになる。
「愚図め、一度で理解しろ。俺についてくるか、唯」
「え、それって……」
 愚図というすぐにきつい言葉が飛んでくるが、唯は思わぬ問いかけに間抜けにも口が開いてしまう。
「唯――これからは苦しい道になる。それを分かって、俺について来てくれるか」

 ――なんだよ、その不意打ち。また、泣きたくなる

 じわりと目頭が熱くなり、これ以上馬鹿にされたくない為に慌てて涙を引っ込めた。
「お前が必要なんだ、唯」

 ――馬鹿やろう、それ以上言わないでくれ

「だから――泣くな。泣き虫」
 春は笑いながら自分の盃を天に掲げた。
「これは誓いだ――俺たちの友情とこれからの長い道に」
 月明かりで誓いを立てる春が滲んでいき、唯は同じように盃を空高く掲げた。
「今日は飲め。そしてたくさん泣いてすっきりしろ。俺も今日は泣く――」
 そう言った春の瞳の表面は波のように揺らいでいた。 
すーっと落ちる一条の雫は、幼少の頃に見た涙と変わりがなく、美しかった。
 桜の下で涙を流し、浄化している姿は何かの儀式のようで。

 ――そうやって、気持ちに整理をつけているんだな

 春がひっそり泣いていたのは、悲しくて辛いからじゃない。 それが分かると、一層悲しくなって唯の瞳からは涙が溢れる。

 ――もう、悲しいから、悔しいからといって声をあげて泣くことはないんだな、春

 涙を流して浄化することによって、溜まったものを洗い流している。泣くのはたったそれだけのこと。
 そこに感情はないのだ。
 春はただそれを機械的に実行しているだけだった。

 ――感情は閉ざされ、心も凍ってしまったんだな、春

 機械的に涙を流す春を見て、唯は変わりに泣いた。

 ――お前が心から泣けないなら、俺が泣いてやろう

「唯――泣きすぎだぞ」
 春は驚いたのか、自身の涙は引っ込んでいく。くしゃくしゃな顔をして泣く唯を見て呆れているだろう。それでも唯は悲しくてたまらなかった。
「俺が泣いているんじゃない。お前が泣いているんだ――そうだろう、春」
 唯がそう突きつけると、春ははっと目を見開いた。そして、すぐさま綺麗な顔を崩す。
「阿呆か……お前は……正直すぎる……だがそういう馬鹿なところも俺は好きなんだ……」
 春が月を背ににっこりと笑った瞬間、瞳からぽろぽろと真珠のような涙がこぼれ落ちた。
 その涙が盃の酒にも落ちて、表面が揺れる。

 ――ああ、ようやく心から泣けたんだな、春

 涙を受けた酒は、春の感情を乗せたように波紋を広げていく。

 ――そう、泣きたい時は泣けばいいんだ。心から

 春からとめどなく溢れる涙が――殊更美しく唯の瞳に映り、また見惚れてしまった。
「熱い視線で見るな。気持ち悪いぞ、唯。俺にそっちの趣味はない」
 冗談げに笑う春は一層綺麗な笑みを浮かべて涙を流す。

 ――笑った顔もいいけど、本当に語りあい泣くのもいいもんだな

「俺だって、そういう趣味は無い」
 珍しく唯は春に対して口答えをしてみる。

 ――だけど、心から誓おう。春が、その綺麗な微笑みを浮かべてくれるなら俺は、地獄までついていこう

「止めとけ――俺は地獄までお前の顔は見たくない」
 唯は心を見透かされて何度も目を瞬いた。春は鋭すぎるところがある。洞察力も長けているが――。
「お前は分かりやすい」
 その一言で唯は納得してしまう。確かに何でもすぐに表情に出る。      
「じゃあ、天国ならいいか」
「阿呆か、天国でも同じだ」
「春がなんといっても、俺はどこまでもついていくからな」
 唯が引かないと分かったのか、春はいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ、とことんついて来い」
 春は涙の混じった酒をぐいっと一気に飲み干した。
「ああ、どこまでもいってやるさ」
 唯はようやく笑顔を取り戻すと、酒をぐっと飲む。
 涙が混じった酒は塩辛くて少しだけほろ苦かった。
 それでも、唯の胸は暖かくなり春の大好きな桜を振り仰ぐ。

 ――俺もついて行こう。今度は笑顔で桜の下に立てることを夢見て

  唯は春と肩を並べて、もう一度誓う。
  これから先にどのような道が待っていても、春の全てを見届けようと。

 ――そして、何度も巡る凍てついた春という季節を越えていこう

  春にとって、最も好きで嫌いな桜の咲く季節。
  自分が殺したと思っている母を失った瞬間から、凍えた季節になってしまった。
  それがいつかは暖かくひだまりのように変わる日が来る。
  唯は春の心の氷が溶ける未来だけを思い浮かべた。

 ――そう、春に知られないように胸に秘めて、これからも一緒に歩いて行くことを決めたのだった。
  
 
 


        特別編:桜の下で泣いたのは《唯の視点》 end






 





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