河畔に咲く鮮花  

第一章 二輪の花 1:貴族の若様/義鷹の屋敷にて




 蘭はいつもと違った感触に頬を擦りつける。ふわふわの布団が体を包み、いい香りのする枕が蘭の心をほだす。
 まどろみ目を開けると、眩しい光が部屋に差し込んできていた。 自分が和室の部屋で寝ていることに気が付き視線をぐるりと回した。
 染み一つない上質な壁に、匂い立つ高級な畳。
 花瓶には美しい花が活けられ、蘭はここは自分の家ではないと気がついた。
「起きたかい?」
 着物姿に上等な羽織を着た義鷹がスイッと障子を開けて入ってくる。
「あ、はい。義鷹様。昨日はそのありがとうございました」
 蘭は慌てて布団の上で正座し、深々とお辞儀をする。
「そんなことはいい。一緒にご飯を食べないか」
 義鷹はパンパンと二回ほど手を叩くと、メイドが現れて、布団を片し、お膳を持って来た。
「天気もいいから障子を開けて食べよう」
 部屋の外はすぐに庭になっている。砂紋(さもん)が敷かれ、まばゆい緑の木々が光を弾き、蘭の網膜を焼く。
「義鷹様って凄い人なんですよね」
 蘭はあまり上流階級のことは知らないが、織田家や豊臣家などはさすがに知っている。
 覇者の御三家と呼ばれる、織田・徳川・豊臣はもちろん有名だ。その下の階級である貴族。
 その政の一部を執り仕切っているのが、貴族のトップである今川家。
 ――その当主である、若様が目の前にいる。
 こんなに美しくまだ若い青年とは知らずに、蘭は義鷹の顔をまじまじと見つめた。
「蘭、私の顔に何かついているかい? 貴族と言っても名前だけだよ」
 義鷹は少しだけ笑うと、蘭を見つめ返してくる。
 今度は蘭が気恥ずかしくなった。位の高い美しく品のある青年に見つめられると箸が進まない。
「蘭、ご飯がおいしくないのかな?」
 蘭が食事を止めたのが気になるのか、義鷹はふと悲しそうに眉をひそめる。
「ち、違います。義鷹様に見られると恥ずかしくて。下慮の私なんかがこんなところにいて場違いだなって」 
 蘭がそう言うと義鷹はふぅと小さく溜息を吐く。
「お聞き、蘭。私達はみんな同じ人間だ。貴族だから、下慮だからといって優劣なんてないんだよ。まぁ、覇者はそうは思わないだろうが」
 そう思ってくれるのは義鷹だけだと蘭は思った。貴族だろうが、一般市民だろうが、下慮を同等に見てくれる人は誰もいない。そう言ってくれるだけで、ぐっと胸がつまる。
「ありがとうございます、義鷹様。私、救ってくれたお礼に絶対に恩返しをしますね」
 義鷹になんでもいいからお礼を返そうと蘭は心の中で決める。こんなに優しくていい人が貴族で、それもトップであってくれて嬉しかった。家に戻ってまた一からやり直しだが、蘭は出来ることならなんでもしてもいいと思う。
「傍にいるかい? 私の傍に」
 ふと漏らされた義鷹の声。蘭は箸を止めて、義鷹の顔を見る。にこにこと笑う義鷹はどこまでそれが本音かが窺いしれない。ただの貴族の戯れかと思い、蘭は少し首を傾げるだけだった。
 義鷹ほどであれば、多くの娘が群がるだろう。階級が上の覇者の姫達もきっと熱をあげている人は多いはずだ。
 それが蘭に傍にいろと言うのはきっと一時の戯れに違いない。
 それとも下慮を見たことのない、王子のような青年は蘭の境遇に同情をしているかも知れない。どちらかと言うとこちらの線がしっくりくる。義鷹は虫も殺せなそうな優しく花のような青年。
 蘭の下虜という境遇を可哀想に思い、そう言ってくれている。同情でも蘭は義鷹の気持ちに胸がじんと熱くなった。
「どうしたの、蘭? 悲しい顔をして」
「ごめんなさい、義鷹様が優しくしてくれるから、嬉しくて」
 蘭はじわりと滲む涙を見られたくなくて、慌てて視線を逸らせた。義鷹は何も言わずにスッと音もなく立ち上がると、蘭の隣に腰を下ろす。
「辛い想いをしていたんだね、蘭」
 義鷹が指先でスッと蘭の涙を拭いてくれる。まさか貴族の、それもトップの権力者がそんなことをするとは。
「義鷹様……駄目です、汚れます」
 驚いて、蘭は目を大きく見開くと義鷹の顔を見つめた。義鷹は蘭に指摘されても、にこりと極上の笑みを浮かべる。
「大丈夫、蘭になら私は汚されてもいいよ」
 目まいがするほど甘い言葉を吐かれて、貴族という生き物を蘭は目の当たりにした。こんなに酔いしれる言葉を毎日耳元で囁かれたらどんなに幸せか。
 貴族の間では当り前の囁きかも知れないが、蘭にとっては新鮮な響き。
「さぁ、泣きやんで。蘭が悲しいと私も悲しくなってしまうよ」
 義鷹は華やかに笑うと蘭の頭をよしよしと撫でてくれる。子供扱いされて蘭は少し照れてしまった。十八歳にもなって、貴族の前で泣いてしまうなんて。恥ずかしくなり、蘭は姿勢を正した。
「義鷹様、心配かけてごめんなさい。私、もう少しここにいて、お手伝いしていいですか? 庭の掃き掃除、料理の手伝い、風呂掃除、何でもします。それでご恩をお返しします」
 そう言うと義鷹は喜ぶどころかふと悲しげに瞳を揺らせた。なにかまずいことでも言ったのかと心配になる。
「蘭はそんなことをしなくてもいい。私の話相手になってくれないか」
「で、でもっ、私と話しても教養がなくてつまらないですよ」
 貴族のそれもトップの今川家の若様相手に話すことなど何もなかった。困り果てると義鷹はにこりと微笑む。
「蘭の話をしてくれ。蘭がどのように生き、どのように感じ、今までを生きて来たか」
 真剣に言って来る義鷹を見て、もしかしてそれが勉強になるのかもと感じる。
 貴族が下慮の生活を知る由もない。学校の中での勉強では習うかもしれないが、直接声を聞けることはないだろう。それが義鷹の為になるならば、蘭は快く答えた。
「分かりました、義鷹様。私の生活でいいならお教えします」
 それを聞いて義鷹はふと表情を崩して柔らかく笑んでくれた。その後は上質なお茶と羊羹をいただき、一緒に庭も散歩した。柔らかい陽が差し、蘭の心も少し暖かくなった。




 





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