河畔に咲く鮮花  




 
 
蘭が目を覚ますと義鷹の屋敷に戻っていることを知った。視線だけを動かせると、蘭の手が繋がれていることに気がついた。
 ゆるりとその手の先に視線を巡らせて、蘭は胸を詰まらせる。その手はしっかりと雪と繋がれていたから。
「ゆ……き……」
 感動の波が押し寄せてきて、蘭はじわりと涙が浮かべた。
 まさか、愛しくて会いたかった雪がその場にいて、胡坐をかいたまま寝入っているとは。
 ――これが夢でないかと思ってしまうぐらい。
 こっくりと船を漕ぐ雪の面立ちは少し疲れているようだった。顔色も心なしか悪いし、綺麗な瞳の下にくまを作っている。
 戴冠式が目前というのに、探し回ってくれていたのだろうか。銀の言った言葉をふと思い出し、蘭は手を繋いだまま上体を起こした。
 雪の顔を覗きこんで、そろりと滑らかな頬を撫でる。ぴくっと体は動いて、雪は長いまつ毛を揺らめかせた。
 じっと見ていると、雪がばちりと勢いよく目を開けて、顔を覗きこんでいる蘭を見る。
 蘭は驚いて心臓が跳ねそうになったが、雪は何も言わずに凝視してきた。
「あ、あの、ゆきっ……」
 久しぶりに見た雪と目が合って気恥ずかしくなり、なにかを喋ろうと必死で言葉を探す。だが、最後まで言葉を聞かないで、雪は蘭の体をがばりときつく抱きしめた。
 あまりにも強い腕の力に蘭は一瞬だが息が詰まる。
「ゆ、雪っ、苦しいっ」
 慌てて離れようとしたが、雪の体が僅かに震えていることに気がついた。蘭は驚いてされるがまま、雪の腕の中で大人しくなる。

――あの、雪が震えている。

 信じられない思いが全身を駆け巡っていき、感動で心が震えた。
「蘭っ! 蘭っ! 蘭っ! ようやく見つけた」
 雪が確認するように何度も名を呼び、ますます腕の力を込めてくる。
 蘭の体は締め付けられて苦しかったが、雪の心配してくる気持ちが伝わり、そのまま体を預けた。
「雪……私を探してくれていたの?」
 蘭が聞くと雪の腕の力が緩んでいき、体を離してあの夜露に濡れた綺麗な瞳を向けてくる。 
「義鷹から連絡を貰ってな、死ぬほど探した」
 銀の言っていたことは本当だった。歓喜に打ち震え、蘭はじわりと目がしらが熱くなってくるのを感じる。
 それが嬉しくて、嬉しくて、死ぬほど嬉しくて――。
 蘭は泣きそうになりながら、じっと愛しい雪の顔を見つめた。焦燥に駆られていた雪も、徐々に元気を取り戻し、ようやく安堵の笑みを顔に浮かべる。
「怪我はないか? もっと休ませてやりたいが、聞きたいことがある」
 蘭を労わる優しい瞳の奥が一瞬で冷たく変わると鋭い光を宿した。蘭は胸がざわめき、ごくりと唾を飲み込む。
「お前を拉致した奴は誰だ?」
 雪の怒気を孕んだ強い言葉が蘭の心を射る。春と唯のことが瞬時に脳裏に浮かび、口を開きかけた。
「そいつら全員地獄行きだ。そいつらに関わった周りも、親族も、遠縁まで吊るし上げてぶっ潰す。血祭りにあげてやる」
 雪は覇王たる真の恐ろしさを全身に纏わせて、怒りを滾らせる。
 そのあまりの気迫は燃え盛る煉獄の炎を思わせ、蘭自身も燃やされそうな錯覚に陥った。
「言え、蘭。そいつらは絶対に許さねえ」
 雪の凄みに気圧され、蘭はぶるりと体を震わせる。
今、春と唯の名を言うことはたやすい。
 だが、ふと脳裏に蘭を助けてくれた銀の姿が思い浮かんだ
 ここで春と唯の名前を挙げれば、必ず銀も芋づる式で釣りあげられるだろう。
 蘭は躊躇して思考を巡らせた。
 ――言えない、言えば銀まで危ない。
「……目隠しされてどこかの部屋に監禁されてたから……なにも分からないの」
 視線を逸らしぼそぼそと蘭はそれだけを呟いた。目を真っすぐに見れば嘘が見破られるかもしれない。
 雪はそれを信じたのか、ふぅと一つ長い溜息を吐いて、それ以上のことは探ってこなかった。数秒、沈黙が落とされた静寂の中に義鷹の柔らかい声が響いてきた。
「起きたのかい? 蘭」
 開け放された障子の向こうから義鷹がすっと姿を現し、部屋へ入って来る。
 二日屋敷を空けただけで、義鷹が少し痩せて見えたのは気のせいだろうか。
 蘭の顔を見て、切なげに顔を歪ませるが、すぐさま笑顔を浮かべた。
「蘭……無事で良かった……あんまり心配させないでおくれ」
 義鷹が部屋へ足を運び、雪の後ろに立つ。
「……雪様、もうお時間がありません……そろそろ行かなければ……みなさんがお待ちですよ」
 義鷹は言いずらそうに、静かにそれだけを喋った。そうすると雪は思い切り眉をしかめて、蘭から手を離した。
 雪の熱が急速に蘭の体から逃げていく。
 手を伸ばすと触れられる距離にいるのに、遠くにいるように感じて、蘭の心臓がどくんどくんと早鐘を打ち始めた。
 空気が穏やかなものから冷たいものに変わり、雪はすっと立ち上がる。
 どこに行くのだろうと不安に駆られて、蘭は雪の顔を見上げた。
「戴冠式が始まりますので、お急ぎを」
 ざぁっと全身の血の気が引いていき、蘭の心の中は黒い感情に満たされ、荒れ狂うような波が押し寄せる。心臓の動悸が早まり、あまりの衝撃で喉の奥もひきつってきた。
――お願いだから行かないで――そう言ってこの腕を伸ばしたい。
 伸ばせば掴むことが出来るのに、触れた瞬間、陽炎のように消えていなくなりそうなほど淡く儚い存在。
 その虚しくも届かない気持ちに蘭は悲しく瞳を揺らせた。
 相手は覇王でこの国のトップ。
 その人に追いすがることなど出来るはずもない。
 ――下慮は下慮。
 蘭の手の中をすり抜け、雪は正真正銘の覇王になる。
 そして、気高く血筋の良い蝶姫を娶り、婚儀をあげる。
 下慮ごときに引きとめられる人ではない。
 体が震え、乱れた心臓に肺が圧迫されそうになる。泣き出しそうになる気持ちを何とか押し止め、歯を食いしばり雪だけを見つめた。
「――義鷹、こいつも連れて来い。必ずな」
 雪はたったそれだけを放って、くるりと背中を向けた。そして蘭に一言も声をかけずに立ち去っていく。
 遠くなる背中を目で追いかけて、蘭は心がちぎれそうな感覚に陥った。






 





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