河畔に咲く鮮花  

第二章 十輪の花     1:堕ちた楽園



 * * *

 時は怒涛のように過ぎていった。
 蘭が初めて義鷹に救われて、すでに二年近くこようとしていた。
 蘭ももうじき二十歳になってしまう。それまでに色んなことがあったが、蘭は苦労もなく幸せに過ごす。だが、まだ蘭はこれから大きな不幸が訪れることを知らなった。
 大分結婚生活にも慣れ始めた頃に、幸せな楽園に土足で踏み入れる者がやってきた。
 穏やかに過ごしていた蘭の目の前に現れた悪魔の使者。
 それは、あの――蝶子であった。
 ――なんの、騒ぎ?
 離れの屋敷にどたばたとメイドやお付きの者を何人も引き連れて、雪と蘭の住む花園を壊しにやってくる。
 蘭は何事かと呆然とその様子を見ているが、蝶子達のメイドは荷物を運び込んでいた。雪に行きさつを聞こうと思っても、また会合が入り、夜遅くまで帰っては来ない。
 蘭は語学学習の途中だというのに、講師を放りだして蝶子の前に立った。
「あら、お久しぶりですわね」
 蝶子は以前より艶やかさが増し、美しさに磨きをかけたように見える。
 後ろにメイドを引き連れて、蝶子は蘭の姿を上から下まで眺めまわした。
 蘭の胸はざわめき、何事かと蝶子の顔を見た。
「蝶姫、ここに何のご用ですか?」
 蘭は蝶子の威厳に満ちたオーラに、少したじろぎながら用件を問いただす。
 すると蝶子はくっと艶を帯びた唇を上げて蘭をまっすぐに見た。
「私もこちらに住まわせてもらいますの」
 突飛なことを言う蝶子の顔を訝しげに見るが、本人は本気のようだった。
「……それは……一体どういう……」
 蘭は不可解な顔をして、蝶子の様子を窺った。
「簡単ですわ。覇王足る者、一人の妃だけで終わると思っていましたの? 世継ぎのことを考えると、何人も娶るのが覇者の世界ですわ」
 蝶子の言葉を聞いて蘭はざっと全身から血の気が引いた。
――側室。蝶子は第二の花嫁として、ここに来たのだ。
 蘭の顔がみるみる青ざめるのを見て、蝶子はもう一度にやりと不気味な笑みを浮かべる。
「そ、それは……雪も……了承しているんですか……?」
 蘭の精一杯の問いかけに蝶子の形の良い眉がぴくりと動く。
「私は雪様のお父様からの了承を得ています。これは雪様の為でもあるのですわ。この蝶子の家を敵に回すなど、愚かなこと。全国にどのくらい反勢力があると思いまして?」
 蝶子に意地悪く質問されて蘭はぐっと言葉を詰まらせる。
 最近、雪が忙しそうにしているのは、反勢力を鎮圧する為に会合していることを知っていた。
 蘭には心配するなと言ってくれたが、やはり苦しい状況なのだろう。
 雪の父は蝶子を取りこむことで、反勢力の家も制圧しようとしているのだ。
 蘭如きが嫁いだところで、何も織田家に与える恩賞はない。
 ――それは分かっていたこと
 それでも蘭は釈然としない。蝶子が来るなど、蘭にとっては地獄だ。
 色鮮やかに見えていた幸せな楽園が、急に色を失った気がした。
 楽園が堕ちてしまう――
 不安にざわめく心を抑え込みながらも、蘭は蝶子を見つめていた。
 蝶子はその視線を真正面から受け取り、艶やかな瞳を細める。
「雪様のお役に立てるのはこの蝶子。それをわきまえなさい、下慮」
 久々に下慮という言葉を突きつけられて蘭ははっと目を瞠る。
 蝶子はくすりと蔑む笑みを浮かべると、勝手に部屋を決めて、そこに次々と荷物を運び込むようメイドに指示をした。
 蘭の心の中にさざ波が立ち始める。
 それはまだ小さいが、徐々に荒れ狂う波になるだろうと――そんな予感を覚えた。

***

 雪は家に帰り次第、蝶子を見やると出て行けと言ったが、一度居すわった傲岸な姫が出て行くわけがない。
 その上、雪の父親から頼まれてきたと一点張りで、ずうずうしくも腰を下ろすことに成功したのだ。
 そこからは蘭にはとって予想した通りに生き地獄となった。
 雪がいない合間を縫って、蘭を虐め抜くのが蝶子のうさ晴らしとなる。
 離れには雪と蘭だけの楽園であった為に人払いをしていた。
 雪が屋敷にいないときは、蝶子とその取り巻き、蘭だけとなった。
 そうなれば多勢に無勢で蘭を蔑み、わざとこの家から追い出そうとする。
 だが蘭は雪に密告ができなかった。
 蝶子と雪をこじらせるのは、雪に取ってはマイナスの事柄になるからだ。
 この状況に蘭が耐えれば、斎藤家の持つ強大なパイプを雪の為に役立てることが出来る。
 それだけを思い蘭は蝶子の嫌がらせを我慢する。
 けれども毎日、毎日蝶子からの嫌味や、虐めを受けるたびに、ひしひしと精神を苛み、蘭はぐったりする毎日だ。たった一つの救いは夜になると雪が激しく蘭を求めてくれることだけだった。
 だけど、雪が夜中に呼ばれて、会合や会議に出て行く時は、ふと不安が押し寄せる。
 そう偽って、本当は蝶子の部屋へ行き、抱いているのでは。
 そんな疑心暗鬼にも捉われ、蘭は気が気ではなかった。
 それでも雪のことを信じて、蘭は毎日を過ごす。
 季節も巡り、いつの間にか春の訪れが、暖かい風を運んできた。
 雪は相変わらず忙しそうで、屋敷を空けている。
 蘭は庭に面した長い廊下を歩いていると、目の前から蝶子がメイドなどいつもの取り巻きを連れてすれ違おうとした。
 だが蘭はどんと肩で思い切り押され、その場に尻もちをつく。
 その上、メイドが持っていた水の入った花瓶をわざと浴びせられた。
 雪が与えてくれた服がぐっしょりと濡れ、髪からぽたぽたと雫が滴る。
「まぁ、おっほほほほ」
 上品な笑い声には嘲りの響きが込められていた。蝶子が笑い始めると周りのメイドもどっと嘲笑する。
 蘭は唇を噛み締め、拳をぎゅっと握り締めた。

――こんなことで挫けるるもんか

 そう心の中で強い気持ちを持つが、蝶子の嫌がらせはこんなのでは済まない。
「あら、埃かと思って水で洗い流そうとしたら、下慮だったわ」
 蝶子が綺麗な顔に美しい笑みを浮かべ愉悦に浸る。
「蝶姫様、もっと綺麗に洗い流してさしあげればどうですか?」
 覇者の娘に付き従うのは、貴族の娘の特権である。メイドも自分達より下の身分の蘭をいいように思っていないのだろう。
 そう蝶子を焚きつけては、蘭を弱り果てるまで嬲るのだ。
 覇王の妻となっても下慮は下慮。
 それは事実であって卑しい血だけは取り除けない。
 これは、蘭だけが我慢すればいいことだ。

 ――私が耐えれば雪の力になるんだから

 蘭はじっと動かず、その場で蝶子の気が済むのを待っていた。
「ねぇ、この下慮はなんか臭いですわ。この屋敷の品位を落としているわね」
 それでも蝶子はねちねちと嫌味を言ってきて、蘭の姿を見下ろしている。
 泣きも弱音も吐かない蘭を見て苛々しているのだろう。
 今日はいつもより、しつこく絡んでくる。
 本当は早く立ち去って欲しいと思いながら、蘭は顔を俯かせていた。
「蝶姫様、庭の堀池で洗ってあげてはいかがです?」
 ほほっと上品な笑い声をあげながら、メイドは残酷な提案を促す。
 下慮の身分で、覇王の妻となった蘭に向けての嫉妬と恨みがましい念がそこには込められていた。





 





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