河畔に咲く鮮花  





 それには蘭も驚き、はっと顔を上げる。
 蝶子の瞳に残酷な色が一瞬刻まれ、赤く塗られた唇がうっすらと弧を描く。
「まっ、それは良きことですわ。あなた達、手伝ってさしあげて」
 蝶子は嬉々として声を上げて、メイドについと視線を巡らせた。
 メイド達はくすくす笑いながら、蘭を両脇に抱えて無理やり庭へ下ろした。
「やっ、放して下さい!」
 蘭は慌ててメイド達に言うが、ずるずると引きずられ、池の縁に立たされる。

 ――嘘でしょう

 メイド達に押さえつけられた蘭は恐ろしさに足がすくむ。
 堀池の揺れる水面がまるで笑っているように見えて、それがなおさら恐怖を冗長させる。
 この池は底が深く、足が立たない。
 泳げはするもの、蘭は着物を着ている。
 このまま入れば、重さに耐えきれず溺れることは目に見えていた。
「放して下さい!」
 必死に懇願して体をねじるが、無情にもどんっと蘭の体は押されてしまう。
「いやっ!」
 空を掴むように腕を伸ばしながら――蘭は堀池へ落ちていく。
 ざぷんっと勢いよく波を立て、蘭の体は冷たい池に沈む。

 ――そんなっ、誰かっ助けて!

 すぐに足をばたつかせ、なんとか顔を上げるが、着物がどんどん水を吸いこみ、蘭の体をずるずると池の底へ引っ張って行った。
 それでも何とか体をばたつかせて、水面に顔だけ出す。縁側に立っている蝶子が視界に入るが助ける気は全くないらしく、笑い声を上げている。
 それを見て蘭はぞっと背筋を凍らせた。
 蝶子は助ける気などなく、そのまま蘭を見殺しにする気だと。
 このまま憐れな事故死にされて、邪魔な蘭を殺してしまう。

――それだけは、嫌 

 ここで殺されるわけにはいかずに、蘭は必死で足をばたつかせるがそれも無駄なあがきだった。
 水が口内に入り込み、空気を奪っていく。
 蝶子の笑い声を遠くに聞きながら、蘭の体は池の底へ沈んでいった。

――雪、こんな終わりは嫌。もっとあなたと一緒にいたかった

 嘆き悲しむ蘭は遠ざかる意識の中で、こぽこぽと口から出る気泡をぼんやりと眺めた。
 最期に見たのが蝶子の残酷に歪んだ赤い唇――
 それを思うと切なくなり、このような無常な人生を呪ってしまう。

――ごめんね、雪。

 朦朧とする視界に真っ直ぐに泳いでくる人物が目に入った。
 長い髪がゆらゆら水の中に揺れて美しい。

 ――誰? 

 その人物の手が伸びてきて、ぐっと腕を掴まれた。

 ――優しくて力強い手――

 霞む視界の中で、その人物は蘭の体を抱えると一直線に水面へ泳いでいく。
 ぷはっと蘭はその人物の脇に抱えられたまま水面に顔を現した。
 急速に空気が肺に入り、蘭はげほげほと大きく咳き込む。
「蘭、大丈夫かい?」
 そう優しく声をかけてくれたのは、義鷹。

 ――この声は義鷹様なの?

 蘭は目を丸くして、水に濡れた麗しい男の顔を見つめた。すぐに池から引っ張り出されて、義鷹が蘭の髪を横に撫でつけ、顔を覗きこんでくる。
「蘭っ、分かるかい? 私だよ、蘭? 分かれば頷いておくれ」
 義鷹に言われて、蘭はゆっくりと頭を縦に振った。
「ああ、良かった。私が来るのが遅かったら……」
 そこまで言って義鷹はくるりと首をねじり、縁側の上で高みの見物をしていた蝶子を見やる。
「これは一体、どういうことでしょうか、蝶子様」
 義鷹の顔から光がすうっと消え、いつもと違った低い声が発せられる。
「私がここを通った頃にはすでに池に落ちていましたの。そこにあなたがいらして、助けたのですわ」
 蝶子はあくまで事実を隠し、そうでしょとメイドにも声をかける。
 メイド達は蝶子の言う通りだと口裏を合わせた。
「……蘭、本当のことを言っていいんだよ」
 義鷹が視線を戻し、蘭の顔を覗きこむ。
「まっ、今川の若様は私を疑うと言うのですか? 私は覇者の娘ですわよ。あなたより位の高いということはご存じですわよね」
 蝶子は貴族より位の高い覇者という立場で義鷹をたたみかけようとする。
「……私が政の一部を担っているのはご存じでしょう。不正が行われない為に、貴族として中立の立場で裁く。その権限を雪様から与えられている……よもやそれをお忘れではないでしょうね」
 義鷹とは思えないほど冷えた声が発せられ、周りの温度が何度かさがる。
 急にぴんと張りつめた空気が辺りを包んだ。
 息が詰まるほどの重圧感に蝶子はごくりと唾を飲み込む。
 メイド達も怯えを顔に刻み、そろそろと堀池の回りから退き始めた。
「私の目が黒いうちは、なんぴとたりとも許しはしない」
 義鷹の瞳に怒りが混じると重苦しい空気が一段と密度を増した。義鷹の殺気にも似た視線が蝶子を真っ直ぐに射抜く。
 蘭はぴりぴりと肌を刺す痛みで、義鷹の全身から発せされる怒気を感じ、ぶるりと背筋を震わせた。
「い、行くわよ……あなた達……」
 蝶子は脅えを瞳に刻んで、視線をもぎ離すように逸らすと、そそくさとその場を逃げ去る。  
 蝶子達が立ち去った後で義鷹は蘭に振り返り、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

ふっと張りつめた空気は緩み、柔らかな感覚が戻ってくる。
「……義鷹様……どうしてここに?」
 蘭はようやく落ち着いて、義鷹がこの場にいることを不思議に思い、問いかけた。
「……蘭、知らないのかい? お花見が行われるんだよ。この屋敷でね。私はそこに出されるお菓子を届けに来たのさ」
 義鷹がちらりと視線を投げた先には、泥まみれになって散乱している粉々のお菓子があった。
「ご、ごめんなさい。義鷹様。私を助けてお菓子がっ!」
 蘭は慌てて立ち上がり、お菓子を拾い集めようとするが、腕を掴まれ止められる。
「お菓子などまた買えばいい。それより、蘭の身なりを整えないとね」
 義鷹がまじまじと見つめて、蘭の全身を眺めまわした。
 池に落ちて、水に濡れているし、藻が引っ掛かり散々な出で立ちである。
 急に恥ずかしくなり、蘭は体に付着している藻を手で取り払った。
「私もお風呂を借りるとして、雪様の洋服でも着よう」
 義鷹は蘭の手を引っ張って屋敷へあがり、風呂をそれぞれいただく。
 落ち付いたころに義鷹が洋服姿で現れる。
 着物しか見たことなかった蘭にとってそれはとても新鮮なものだった。
「どうしたんだい、蘭?」
 義鷹はにこにこと微笑み蘭の部屋に入ると、静かに腰を下ろす。
「義鷹様の洋服姿なんて初めてで……ちょっと感動です」
 世辞など言わずに純粋に思うことを伝えると義鷹は楽しそうに笑った。
「蘭は相変わらずだね。覇王の妻となったのに、尊大なところが一つもない」
 蘭は暗に妻としての威厳がないと思われたと思い軽く肩を落とす。
「蘭、けなしているわけじゃない。褒めているんだよ。ああ、あの着物はもう着れないね。そうだ、私がお花見の時に新しいのをプレゼントしよう」
 義鷹の提案に蘭は慌てて断りを入れる。義鷹のせいで着物が駄目になったわけではないのに、そこまで気遣われては悪い。
「蘭、そういう時はありがたく受け入れるものだ。分かるかい? 私は蘭だからプレゼントしたいんだよ」
 相変わらずの紳士ぶりに蘭はどきどきと胸が高鳴る。
 ここまで蝶や華よとちやほやしてくれると嬉しいものだ。
 いつまでも変わらず優しくしてくれる義鷹に少しでも恩を返したい。
 何かないかと考えていたら、ふと思い浮かぶことがあった。
「わ、私、お茶を習っているんです。義鷹様、飲んでいただけますか?」
 生粋の貴族の義鷹の口には合わないかも知れないが、助けてくれたお礼に蘭はお茶をたてることにした。
 茶室に足を運び、たどたどしい手付きでお茶をたて、義鷹に渡す。
 義鷹はそれを飲み、おいしいと頬をほころばせてくれた。
 蘭はほっとして、義鷹を見つめる。
 こうして二人でいると義鷹と一緒に屋敷で過ごしていたことを思い出し、どことなく安堵感が心を満たしていった。
「蘭もすっかり淑女になったね。それに見違えるほど綺麗になった。蕾が開いて咲き誇る華のようだ」
 義鷹の甘い囁きに蘭はぽっと頬を染める。流石は貴族だ。
 こんな世辞は雪でさえ囁けない。
「そ、そんなことないですよ。服や化粧でそう見えるだけです」
 蘭は謙遜してぱたぱたと手を横に振る。それを嬉しそうに義鷹が見つめ、ふいに会話は途切れると静寂が茶室を包む。
 義鷹の瞳に熱を帯びた潤いを見て取って、蘭はどぎまぎと胸を高鳴らせた。
「あ、あの。私……そろそろ……」
 蘭は立ち上がり、茶室の片づけをする。
「ああ、私もお菓子を買いに行かねばね」
 義鷹も空気を察したのか、スッと立ち上がり、蘭に別れを告げた。
 久しぶり会って別れることに名残惜しさを覚えたが、またすぐにお花見で顔を見れる。 
 そう思って、蘭は義鷹の後ろ姿を見送った。






 





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