河畔に咲く鮮花
邪魔だと思っていた側室はいつの間にか今川家からは消えて、すっきりとした屋敷となり居心地の良さを感じる。
「お前、嫁とか取らないのか? 貴族のトップにいるんだから寄ってくる女はたくさんいるだろ。俺みたいに政略結婚を決められていないんだからさ。自由自在に選べるじゃねぇか」
雪がそう言うと義鷹は少しだけ綺麗な顔を曇らせた。
「私には決めた相手がいるんです。だけどまだ手に入らない運命なのです」
意味深に呟いた義鷹の言葉が理解出来なくて、雪は奇妙な違和感を感じた。それでも気にしても仕方ないと思った。
――どうせ、言い寄ってくる女の中で誰にしようか選べないんだろ
雪はそれはそれである意味、面倒臭い悩みだと義鷹に同情すら覚えた。
雪の相手は決まっている為に選ぶ必要さえないからだ。
他の女だって蝶子と変わらない。
綺麗な洋服を着て、自分がどうやって笑えば美しいのか知っている微笑みを浮かべる。
覇王という名声にはべり、顔を窺う。
気に入られようと必死でくだらないアプローチをしかけてくる。
自分を一番に美しいと疑わない姿勢。
表面を取り繕っていても、裏では遊んでいるのは知っている。
蝶子も雪が次期覇王であるから寄ってくるだけだ。
裏では貴族の息子を買って、さんざん遊んでいることを雪は知っていた。
――くだらねぇ
蝶子はただ覇王の種が欲しいだけだ。そんな女に覇王としての遺伝子の刻印を刻みつけることが馬鹿らしい。
それでも父との約束は約束だ。
今まで散々好きなようにしてきた償いはしなければならない。
そう覚悟を決めていた矢先だった。
『ちょ、ちょっと、それは食べちゃ駄目よ!』
義鷹の屋敷の縁側に置かれていたお膳をつまみ食いをしていた時に声をかけてきた女――
振り仰いだその瞬間に、雪は心を揺さぶられた。
まるで女自身が発光しているように、輝いて見えたのだ。
女も雪を見てそのまま固まっていた。
――こいつ、俺に見惚れているのか?
そう思うとおかしくて、白い額を指で弾いていた。
痛いと叫びをあげた顔がおもしろくて、久しぶりに心から笑ってしまう。
百面相のようにころころと顔が変わる女がおかしくて、可愛くて。
――こいつ、俺をしらねぇのか
無礼だと思うよりその素直な反応が興味をひいた。表面的ではなく、この女は自分の正直な気持ちのまま話しかけてくる。
それは新鮮で心を潤わせてくれるものだった。
それより驚くべきことは女が下虜だという真実だった。
拾った義鷹の気も知れないが、下虜でも心惹かれる自分も相当な者だと雪は思った。
女は蘭という名前で、身のほど知らずにも雪にはむかってくる。
――信じられねぇ、下虜の癖に
雪は初めて女をこの手でねじ伏せたいと思いはじめる。
誰もが体を投げ打ってでも擦り寄ってくるというのに、蘭だけは違っていた。しかも処女と知り、喜んでしまう自分がいた。
蘭に初めての男として自分を刻みつけたい
それは女に対する初めての執着。
蘭とキスをするとジンと脳が痺れ、もっと欲しくなる。
本当はすぐにでも奪いたかったのに、緊張して勃たなかった。
――笑える、信じられねぇ。この俺が緊張しているなんてな
近い存在になるたびに、最後まで手が出せない自分を蘭は知ったらどう思うだろうか。
――俺って意外に不器用だったんだな
初めて知る自分を発見して、人知れず笑うこともあった。
本当は、この腕の中で咲き乱れて欲しい――
そのような気持ちをひっそりと抱え、毎日のように傍に置き、周りの世話をさせた。
秀樹からは相当気に入っているんやなぁと言われたが、その時はまだ蘭を思い通りにしたかっただけたと思っていた。
興味を惹かれる蘭を征服したい、どこまで抗えるかを見てみたい。
そのような興味に尽きるものだと――そう思っていた。
だがその考えはある事件を機に一変する。
義鷹の屋敷で、蘭が暴漢に襲われた時には体が勝手に動いていた。
体に傷をつけるのはいつものことだが、人の為につけるのは初めてだった。
――情けねぇ、いまごろ分かるなんて
その刹那に雪は蘭に対するはっきりした想いを悟る。
蘭を傍に置くのも、執着するのも、ねじ伏せたいのも、ただ自分だけを見ていて欲しかっただけだった。
初めての恋は出会った瞬間から始まっていた。
蘭に振り向いて欲しかった。この腕の中だけでその笑顔を見ていたかった。
それほど愛した蘭を庇って死ぬなら本望であった。
――でも、伝えてねぇ。俺の気持ちを
それでも拒否されるのが怖くて――先に蘭から愛の言葉を囁かせてしまった。
『愛している――雪』
蘭からのその言葉は泣き出したいほど嬉しくて――。
『俺も、愛している――』
誰にも言ったことのない――愛の囁き。
それは世界の何よりも尊きもので、たった一つの宝物の蘭に送ろう。
初めて恋をした君へ――その気持ちは伝わっただろうか。
泣いてなど欲しくないのに、無邪気に笑っていて欲しいのに。
それでも、自分の為に泣いてくれるのが嬉しくて。
蘭の瞳からとめどなく降り落ちてくる涙に溺れてしまいたかった。
このまま愛しい蘭の腕の中で死ねたら、どれだけ幸せだっただろうか。
生き延びてしまえば、辛い現実が待っている。
愛を知った雪は、この手を離すことは出来なかった。
このまま死ねたら――
それでも神は生きろといって、死なせてはくれなかった。
怪我をした雪をずっと甲斐甲斐しく看病してくれる蘭をいっときも手放したくなくて――
それでも一刻、一刻と迫る戴冠式を思うと、胸が苦しくなった。
――いまさら、蝶子となんて一緒になりたくなんかない
この胸の内の想いは、誰に言うことなく雪はたった一人で悩み続けた。
蝶子を蹴れば織田家は窮地に立たされるであろう。
最大の反対勢力の伊達にも顔が効く。その他にも色々とパイプを持つ斎藤家を退けるのはかしこい考えではない。
そんなことは十分に分かっている。
――じゃあ、側室として蘭を側に置くか?
秀樹が陽気に喋っていた言葉を思い出す。だが、それで蘭は幸せになるのだろうか。
もしかしたら解放することが蘭の為になるのかもしれない。
様々な想いが交錯して、雪は時間のない中で答えを探し続けた。
本家に戻り、戴冠式の準備で忙殺される中、それは突如起こる。
義鷹から連絡が入り、蘭が戻って来ないというのだ。
雪の元にいるのかと聞いてくる慌てた義鷹の声も遠くに聞こえていた。
目の前が真っ暗になってしまい、夜も眠れなくなった。動かせる者を使い、足取りを辿らせる。
それでも時間が空いた時は自身の足を使い、血マメが出来ても探し続けた。
睡眠を取らずに見つけだした時に雪の気持ちは固まった。
――ああ、こいつは俺がこの手で幸せにしよう
過酷な道になると分かっていても、蘭が腕から離れることの方が怖かった。
このような男に蘭はついてきてくれるだろうか。権力を笠にして奪おうとする自分と共にきてくれるだろうか。
一抹の不安がよぎるが、それでも迷いは消えた。
蘭からどう思われようとも、この腕の中に抱きとめよう。
――それが、俺のやり方だ
不器用すぎる自分は、そういう力の使い方しか知らなかった。
それでもその想いは中途半端な気持ちではない。
周りからどんなに非難されても、蘭の為につけた背中の傷に誓おう。
父との約束を破る、その覚悟を戴冠式で示そう――
頭の中は霧が晴れたようにすっきりとして、ようやく暗い道に光が差した気がした。
悲しげに見つめてくる蘭を見て、もう少しだけ待っていろと心の中で呟く。
――お別れみたいな顔をしやがって
これからどんなことがあっても手を取り合い、一緒に歩いて行けるから――雪はそう思い、戴冠式の場へと向かっていった。
その足取りに迷いや不安はなく、希望に満ちたもので。
いつまでも腕の中で笑顔を咲かせる蘭を想像して、雪はようやく口元に笑みを浮かべた。
――だから、さようならは言わない
雪は茨の道が待っていようと、幸せに溢れる未来を頭の中に描く。
そう――ただ一人の男として、初めて恋をした蘭を幸せにする想いを胸に秘めて
その希望だけを胸に抱き、雪は覇王になる道を歩み始めるのだった。
*特別編 恋初めし君へ* 雪編
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