河畔に咲く鮮花  

第一章 一輪の花 2:その美男の名は今川義鷹


 いつもと同じように過ごし、貧しいなりに楽しい毎日だった。
 だが、それはある日唐突に起こった。
 税金が高くなり、蘭達の家に下請けしていた商売人達が、仕事をカットしたのだ。
 蘭達は職を失い、転落する。
「どうしたらいいんだ」
 泣きむせぶ父の肩を抱き、蘭は唇を噛みしめた。
「私が奉公にでます」
 母が顔を上げてとんでもないことを言った。奉公は一般人や商売人の家にメイドとして住み込みで働くこと。
 母の髪にはもう白髪が交じっている。貧しい生活で体もやせ細っていた。そんな母に奴隷のように扱われる奉公をさせたくなどなかった。
「私が奉公に行くわ、お父さん、お母さん」
 その言葉に目を開き、驚きの表情を顔に刻む。この時がいつか来ることは蘭には分かっていた。
 もっと先かも知れないと思っていたが、すぐに来てしまうとは。蘭はまだ若いし、健康で体力もある。
 運が良ければ裕福な老夫婦が買ってくれて、大事に扱ってくれるかも知れない。それは大きな賭けだが、蘭にとってはそれしか道がなかった。
 がっくり項垂れる父と母を見て、蘭は心配かけさせまいとにこりと微笑んだ。
 そして、お兄さんにお別れを言いに、家にと訪れた。お兄さんも父と母と同じように目を見開き、蘭を引きとめた。だけど、もう蘭は心が決まっている。涙を呑み、蘭は家族を助ける為に奉公人を寄せ集めている市場へ行くのであった。

***

 市場で、管理をしている男に事情を話すと、すぐに売買が始まると言われた。
 蘭が連れて行かれたのは、大きな檻だった。その中に同じような年頃の女、男、はるかに年上の人も入れられていた。
 全てが下慮の身分の者である。まるで見世物みたいだと蘭は思ったが、家族を守る為に決意して檻の中へ入る。
 何十分してか、豪商風の男や、気どった感じの貴婦人、使いパシリ風の若い男、色んな人が檻の中をじろじろと見て検分してくる。
 若くて体力のありそうな男が買われ、腕っぷしのいい男も用心棒として買われる。
 このまま残ったらどうしようかと蘭は顔を俯かせた。すると豪商風の男が下卑た笑みを浮かべて蘭を見て来た。
 蘭は生理的嫌悪感が走り、一歩身を引いた。嫌な予感は当たるもので、蘭はその豪商に買われてしまったのだ。
 男は乱暴に蘭を車の後部座席に乗せ、料亭に入って行く。蘭が見たこともないような格式が高い料亭。
 部屋に入れられ、商談をしてくると男は席を外した。蘭はハッと目を凝らした。部屋の中には布団が敷かれ、明かりは暖色色に灯されている。
 これからなにが行われるか分かった蘭は身を震わせた。あのような、お腹がでっぷりとでて、臭い息の男に抱かれたくない。蘭を買ったのは商売人だろう。きっと、蘭を遊び女として傍に置く為に買ったに違いない。
 年も蘭の父よりも上に見えた。蘭は涙が出そうになり、震える肩を抱き締めた。
 ほどなくして男は帰って来ると、にやりと笑う。酒臭い息を吐き散らし、脂ぎって分厚い唇を舐め上げた。
 しかも男はズボンのベルトを取ると、蘭に向かって一発放った。
「きゃあっ!」
 蘭はバシンと体を打たれて、その場に崩れる。男はますます下卑た笑みを浮かべるとまたベルトを振り上げた。
 さすがに二度も食らう気にはなれずに、蘭は男に体当たりして逃げ出した。
「こ、こらっ、待てっ!」
 男の声がすぐ後ろから飛んで来る。だがそんなのどうでも良かった。涙を滲ませ蘭は長い廊下を走る。
 角を曲がったところで蘭は誰かとぶつかり、よろりと姿勢を崩した。倒れ込む蘭の体を暖かい腕が支える。
「大丈夫かい」
 囁くような蕩ける声音に蘭はその人物を振り仰ぐ。ハッと蘭は息をするのも忘れてその人を見つめた。
 長い髪がさらりとなびき、流麗な瞳も高い鼻梁も官能めいた唇も全てが綺麗。
 そこにぱっと花が咲いたような、麗しい男が蘭を見つめていた。
 青年は蘭の体を起こし、乱れた襟元を直してくれる。そして、蘭の首元にしゃらんと鳴る指輪のネックレスを見た。
「素敵な指輪だね。君のかい?」
 青年はにこりと綺麗に笑うと人懐こく話しかけてくる。
「は、はい。思い出の品というか、素敵な人からのいただき物なんです」
 蘭は良い香りのする青年を前にどぎまぎと胸を高鳴らせた。貴族の男性だろうか。上等な着物に身を包み、そこに立っているだけで絵になる。
 光明とはまた違った柔和な雰囲気の美青年。気品が漂い、蘭は同じ空気を吸っているだけで申し訳のない気持ちになった。
「おい、こらっ、待てっ」
 だがハッと現実に戻る。あの男が追いかけて来て、蘭と青年の前で止まった。
「おい、そこの若造、それはワシのだ。返せ」
 男が脂ぎった手を伸ばして来る。蘭は怖くて反射的にそれを避けてしまった。いくら奴隷のような扱いでも、あのように暴力を奮われることなど耐えられない。きっと、この男は蘭を痛めつけながら、行為に及ぼうとする趣味を持っているのだ。
 嫌悪感が催すと、自然に体が震えてこの男から逃れようとする。下虜にそのような態度をされたのが気に食わないのか、男は怒りでかぁっと顔を赤らめた。
「この、奴隷の分際でっ!! もっと痛めつけてやるっ!!」
 男は手を振り上げ、蘭を力任せに叩こうとする。瞬時にその手は青年が持っていた扇子でばしりと叩き落とされた。
「――つっ、お前、なんてことを。この豪商の江守をしらないのかっ!!」
 男は叩かれた手を大袈裟にさすると、唾を飛ばしながら青年を見上げる。貴族の青年はというと少しも驚かずに、奇異な生き物を見る目で江守を見下ろした。
「貴族のボンボンのようだが、商売人の江守と聞いたら分かるだろ。少々の貴族程度じゃワシに歯向かえん」
 江守は相当お金を積んで貴族と対等に付き合っているのだろう。そろそろ貴族の位をお金で買うといってもおかしくはなさそうだ。
「貴族の位を買えば、お前ぐらいすぐに潰してやる」
 やはり貴族に憧れているようだ。見苦しい野望を吠えたて、江守は青年に脅しをかける。
「では、貴様に貴族の位が永劫に買えないよう、手配しよう」
 青年はきつい口調だが、口元には笑みを浮かべている。その余裕ぶった様に江守は頬を引きつらせた。
「ふ、ふざけるなっ、この若造、お前の名を名乗れ」
 江守が怒りを滾らせて、がなりたてると青年の華やかな顔からすうっと光が消える。
「聞いて後悔しないか? 私の名前を聞いて」
 青年の醸し出す雰囲気が先ほどの柔らかいものとは違う。一見穏やかな表情の裏には威圧感が込められていた。
「い、言ってみろ」
 江守は青年の威圧感に気がついたのか、少しみじろぎして恐る恐る名を聞く。
「私は今川義鷹(いまがわ よしたか)。今川家の現当主だ」
 その名前を聞いて江守は硬直した。体を大きく震わせ、目をこれとないほど見開いている。
「い、今川……義鷹……様……貴族の頂点で、あの織田家と豊臣家に庇護をされている……」
 江守は喉の奥を引きつらせて、今まで自分が誰に歯向かっていたのか分かったらしく、激しく狼狽した。
「この娘は私が貰う、いいな」
 義鷹が扇子をパチンと閉じると、江守は金縛りが解けたように動き始める。
「す、すみませんでした。今川義鷹様!!」
 江守はそれだけ言って、慌てて体を翻して逃げて行く。呆気に取られて蘭はその様子を見ていた。
 義鷹を振り仰ぐと、出会った時と同じように、にこりと華やぐ笑顔を浮かべる。ふわっと春風が舞い降りたような柔らかく暖かい笑み。それだけで蘭の緊張は一気に解きほぐされた。
「もう大丈夫だよ。おいで、私が家に戻してあげよう」
「ありがとうございます、義鷹様」
 蘭はあの男から救ってくれた義鷹に心から感謝し、深々とお辞儀をした。顔を上げた瞬間に、お腹がぐうっと鳴る。蘭は顔を真っ赤にしてお腹に手を持って行った。義鷹はくすりと笑い、手招きする。
「家にはいつでも送っていってあげる。取りあえず、ご飯を食べようか。名前は何と言う?」
 蘭は義鷹に聞かれて、声を張り上げて答えた。
「蘭、森下蘭です!」 
 それを聞いてまた義鷹はにこりと笑った。
「蘭、いい名前だね」
 そう呟いて、義鷹は蘭を促して晩御飯を一緒に食べてくれた。すっかり疲れ切った蘭は、義鷹の車に乗せられる。後部座席に義鷹と蘭が乗り、いつの間にか蘭は眠りに落ちて行った。
「若様、起こしましょうか」
 義鷹の膝の上で寝ている蘭を見て、家臣は気を遣ったようだ。
「いや、いい。このまま出発してくれ」
 義鷹は膝の上で寝入った蘭の髪を撫でて、もう一度笑みを作った。そして、車は夜の道を蘭を連れて走って行った。



 





 







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