河畔に咲く鮮花  




 「……蘭は色んな上流階級の者から口説かれる立場になったんだな」
 一人だと思っていたのに、急に後ろから声をかけられハッと身を硬直させる。
 強引に春に連れられてといっても、さきほどの様子を見ている者にとっては密会をしていると勘違いされてもおかしくはない。
 驚いてその人物に振り向くと、蘭は時間も忘れて止まってしまった。
「そんなに驚くなよ。蘭、久しぶりだな」
 視界を遮るほどの桜吹雪の中で、にこりと艶やかに笑う蘭のお兄さん的存在、明智光明がそこに佇んでいた。
 同じ下慮の身分の光明、蘭が身売りをすると言って別れを告げたまま会えなかった。
 その光明が目の前にいて――あの時といや、あの時よりもっと艶やかになって目の前にいる。
「――お兄さんっ!」
 蘭の目がまん丸になると、光明はおかしそうにぷっと怜悧な表情を崩して吹き出した。
「な、なんで、どうして? お兄さんが?」
 蘭がわたわたと手足を動かせていると、光明に寄って来る貴族の娘の姿がある。
「済まない、昔馴染みと話しているから後で行く」
 いかにも品のよさそうな貴族の娘にそう言って光明は優雅に蘭に歩み寄って来た。
 蘭はこのような光景が過去にあったとふと思い出す。
 下虜街でも光明はよく上流階級の娘を連れて遊んでいた。
 なるほど、今もそれは変わらずに進行している為、光明は誰かの招待で、覇者の屋敷だというのに足を踏み入れることが出来たのだろう。
「実は蝶子様とも顔見知りでな。まぁ、知りあいの貴族の娘もいるし、蘭にも会いたかったから来たんだ」
 蝶子とも知りあい――そう聞いて蘭の胸はざわめき、自然に顔をしかめた。蘭にとって一番知りあいであって欲しくない人物。
 なにかと蘭を貶めて雪から離れるよう、邪魔をする。
「こんなところで奥方が一人でいるのはよくない。あっちへ戻ろう」
 光明はスッと蘭の頬に優しく手を添え、じっと顔を覗きこんできた。
 蘭は次に光明からされることに気がつき、ハッと身を硬直させる。

 ――無機質な挨拶のキスが降ってくる。

 それが分かり、蘭はやんわりと光明から一歩退いた。
 光明は驚いたように目を瞠るがすぐさま軽く溜息を吐き出す。
「そうだった、蘭はもう人の奥方だ。悪かった」
 光明はぱたんと手を下ろすのを見て、蘭は安堵の息を吐く。
 優しく微笑む光明と昔の会話に花を咲かしながら、雪の元へのんびりと戻って行く。
 一番気にしていた家族のことを聞いてみると、蘭が家を出てから仕事が舞い込み、安泰しているという。
 蘭からも少しばかり仕送りはしていたが、仕事が見つかったと聞いてほっと胸を撫で下ろした。
 光明と歩く度に、貴族の娘や覇者の娘が視線を投げて来る。
 下慮という立場も凌駕するほどの艶やかさは毒のように女性を虜にする。
 相変わらずだと感心しながら、蘭は雪の元へ無事送り届けられた。
 雪はスッと鋭い目を蘭と光明に向けると、不機嫌そうに口元を歪める。
「……誰だ、こいつ」
 ぶしつけな言葉を放ち、雪はじろじろと光明を頭から爪先まで眺め回した。
「お初にお目にかかります。俺は蘭とは幼馴染の下慮でございます」
 光明は覇王である雪に臆することもなく、下虜とは思えぬ堂々とした挨拶っぷりを披露する。
「下慮?」
 雪はそれを聞くと、形のいい眉をぴくりとしかめて、不機嫌そうに目を細めた。
「はい、明智光明と申します」
 その名前を聞いて、ざわざわと周りが騒ぎ始めた。明智家はどうやら覇者の間では禁句の名前のようだ。
 不穏な空気が痛いほど肌をひりつかせ、蘭の胸の鼓動は早くなる。
 雪の持つ杯にグッと力がこもり、なみなみ入っていた酒がこぼれ落ちると、敷物に水玉を作っていった。
「……下慮がなんで覇者の屋敷に入れる?」
 ぴりぴりとした肌を刺す重い空気が辺りを覆い尽くし、蘭は胸騒ぎを覚えた。
 雪の気性の荒さは蘭と結婚したからといって、変わったわけではない。
 不機嫌を増す雪の体から放たれる怒気は、息が詰まるほどの威圧感をみなぎらせていた。
「色んな毛並みのよい姫様達に飼われておりますので。それに連れられたただの散歩でございます」
 光明は自分を貶めるようなことを平然と言い、周りの姫達をどっと湧かせた。
「……ふん、女どものペットか」
 その答えに雪がようやく怒りを抑えるが、皮肉気な言い様に蘭はいささか顔をしかめる。
 幼馴染のそれも兄と慕っている光明を馬鹿にする態度には腹が立つものだ。
 雪の蔑みを含む笑いは光明を貴族や覇者の娘相手の男娼と卑下しているもの。
「雪……そんな言い方はよして。お兄さんはペットなんかじゃない」
 蘭が光明の肩を持つとは思いもよらなかったのだろう。雪はすぐさま怒気をその鋭い瞳に刻むと、蘭を睨みつけた。
「お前、どっちの味方だ? 下慮で女達のペットの肩を持つのか?」
 機嫌が悪いのか雪は顔をあからさまにしかめると、すぐに視線を光明に戻した。
「……蘭、いいんだ。私はペットなのだから」
「……お兄さん……」
 光明の悲しげに漏らす言い様に蘭は肩を落とす。そんな風に光明が自分自身を卑下する姿を見たくなどなかった。
 蘭にとっては血の繋がりがなくとも、小さい頃から自慢の兄と思っているのだから。
「じゃあ、蘭、俺は飼い主の元へ行くよ」
 あくまでその態度を崩さずに光明は一つ笑うと、蘭の手を持ち、その理知的な薄い唇を落としてくる。
 蘭の手の甲に、光明の熱を帯びた唇が押し付けられる――それも雪の目の前で明け透けに。
 それには蘭も驚いて、光明に手をもたれたままその場で固まってしまった。
「てめぇ、下慮の分際で、俺の女に手を出すんじゃねぇ!」
 雪は蝶子から酒瓶を奪い、怒りを全身に刻みつけると、ばしゃっと派手に光明にかける。
「――お兄さんっ!」
 蘭は驚き、口元に手をやるが光明はこともなげに、その酒をぺろりとなまめかしく舌で舐めとった。
 そして何も言わずに立ち去ろうとする光明に頭にきたのか、雪は傍で控えていた典子の腰から刀を奪い、すらりと抜く。
「覇王を冒涜する気か? ここで死にたいのか?」
 きゃああっと娘達から甲高い悲鳴が漏れ、辺りは騒然とし始める。雪の激昂に蘭も驚いて、全身から血の気がざあっと引いていった。
「これは失礼しました。覇王様」
 光明はその場にスッとひれ伏し、優雅ともいえる仕草で土下座をした。綺麗な額を平然とした様子で、乾いた土につけ服従の証を見せつける。
「お、お願い、雪。もういいでしょ? 許して」
 本当に雪が斬り捨ててしまうのではないかと思い、蘭は必死で袖を引っ張り顔を窺う。
 蘭は雪の顔を振り仰ぎ怒りが解けるのを待った。ようやく雪は気が落ち付いたのか、刀を典子に返し、どかりとその場に座る。
「蘭、酒を注げ。そこの下慮は二度と蘭に近づくな」
尊大な態度にも光明は了承しましたと小さくそれだけを答えて、その場から立ち去っていった。
 蘭はその背中を見送りながら、まだどきどきと騒ぐ胸を抑え、雪の気が変わらないうちに酌をした。
「雪様、蘭」
まだ重い空気の中、何も知らない義鷹がタイミング悪く現れて、約束通りに蘭に上等な着物を献上してくる。
「義鷹様……こんなにたくさんいただくのは……」
 蘭が思ったよりも義鷹は豪華な着物を何着も用意し、その上煌びやかな宝石までプレゼントしてきたのだ。
「蘭、受け取るな。お前が隙があるからつけこまれるんだ」
 義鷹を目の前にして、受け取るなとはっきり言った雪は酒をぐいっと喉に流しこみ、じろりと睨みつける。
「……義鷹、お前もなにを考えてる? 着物をやるとは、貴族の間ではその女を脱がしたいから献上するものだと俺は知っているんだぞ」
 雪の物言いには明らかな棘が含まれており、義鷹をその場で堂々とやじった。
 貴族の者も多く出席している中で、その態度は義鷹にも悪いと思い蘭はすぐに助け舟を出した。
「雪、違うの……私が、不注意で水に濡らして、それを見かねた義鷹様が気遣ってくださったの」
 蝶子に池に落とされたとは言えずに、蘭は当たり障りない言い方でそう誤魔化した。
 蘭が味方をしたのが気にくわなかったのか、雪は義鷹から着物を強引に取り上げると、地面に放り投げて、そこに火を放った。
 あっという間に燃え盛り、義鷹が献上してくれた着物とその想いが無残にも灰と化していく。
「なんてことをするのっ!」
 蘭は目を剥いて慌てて駆け寄るが、火の勢いが激しくて止められない。
 その上、春から耳に挿された桜の花ももぐように取られると、一緒に火にくべられた。
「あっ!」
 蘭が声を上げた瞬間に、桜の花を咲かせた枝木は原形をとどめないほどに燃え尽きていた。
 全てが燃えて灰となり、焦げ付いた炎が鼻をつくと蘭の心も悲しく沈んでいく。
「蘭、いいんだ。私が無節操だったのだ」
 義鷹は燃えて灰となる着物を見ながらそう悲しそうに呟いた。
 その表情を見ただけでも、蘭の胸には痛みが走る。
 そこまでしても雪は感情を抑えられないのか、怒気を孕ませた口調で花見の客たちに向かって言い放った。
「花見はお開きだ! もう今日はこれで終わりだ!」
 雪は吐き捨てるように言うと、ばっと身を翻してその場を退出する。
 どすどすと音を立てて屋敷内へ戻って行く雪の背中を見て、蘭は長い溜息を落とした。

  ***


 それからすぐにお花見は終わりになり、蘭と雪は珍しく別々に寝ることになった。
 まだ雪のお怒りが解けていないようで、蘭は寂しく一人で寝ることになる。
 布団に潜りながら蘭は今日の花見のことを思い出し、静かに溜息をこぼした。
 少しはましになったと思ったのに、雪の横暴さは相変わらずで、むちゃくちゃであった。
 しばらくは蘭と二人で幸せに暮らしていたのに――なんでこんなことになったのだろうと蘭はもう一度深い溜息を吐く。
 いくらなんでも、着物を燃やすなんて、ひどすぎる。
 義鷹の悲しそうな顔を思い出し、悪いことをしたと肩を落とした。
 今度会った時は謝ろう――そう思いながら蘭は明日になれば怒りも解けていることを期待して静かに目を閉じた。





 





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