河畔に咲く鮮花  




 
「うおおおおっ、まじかよっ、嘘だろっ!」
 唯が大声を出して喚いている声を聞いて、蘭の意識は覚醒した。部屋の電気も灯され、その眩しさで目を細める。
 唯は深夜にここに戻って来たようで、目を見開き直立不動で突っ立っていた。
 なにを驚いているのかも分からずに、蘭は首を傾げる。
 蘭を抱き締めていた腕が緩むと、春も寝ぼけながら上体を起こした。
「うるさいぞ、唯。お前の思っているようなことはしてない。寝ていただけだ」
 唯の気持ちを察したのか春は寝癖のついた髪を掻きあげる。
「な、なんだ。そうか。そうだったか。って、お前、眼帯が……」
 眼帯をしていないことに気がついて、唯が驚きを顔に刻むと春は思い出したように右目を触った。
「ああ……別に問題はない」
 さして大したことのないように春は言うが、唯は絶句したまま固まっている。
「……でも、お前、素顔なんて絶対に心を許した奴しか見せない……」
 そこまで言って唯は口をつぐむと、戸惑いを隠せないのか手をそわそわと動かせた。
「……どうでもいいだろう」
 春は面倒臭そうにそれだけを言って、こきこきと首を回しては鳴らす。蘭はそのやり取りを寝ぼけ眼でぼんやりと見ていた。

 ――その時、かちゃりとドアを回す音が微かに蘭の耳に届いてきた。

 誰かがこの部屋に来たのかと、みんなの視線は一斉にドアに集中した。
 ドアがゆるりと開くと、隙間からころころとスプレー缶が転がってくる。
 蘭はなにがなんだか分からず目を凝らしていると、部屋の真ん中でスプレー缶が止まり、ぷしゅっと白い煙が噴射された。
 あっという間に部屋の中を覆い隠して、蘭の視界は遮られる。
「唯っ! 催涙ガスだぞ!」
 春はそのような状況に慣れているのか、素早く動くと蘭の手を取り、強引に床に伏せさせた。
「袖で口を隠して、目を閉じろ」
 耳元で春にそう指示されて、蘭は状況が飲み込めないままその通りにした。だが、それだけでは完璧に防ぎようがなく、喉に吸い込み焼けそうになる。
 目にじりっとした熱い痛みが走り、自然に涙が溢れ出した。
 白い煙が蔓延している部屋の中で、だだだだっと誰かが走って来る音がして、思わず身を竦めてしまう。
 それは迷うことなく一直線に、ベッドの脇に身を伏せている春と蘭の元へやってくる。
 春を敵視している者の仕業かと、蘭は身を硬くしてその場に縮こまった。
 だが、走り寄って来た人物は、春ではなくがつっと蘭の腕を引き上げて、無理矢理に立たせる。目の見えない状態の中で、気が付くと蘭は強引に引っ張られていた。
 その人物は蘭が目当てだったのか、春と唯には目もくれずに、その部屋から一目散に脱出をした。すぐにエレベーターに乗せられて、階下に向かっていく。
 ちん、と甲高いエレベーターの音がしたと同時に、蘭はまたぐいっと腕を引っ張れた。 
 その瞬間、蘭は冷たい風を頬に受け、外気の臭いを感じる。

 ――外だ。外に出たんだ。

 蘭はそれに気がつき、まだ痛みの走る目をゆっくりと開く。滲んだ視界の中に、マスクを装着した人物が見えた。
 この人物が蘭をあの逃れられない檻から、助けてくれたのだろう。まだ蘭の腕を掴んで、必死で走る人物についていき、ようやく立ち止まった。

住宅街の路地裏に連れ込まれると、蘭は乱した呼吸を整えて、顔を上げる。
「ごめんな、蘭。助けるのが遅くなった」
 救出してくれた人物が蘭の手を離すと振り返り、顔に装着していたガスマスクを剥ぎ取った。
「――銀ちゃんっ」
 蘭は済まなそうにしている銀を見て、驚きの声をあげる。
「――どうして?」
 視線を落としている銀に、蘭はそれだけしか問うことしか出来ない。
「俺は、伊達と真田に連合して、織田家の失脚を狙っている一味だ。蝶姫のくだらない口車に乗り、蘭をあいつらに渡してしまった」 
「だからどうして、私を助けたの?」
 蘭は悲しそうにする銀を見て、もう一度問うた。銀が、あの二人の仲間ということは、あの部屋へ閉じ込められた時には気がついていた。
 だけど、助けてくれることが分からずにそう聞いたのだ。
「――俺も蘭と同じで――女だから」
 ぽつりと銀は顔を歪ませて信じられない一言を放つ。蘭は驚愕に目を開き、銀の顔をまじまじと見つめた。
「立花の銀姫。それが俺の正体だ。だけど女のようには生きていきたくない。いつも政略結婚の道具に使われ、攻めて来た家に土地を奪われたら、女は略奪される。そんな人生が嫌だから、女であることを捨てた」
 銀の告白に、蘭は何も言えずに口をつぐんでしまう。
――銀が女。覇者階級の姫様。
「肩を組んだ時に分かったよ。華奢だし、丸みがあって柔らかい。俺とおんなじだってな。最低だな、蘭を渡せばあいつらの慰み者にされる。分かっていたのに、結局立花家を復興させることしか目がいってなかった」 
 銀が悲しげに瞳を揺らすのを見ると、蘭はどうしてか責める気にはなれなかった。
「悩んで、悩んでやっぱり蘭を助けることにした。裏切り行為だが、同じ女である蘭に辛い思いはさせたくない」
「――銀ちゃん……私、下慮だよ……。銀ちゃんみたいに位が高い姫でもないし、裏切ってまで助けてくれたの?」
 苦しげな色を滲ます銀に蘭はそう問いかける。
「蘭が下慮だってことは知ってる。下慮だからこそ、辛い立場を強いられていることも。だからこそ助けたかった」
 銀の言葉に蘭の胸はぐっと詰まる。銀は初めから下慮と分かっていたのに声を掛けてくれて、変わらぬ態度で接してくれた。
 覇者の娘などみんな蝶子と同じだと思っていたのに。それだけで胸にじんと熱い思いがこみ上げてくる。
「……銀ちゃん……ありがとう……」
「俺こそ悪かった。思い切り殴ってくれ」
 銀の言葉に蘭は目を剥くが、本人は本気のようだ。頬をずいっと差し出し、蘭からの拳を待っている。
「無理だよ、銀ちゃん、お姫様だよ。私が殴れるわけないでしょ」
 銀はかなり男前の性格なのだろう。その体育会系のノリについていけずに蘭はわたわたと手を振った。
「そうでもしないと気が納まらない!」
 銀は蘭の肩を掴んでがくがくと揺らす。
「じゃあ、一つだけお願いがあるの」
 蘭は顔を俯かせて、銀に言っていいものかどうか迷った。
「なんだ? 言ってみろ」
 銀が顔を覗きこみ蘭の言葉を待つ。蘭は言い淀みながら、ぽつりと吐き出した。
「嫌じゃなければ友達になって欲しい……下慮でもいいなら」
 銀はそれを聞いて目を大きく開き、がばりと蘭を抱き締めてきた。
「蘭っ! こっちこそありがとう。こんな俺を許してくれるのか」
 銀は歓喜に震え、蘭を思い切り抱き締める。
 柔らかい体が押し付けられてきて、銀は本当に女なんだと――そう悟った。
「ゆっくり話たいが、時間がない。お前を見つける為に、今川の若様や、織田が必死になって動いている。今、見つかったら俺は危ない」
 蘭はそれには目を丸くした。聞き違いでなければ、義鷹と雪が動いている。
 ――そう聞こえた。
「戴冠式も放り出して、蘭の捜索をしている。蘭、悪いがここでお別れだ。じきに若様と織田がかぎつけるだろう」
 銀は蘭から体を放し、手にハンカチを持って、蘭に嗅がせた。
「――だから少しだけ寝ていてくれ」
 蘭は銀から押し付けられたハンカチの香りを吸いこんで、ぐらりと意識が揺らいでいく。
「――ぎ……ん……ちゃ……んっ」
 膝ががくりと崩れると、すぐに銀が体を支えてくれた。そしてゆっくりと座らされ、蘭の意識は朦朧としていく。
 走り去って行く銀の後ろ姿が見えなくなると、今度はがやがやと喧騒の波が蘭の耳に届いてきた。
「――いましたっ」
「――こちらに!」
 義鷹の家でいた護衛の者達の声が聞こえた気がする。だが、重くなった目は閉じられ、たゆたう意識は深い眠りへ誘われていく。
「蘭っ!」
 酷く懐かしく、そして愛しい男の声が聞こえて来た。その人は蘭に向かって走ってくると体を大きく揺すってくる。
 逞しい腕の中に身を委ね、蘭は安堵の表情を浮かべた。

 ――雪、来てくれたんだね。

 その感触も声も香りも雪のもの。
 必死に呼びかけてくるのが雪だと分かり、安心して蘭は意識をそのまま深く沈めていった。






 





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