河畔に咲く鮮花  

     

 

 
  
恋の誘惑と陰謀のマスカレ-ド  本祭編
 

「昨日はすみません」
 今日は一部の覇者だけでなく、貴族の位の人達も招待して大々的なマスカレード祭が行われる。すでに夕刻を過ぎた頃、蘭は昨日とは違った淡いブルー色のドレスを着て佑樹の前に姿を見せると開口一番謝罪した。
「え、いえ、その……」
 謝られた佑樹はなぜか視線を外しつつも、蘭の様子を窺うようにちらちらと盗み見する。
「勝手にいちると回ってしまい……その後、お酒を飲みすぎてしまって佑樹さんに会うことなくいつの間にか部屋に帰ってしまいました」
 情けないが、随分と酔ったようで昨日の記憶が途中からすっぽりと抜けている。今日ははめを外さないようにしようと気をつけようと思っていたところ、佑樹が視線を合わせてくる。
「あの、身体は大丈夫ですか?」
「身体ですか……? ええ、はい。少しお酒をこぼしてしまったのかベタベタはしていましたけれど、特に変なところはないと思います」
 そう言うと、佑樹がほっとしたような、それでいてどこか残念そうな表情を浮かべた。どうしたのだろう、と顔を見ているとまるで何かを悟られたくないような動作で彼が仮面をさっと装着した。
「と、とにかく何事もなければいいです」
「ええ、今日は佑樹さんと一緒にいますね。あまり勝手をしたら、佑樹さんがとも君に怒られてしまいますし」
「は、はい。今日はきちんとエスコート出来るように頑張りますね」
 今日もともはマスカレードに訪れる客を相手にする予定になっている。仕事だから仕方がないと分かっていても、どこか寂しい気持ちになった。それでも佑樹がわざわざホスト役を買って、付き添ってくれることに感謝しなければならない。 
 すでにマスカレードは始まっていて、音楽が庭園にまで流れていた。
「え、えっと、お手をどうぞ」
 手を差し出してきた佑樹に頷き返すと、そこに自分の指先を乗せて屋敷の中に歩いて行く。ホールに入ると、ダンスをしている人々に目が釘付けになり、心を躍らせる。
 くるくると回る女性のドレスの裾が美しくひらめき、その色とりどりの色彩に感動してしまう。目の前の光景は優雅で、華美で、壮麗であり、非日常の空間を造り出していた。
「うわぁ、凄い」
 思わず感嘆の声を出すと、隣では同じように佑樹も頷く。
「え、えっと、お、踊りましょ……」
 佑樹が何かを呟いたところ、音楽が鳴り止んでダンスが終わった。
「佑樹さん、何かおっしゃいましたか?」
「え、えっとですね……」 
 佑樹がもう一度なにかをいいかけたところ、わっと歓声が沸き起こり、彼の声が掻き消される。どうやらともが出てきたようで、みんなそこに注目しているのだ。
 もちろん、仮面をしているのだがみんなには正体がばれているようである。何気にその姿を追っていると、ひそひそと喋る女性の声が聞こえてきた。
「あなた、ダンスのお誘いしなさいよ」
「え、ええ、でも」
「一番に踊ることが出来るのは、栄誉であり、ステイタスになるのよ。それにお目にかかることが出来れば、側室になることも……いいえ、まだ正室もいないのだから、花嫁になるのも可能よ」
「流石に、そこまでは望めないわ。だって、本多家の稲穂様がいるじゃないの」
 女性達の噂話が突き刺さり、胸がざわめいた。以前にも佑樹が婚約者を蘭ではなく、本多稲穂と間違えたことがある。あの時はさほど気にしていなかったけど、ここまではっきりと言われれば疑問が湧いてきた。
「あ、あの、佑樹さん……」
 確かめようとした時、緩やかに音楽が奏でられて蘭の声は佑樹に届かない。またダンスが始まろうとして、男性達が女性の手を取るのをぼんやりと見つめていた。
「ほら、あれ」
 噂をしている女性達の声が一際甲高くなり、手に持つ扇子でともを指差す。その指先には、一人の女性がともの側に寄り、ダンスの誘いをしているようだった。仮面を装着していても、なんとなく背格好や雰囲気が自分に似ていると思ってしまう。
 あの人が本多稲穂という人だろうか。いちるの親友と聞いていたけど、まだ一度も紹介されたことがない。蘭は婚約者、と言われてきたけど、覇者の娘と比べてしまうと随分と自分がみすぼらしく思えてしまう。
 本当に私は婚約者なの……?
 本来覇王が下虜の自分に目をかけること自体がおかしい。その気持ちを現すかのようにいつの間にか佑樹の手を力強く握り込んでいたことに気づき、そっと力を緩めようとした。だけど、反対にぎゅっと手を掴まれて離さないようにしてくる。
 仮面を装着し表情は見えないが、佑樹は佑樹なりに蘭を心配してくれているのだろうか。 それでも彼の優しさや気遣いは余計に蘭を追い込み、悲しくさせた。
 そうしていると、人のざわめきが大きくなり蘭の前にふっと影が落ちた。何だろうと顔を上げると、シャンデリアの光を弾き眩いばかりの金色の髪が目に入る。
 白色の服に身を包んだ華やかな青年が目の前にいて、彼がそっと手を差し出してきた。
「と、とも……く」
 しっと自分の口に指を当てて、その名を伏せるように促される。こくこくと頷くと、ともがふっと唇に笑みをはいた。
「麗しいお姫様。どうぞ、この僕と踊ってくださいませんか」
 うやうやしくお辞儀をし、この手を取ってくれとアプローチしてくる。みんなの目が興味津々に見てくるから、身体が固まって動けずにいた。そんな気持ちを察してか、ともが佑樹と繋がっている手を優美ともいえる仕草で解いて、自分の手に取る。
「さぁ、行こう」
 ともに促されてホールの中央に踊り出る。
「ま、待って、私、ダンスなんて……」
「大丈夫、僕に身を委ねて」
 ともが近寄ってきて蘭の耳に優しく声をかけてくると、彼とのダンスが始まった。踊るなんて出来ないと思っていたのに、彼のエスコートが美味いのか本当に何とかなっている。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」
 ともがダンスの最中、いたずらめいた声で言ってきて気持ちが軽くなった。ともがこちらに合わせてくれるステップに小気味よくなり、いつの間にか唇に笑みが浮かぶ。
 先ほどまで胸によぎっていた疑問も、不安も、ともが一番に選んでくれたことですっかりと飛んでいく。
 くるくると回り、綺麗なドレスの裾をひらめかせ、彼の手を取ってダンスをしていると気持ちが晴れやかになった。
一曲踊り終わる頃には気持ちがよくなり、ともと同時にお辞儀をして手を離そうとした。
――が、すぐさま手を引き寄せられ、肩口に顔を埋められる。
「ごめんね、不安にさせて。だけど、もう少しだけ待っていて」
 蘭の心を見透かしたように、優しくそれでいて甘い言葉を囁きかけてきた。
 どういうことだろう、とともを凝視していたところ今度は本当に手を離される。唇に笑みを留めたままあっという間にともが蘭の前から去っていった。真意を問いただそうと思っても、人垣に姿を消してしまい後を追えない。
「蘭さん」
 佑樹に声をかけられ、はっと立ち止まる。そうだった。今日は佑樹がホスト役を買ってくれていたのだ。ともが最初にダンスの相手として自分を指名してくれただけでも良しとしなければ。
「喉が渇いていませんか?」
「ええ、はい」
「あちらにアルコールやジュースがありますから行きましょう」
 佑樹に促され、蘭は人並みを縫うように歩いてドリンクカウンターの前までやって来た。バーテンダーに声をかけ、今日はアルコールではなくてジュースを出してもらい、佑樹と軽くグラスを合わせた後、喉を潤わした。
「佑樹さんは、踊らないんですか? もし、誘いたい方がいたら遠慮なく行ってくださいね」
「え、いや、俺は……」
 佑樹が言葉を詰まらせて、仮面越しにじっと蘭を見つめてくる。もしかして踊れないのに、無理に行けと言ってしまったのだろうかと心配になった。
「あ、ダンスじゃなくても、今日はご両親は来ていないんですか? 挨拶で席を外しても大丈夫ですからね」
「そ、そうですね。招待されているので来るはずです。えっと、でも、今日は蘭さんの側にいると決めているので大丈夫です」
「そう……ですか……佑樹さんっていい人ですね」
「お、俺がですか?」
「はい。本当はとも君ともっと仕事の話とか、これからの話をしたいはずなのに、いつも私のお守り役ばかりで。それでも、文句一つ言わずに一緒にいてくれるから」
「そうでもないですよ……」
「えっ?」
 まさか佑樹からそんな風に返ってくるとは思わず、目を瞬かせて彼の仮面越しの顔を見上げる。
「あ、すみません。謙遜ですよね。私ったら、そのままの意味に取ってしまい、驚いちゃってごめんなさい」
「それは過大評価しすぎで。蘭さんこそ嫌でしょ? 俺の相手なんて。家朝様のようの華やかさもないですし」
「そんなことないです! 佑樹さんは格好良いですよ」
「ありがとうございます。だけど、本当に俺を過大評価しないでください。俺はこう見えても、蘭さんに言えない醜い気持ちを心の中に飼っているんです」
「醜い気持ちですか?」
「はい。容姿を頑張って磨きあげても、性質は賎劣(せんれつ)で低劣なんです」
「せん……れつ……?」
 何か大事なことを言っているのだと思ったが、恥ずかしながら佑樹の言った言葉の意味が分からず首を傾げてしまった。
「意味を知らない方がいいですよ。俺としてもそちらの方が都合がいい。ほら、蘭さん。グラスが空です。もう一杯いかがですか」
「あ……はい」
 本当は意味を知りたかったが、今ここで聞いても佑樹は教えてくれなさそうだから一旦は諦めることにした。話を引っ張りすぎて空気が微妙になっても嫌だし、佑樹がせっかくお共をしてくれているのだから、気分を害させてしまうのも悪い。
 佑樹に新しいグラスを渡されると、そこに香りの良いハーブティを注いでくれた。もう一度グラスを掲げて乾杯の音頭を取ろうとしたところ、蘭のグラスが後ろからすっと取り上げられた。何かと思い、後ろに振り返ると褪せた金髪の男性が蘭のグラスを取り上げたまま口元に笑みを浮かべている。呆然としていると、蘭の変わりに佑樹が隣に立ってくれて金髪の男性に物を言ってくれた。
「失礼ですが、そのグラスを彼女に返していただけませんか」
「今日は無礼講やで? そんな堅苦しいこと言わんと、アルコール飲んだら?」
 男がへらっと笑ったかと思うと、仮面をすっと外して自分の顔を見せる。それを見た佑樹が驚いて、自分の仮面を慌てて外すと深くお辞儀をする。
「こ、これは豊臣様、失礼しました」
「秀樹でえーよ。なんや、自分が伊達家の跡取り? へぇ」
 そこに立っていたのは秀樹で、恐縮している佑樹のことをじろじろと上から下まで眺め回した。
「自分、イメチェンしたん? 聞いてた話と違うからびっくりやわ。もっとむさい男かと思うたけど。まぁ、ええわ。それより、蘭ちゃん久しぶりやな〜」
 秀樹が先ほどよりにやけた笑顔で人懐こく手を振ってくる。
「あ、どうも。お久しぶりです。秀樹さん」
「なんや、もっと喜んでええんやで? こう、激しく抱擁してくれても」
 秀樹がグラスを持ったまま両手を広げ、胸に飛び込んで来いという格好をするけど、蘭はそのテンションについて行けず、固まったままになる。
「はぁ〜冷たいわぁ、蘭ちゃん。まぁ、あんまりちょっかいかけると、ともに怒られるしな。俺は女の子引っ掛けてくるわ〜」
 取り上げたグラスを、はい、と蘭に返し秀樹は手をひらひらと振った。立ち去って行く秀樹を見つめ、蘭はなぜかぽろりと自然に言葉をこぼした。
「相変わらずですね、秀樹さんは」
 それに驚いた秀樹はすぐさま振り返り、目を大きく見開いた。
「今、なんて? 蘭ちゃん」
「あ、いえ、失礼しました。私、なんでこんなことを言ったんだろう」
「なんや、記憶が戻ってきたんかと思うたわ。ま、遊びはほどほどにするわ。じゃ、またな」
 今度こそひらりと片手を振って、秀樹はその場を立ち去って行く。彼が完全に人波の中に姿を消してからようやく佑樹がほっと息をついた。
「はぁ……びっくりした。初めて間近で見ましたよ。そうか、西から出て来ているんですね」
「佑樹さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ。驚きましたけど……蘭さんは親しいみたいですね」
「あ、そうなのかもしれません……佑樹さんには言っていないんですけど、私、記憶が一部なくて……どうやら、記憶をなくす前に親しかったようです」
「え……記憶がないって本当だったんですか」
 言った後で佑樹がしまったという風に顔を顰めて、口を噤んだ。どうしてそのことを知っているのだろうと思ったが、ともから聞いているかもしれないし、別邸にいるいちるからかもしれないと思えば変ではない。
「だから、たまに変なことを口走るかもしれませんから、気にしないでください」
「え……ええ……」
 なにか思い当たることがあるのか、佑樹の表情が曇った。
「私、何かしましたか?」
「い、いいえ、大丈夫です。何もありませんよ」
「それならいいんですが。今日の朝起きたら、知らない花が耳に飾られてあって。その記憶もないから、本当におかしくなってしまったのかと思って」
「あ……」
 佑樹が驚いたように目を見開き、そのまま固まってしまった。その花に覚えがあるのかと思ったが、彼とは昨日別行動だったはずだし、会っていないと思う。
「そんな神妙な顔をしないでください。アルコールを飲み過ぎで記憶をなくしているだけなので」
 場を明るくしようと冗談混じりに言ってみたのだが、佑樹は何も言わずに仮面を装着して表情を蘭から隠した。
「……その花の花言葉調べてみたらどうですか」
「え……?」
「いいえ、何でもないです。ああ、お腹が空きましたね」
 花言葉を調べる……。佑樹は日常会話の一環として何気に言ったのだろうが、なぜか蘭にはその言葉が胸の中に残った。帰ったら調べようと思いつつ、今度は立食出来るテーブルに向かう佑樹の後を追う。そこで佑樹が皿に色々なものを載せてくれて、軽く話もしながらお腹を満たすことが出来た。
「シアターでは映画上映、舞台ではジャズ、ああ、他の会場ではビンゴ大会もありますよ」
 軽く食事が済んだ後、絵の個展を見て回ってきたところだった。様々な催しものがされている中、佑樹がパンフレットを開いて蘭に次にどこに行くかを提案してくる。
「そうですね〜」
 ダンスホールに戻って来て蘭は次に何をしようかと佑樹と考えていたところ、可愛らしいピンクのドレスを来た女性が目の前にやってきた。
 その女性はちょこん、と裾を持つと華麗にお辞儀をして佑樹に向かって顔を上げる。
「素敵な方、私と一緒に踊ってくれませんか」
 女性から誘われた佑樹は戸惑いを見せ、じりじりと寄ってくる女性から距離を取った。
「あ、あの、申し訳ありませんが踊れないんです」
「まぁ、そんなこと気にしないで。私がエスコート致しますから」
 佑樹に断られても女性は全く気にしていないようで、口元に笑みを浮かべている。蘭は関心しながら、佑樹が手に持っているグラスをすっと取り上げた。
「ら、蘭さん?」
「ほら、行ってください。私はここにいますから。女性にここまで言われたら、その手を取るものですよ」
「いや、でも」
「いいんです。きちんとここで見守っていますから」
 なかなか煮え切らない佑樹の背中をぐいっと押して、差し伸べられている女性の手を取るように促した。
「で、では、一曲だけ……」
 佑樹は蘭に振り返りながらも、その手をしっかりと女性に掴まれてずるずると引きずられて行く。佑樹にとって素敵な出会いになったらいいな、と微笑ましく彼の後ろ姿を見送った。しかし、踊れないと言っていたから大丈夫かと思っていていたら、それはただの謙遜だということに気がつく。エスコートされるどころか、佑樹は反対に女性を上手くエスコートして華麗に踊っているのだ。
「そうだよね……」 
 彼は覇者の息子で、様々な教育を幼い頃から受けているはずだ。相手の女性も覇者の娘なのか一切動きに無駄がなく、一つ一つの動作が美しく洗練されていた。なんだか急に佑樹が遠くに感じ、そっとグラスに口をつける。渋い香りが喉を通りすぎ、これは佑樹から取り上げたワイングラスだったと思い起こす。
「アルコールは飲まないって決めてたのに」
 楽しそうに踊っている人々や、親しそうに歓談している人々の中で蘭は世界から取り残されたような疎外感を覚えた。いくら綺麗なドレスを与えられてそれを着ても、綺羅びやかなダンスホールでともと踊ったとしても、自分は覇者や貴族ではない。知り合いがいたとしても、友達と呼べる人はいなかった。いちると仲良くなったけど、彼女と出会ってはまだ日が浅いし、彼女には稲穂という親友がいる。その稲穂はともの婚約者、だという話をちらほらと耳に入れてしまったし、きちんと紹介してくれるかも怪しい限りだ。
 ああ、人魚の里に帰りたい……。
 こんなことを言ってはよくしてくれるともに申し訳ないが、やはりこの場所は自分には似つかわしくない。
 志紀、アユリ、公人君、真樹ちゃん、里の人々……それに和葉さん。こことは真逆の場所であるが、太陽の下で身体を動かしていた頃が懐かしかった。
 私が本当の婚約者でなければ、帰れるだろうか?
 人魚の里のことは義鷹に聞けば分かるだろうが、なぜか距離を置かれているためあれから彼とは会っていない。それでも、今日の夜会には来ているかもしれなかった。ここにいると約束したばかりなのに、いつの間にか義鷹の姿を探してしまう。
 冷たくされてもいいから、彼に人魚の里の近況を教えてもらうことは可能だろうか。一曲終わるまでまだ時間があるから、その間だけでも義鷹を探しに行こう。そう決めて、ワイングラスをテーブルに置いて振り返ると、いつの間にかそこに青年が立っていた。
 じっとこちらを見下ろしている青年に戸惑いながらも、会釈して横を通り過ぎようとしたら険を含んだ声がかけられる。
「良い待遇になれば、昔の男のことは忘れるのかな?」
 その人の声に聞き覚えがあり、振り向くと同時に彼が仮面を外す。
「あ……」
「蘭、君に会いたくて来たのに、随分と素っ気ないんだね。レディではなく、野猿扱いした方が君はいいのかな」
 その嫌味な物言いや、怜悧な美貌はなに一つ変わっておらず蘭は何度も目を瞬かせて彼を見つめた。
「長虎様……」
 どうしてここに、と聞こうとした問いかけを慌てて止める。彼も名家の覇者の後継ぎだ。招待されていないわけがない。そんなまぬけな質問をすれば、また倍になって嫌味が返ってくるだろう。それでも対峙した彼と何を話していいか分からず、口を閉じたままになってしまう。
「……で、今は徳川家朝とどういう関係? ああ、いや、今川義鷹と一緒に出席しているの? ああ、でもさっきの男は誰?」
「え、えっと、長虎様……」
 一気に質問されて、こちらもどう答えていいか戸惑ってしまう。じりじりと鬼気迫る勢いで寄ってくるから、どうしても彼から距離を取ろうと後ろに下がる。そんな時、曲が終わろうとして視線を佑樹の方に向けた。
「大丈夫、彼はまだアキに捕まえてもらっているから」
「えっ、あれってアキちゃんですか?」
 ピンクのドレス姿の女性はアキのようで、どうやらこれは佑樹と蘭を引き離す作戦だったようだ。
 佑樹が手を離そうとしたところ、強引にその手を握り締められてアキが引っ張っている。確かにまだ解放してくれなさそうで、それをぼんやり見ていたら長虎に手を取られた。
「踊ろうか、蘭」
「え、でも、私、踊れません」
「そんなの分かってる。蘭はただ僕に身を任せてくれればいい」
 怜悧な美貌が崩れ、ふわりと微笑まれたら何とかなると思うから不思議だ。久しぶりに会ったけど、元気にしているようで安心する。
 長虎にエスコートされ、蘭はその日二度目のダンスを踊る。長虎は仮面を装着するのを忘れたままだから、周りから黄色い声がかかった。その中には長虎の別荘で見たことのある親衛隊の女性もいて、身が強張る。集中出来ずにいると、長虎がぐいっと手を引き寄せてきて、自分の方に顔を向かせた。
「あの、私、やっぱり戻ります」
 また親衛隊の女性にやっかみでもされたら嫌だし、長虎にも迷惑をかけてしまうかもしれない。手を離そうとしたけれど、彼の力は一向に緩まずますます強く握られてしまう。
「そう言えば、蘭が生卵をぶつけ返したことがあるね。あれは、おもしろかったな」
 別荘におしかけてきた親衛隊と一悶着あり、蘭が生卵をお返ししたことがあった。それを思い出したのか、長虎がくっくっと楽しそうに笑う。
「あ、あれは、長虎様のお父様に当たりそうになったからです」
「いや、でも、もっとやり方はあったんじゃない? 流石、野猿だね」
「もう、長虎様。その言い方はやめてください」
 蘭は恥ずかしいことを思い出してしまい、顔を赤らめながら長虎を軽く睨みつけた。そうすると長虎の瞳が和らいだものになり、きらきらと光を反射して輝きを増す。その美しい瞳に吸い込まれるように見つめてしまう。
「ほら、もう僕だけしか見えない」
「あ……」
 蘭がダンスに集中出来ていないことを知って、長虎は笑えるような昔話しをして場を和めたのだろう。
「それに、蘭は仮面をしているし僕が誰と踊っているか分からないよ。上等なドレスも着ているから、覇者の中でも名家の娘だと思われているだろうし、変にちょっかいは出されないはずさ」
 長虎が微笑むと蘭はくるりとターンをさせられ、彼の腕の中にすっぽりと納まる。
「あの、近すぎませんか」
「そうかな?」
 ほとんど唇が触れそうなほどの距離に長虎の顔が近づいていることにどぎまぎとし、わざと視線を逸してみた。
「ね、こっちを向いてくれないかな」
 耳に甘い囁きが滑り込んできて、その後わざとらしく吐息を吹きかけてくる。
「な、長虎様!」
「やっとこっちを見てくれた。あまりよそ見しているとこのまま奪い取って連れ去るよ」
 彼の瞳が冗談ではなく本気に言っているように見えて、蘭は言葉を詰まらせたまま長虎を見上げた。
「今川義鷹はいないのかな? あいつが見ていれば好都合なんだけどね」
 長虎は義鷹に対抗心を燃やしているようだけど、それは大きな勘違いだ。確かに長虎の前から蘭を連れ出したのは義鷹だ。だけど、ともが探しに来てくれて。
もし、蘭の相手がともだと分かれば、長虎にも迷惑をかけるかもしれない。長虎が覇者の中でも名家の出であっても覇王には敵わないだろう。
「わ、私は……」
 徳川家朝の婚約者、のようなんです。と言いかけたが言葉にならなかった。それは稲穂という存在が出てきて、自分自身に自信がなくなったからだ。どう言っていいか分からず、固まっていたところ曲が終わる。
「蘭、出ようか」
 長虎に手を掴まれたままでいると、それを目ざとく見つけたアキが飛んできた。
「長虎、今度はボクの番でしょ? 何のためにこの男と二曲も踊ったと思っているの」
 アキのすぐ後ろに佑樹が連れ立ち、複雑そうな顔で長虎を見つめている。
「挨拶が遅れたね。僕は浅井長虎。君は?」
 長虎の目がすうっと細められ、剣呑な眼差しを佑樹に向けた。名前を聞いた佑樹は慌てたように仮面を外し、きょろきょろと視線を彷徨わせながらお辞儀をする。
「あ、あの、俺は伊達佑樹です。はじめまして」
「伊達……?」
 長虎の顔がにわかに曇り、先ほどより一層冷たい空気を滲ませた。そんな態度を取られると佑樹の悪いところが出てしまい、おどおどとし始める。
「へぇ、そう。謀反人の家系の者がよく大きな顔をしてこんな場所にいられるもんだ」
「そ、それは……」
「謀反人……?」
 ついその言葉が引っかかり、声に出すと長虎と佑樹がはっと口を閉ざした。佑樹の家系が謀反人とはどういうことなのか聞いてみたい気もしたが、なんとなく聞いてはいけない気がして口を噤む。
「あー、もう。長虎はこいつとやり合っていてよ。蘭、ボクと行こう!」
 アキが微妙な空気を蹴散らすような明るい声を出して、蘭の手を掴むとダンスホールから抜け出した。明かりの灯る庭園まで来て、アキが噴水前のベンチを指差した。
「あそこに座ろう、蘭」
 二人でベンチに座ると、アキが仮面を外して綺麗にセットした髪をばさばさと掻き乱す。
「女装は好きだけど、今日は堅苦しいな。コルセットなんてするんじゃなかった」
 アキがぶつぶつと文句を言いながら、自分の腰に手を当ててコルセットをずらしている。なんとなくだが背も伸びたし、それと同時にすらりと手足も伸びて以前より綺麗になっていた。それでも、彼は男だったことを思い出し、そのアキに女らしさが負けているような気がして複雑になる。
「なぁに? やっぱりあんたよりボクが可愛いってショックを受けてるの?」
「う、うん。アキちゃん綺麗になったね」
「そう? まぁ、当たり前なんだけどさ」
 相変わらず自分に自信を持っているアキにくすりと笑みが漏れてしまう。笑っているとアキの手がにゅっと伸びてきて仮面を取られた。
「あんたもきちんと顔を見せて」
「う、うん」
 長虎と同じく野猿は変わらないね、と言われるのを覚悟しておずおずと顔を上げてアキを見た。アキの繊細な指が蘭の頬に伸び、頬にかかる髪を丁寧に振り払う。
 そのまま頬に手を添えて、指先だけで肌を堪能するようになぞってきた。
「アキちゃん、化粧が手についちゃうよ」
「ふうん、肌の乗りがいいじゃん。良い物使っているんだね」
「え、そうかな」
 情けないが全てともが用意してくれた化粧品であり、それが何のブランドかも蘭は知らなかった。
「髪はどうなの?」
 アキの手が次に髪へと伸び、柔らかく表面を掠めていく。それだけでは納得行かないのかアキが近寄ってきて髪に顔を埋めると、思い切り香りを吸い込んだ。
「うーん、これもかなり高級なシャンプーだね。いいな」
「う、うーん」
 これも同じくともが用意してくれたもので、蘭は何も考えずに使っている。確かに髪に艶が出てきて、さらさらになるなとは思ったけど、上級階級のアキでさえ羨ましがる品物だったとは。
 ほとんど抱き寄せられたような格好のまま、アキの手が今度は蘭の腕へと滑り落ちた。
「肌も滑らかじゃん。お風呂に香油でも入っているの? それともボディクリーム?」
「え、えーと、両方かな」
「やっぱ、ここまでしないと駄目なのかな」
 ふいに漏らされたアキの言葉が何を意味するか分からなかった。
「ねぇ、何使っているのか教えなさいよ」
「いや、それが……」
「なによ、勿体ぶっちゃって。じゃあ、ボクが当ててあげる」
 アキの指がつーっと蘭の腕をなぞり、優しくそれでいてねっとりとなぞっていく。その感触にぞくりと背が震え、肌が粟立ってしまった。
「蘭ったら、感度いいんだ」
 アキが意地悪く、くすくすと笑うから余計に恥ずかしくなってしまう。アキから身を離そうとしたが、それよりも早く彼が距離を詰めてきた。
「だーめ。何を使用しているか当てるんだから。あんたはじっとしてて」
「う、うん」
 言われた通り身体を固まらせていると、アキの顔が蘭のデコルテ部分に落ちてくる。アキの吐息が胸の谷間に吹きかけられ、思わず肩を竦めてしまう。
「アキちゃん、悪戯しないで」
「悪戯じゃないし。とにかく黙ってて」
「だ、だけど……」
 アキの舌がべろりと蘭のデコルテを舐めあげ、粘つく滴りの筋を肌に残していく。
「アキちゃん……」
「今、舌で味わって当てようとしているんだから、集中させてよ」
 そう言いながらアキの舌が鎖骨を舐め回し、胸の谷間にまで這わされた。それが続くにあたってアキの吐息が僅かに乱れ出し、舌だけではなく彼の手が背中や腰を撫で回す。
「ああ、蘭……蘭……会いたかったよ……」
 アキの声が熱に浮かされたように上擦り、まるで愛撫されているような錯覚に陥ってしまい、どうしようかと思っていたところ。
「アキ! どこにいるんだ」
 蘭を探しに来た長虎の声が聞こえてきて、アキの動きが止まる。アキが蘭の肩口に顔を埋めたままぼそりと呟いた。
「……いつも、いつも長虎はいいところで邪魔するんだから」
「アキちゃん?」
「あ〜あ、どこのブランドか分からなかった。今度、会った時まで調べておきなさいよ」
 暗い雰囲気を滲ませていたのは気のせいだったのか、アキが顔を起こしてにっこりと明るく微笑む。いつものアキだと思い、蘭はほっと胸を撫で下ろした。
「もう、長虎はうるさいんだから。ほら、付き人も来ちゃったから、行くよ」
「いや、僕はもっと蘭と話しを……」
「いいから、いいから。じゃあ、またね蘭」
 アキが長虎の背を押して、二人でぎゃあぎゃあと言い合いをしながら庭園を去って行く。長虎と一緒に探しに来てくれた佑樹がほっとしたように表情を崩し、蘭の目の前に立った。
「佑樹さん、ごめんなさい。置いて行ってしまって」
「いいえ、みなさんお知り合いだったんですね。それなら良かったです」
 走り回ったのか、佑樹がはぁはぁと肩で息をしている。
「佑樹さん、横に座りますか?」
「あ、では、お言葉に甘えまして失礼します」
ここまで長虎に引き連れられ走り回ったのか、彼の頬にきらりと光る汗の粒が見えてしまい、申し訳なく思ってしまった。ポケットからハンカチを取り出し、佑樹にそっと渡すと彼が戸惑うようにその手を見つめる。
「これ、よろしければどうぞ」
「え、いや、でも」
 慌てた様子で手を振るが、蘭が取ってくれるまで待っているとようやく小さく会釈をして取ってくれた。それでもハンカチを汚したくないのか、佑樹が手に持ったまま困ったように眉を顰めている。
「あの、使ってください」
「ええ、そうなんですが……綺麗なハンカチなので勿体なくて」
「いいんです。一緒にいると言ったのに、私が離れてしまって佑樹さんを振り回してしまったので」
「いえ、振り回されたなんて思っていません。ただ、俺が不甲斐ないだけで……元はと言えばあの女性の誘いに乗ったのが悪いんです。あの人が蘭さんの知り合いで今は心底ほっとします。あれが、あなたを狙う悪い奴らの策略だったらと思うと……」
 彼は顔を俯かせ、ハンカチを持つ手を微かに震わせる。確かにそういう危険性を考えていなかった蘭は、今頃深く反省する。仮面をしていても秀樹や、長虎、アキには蘭だと分かっていたようだし、この人混みにまみれて悪い人達も紛れこんでいるかもしれない。
 それでも。
「大丈夫ですよ。わざわざ私を狙う人なんていませんから」
 佑樹の気持ちを少しでも軽くしようとして、慰めの言葉をかけてみたけど彼が弾けるように顔を上げた。
「何を言っているんですか。あなたは覇王の婚約者ですよ。それを知った者が狙う可能性だってあります!」
 佑樹の張り上げた声に驚きもするが、その瞬間反発するような気持ちが湧き出した。それはずっと心の奥でくすぶり続けているものだ。
「……私、本当にとも君の婚約者なんでしょうか」
 聞きたくても怖くて聞けなかった疑問を口に出した途端、なぜかもう戻れないドアを開いてしまったような気がした。
「……え?」
 勢いを増していた佑樹の声に驚きが混じり、こちらを見る目は大きく見開かれていた。その様子を見ると、彼は何かを知っていると感じる。
「な、何を言っているんですか。そうじゃなきゃ、俺をあなたに付けるはずがありません」
「でしたらどうして、夜会の時にとも君は一緒にいてくれないんでしょう。こういう場でこそ婚約者をお披露目するのでは?」
「そ、それはきっと何か家朝様にも考えがあるんですよ」
「誰もとも君の婚約者が私であることを知っている人はいません。声をかけてくれたのは昔馴染みの人達だけですし。その人達も知らないようでした」
「ち、違います、あなたは――」
「本当は本多稲穂さんがとも君の婚約者じゃないんでしょうか? そう言う声がちらほら聞こえてきました」
「それは……」
 とうとう佑樹は言葉を詰まらせ、柳眉を曇らせてしまった。
「お願いです、知っていることがあれば教えてください」
 畳み掛けるように言うと、佑樹の瞳に苦しげな色が揺らぐ。
「お、俺は、なんて言っていいか……」
「知る限りでいいんです。教えてください」
「そう言われましても、俺も分からないことが多くて……」
「知っている範囲でいいんです。お願いします」
 佑樹が蒼白な顔をして視線を逸らすと、手に持っていた蘭のハンカチをぽとりと落としてしまう。それを取る気力もないのか、両手をぶるぶると震わせて項垂れる。
 後もう少しで佑樹が口を開いてくれそうな気がして、蘭は根気よく待っていたらその場に不似合いな声が届いてきた。
「俺と、踊らないか」
 シリアスな雰囲気を漂わせている中、空気を読まない誘いの手が入ってきて蘭は煩わしさを感じながら顔を上げる。
「今、取り込み中で……」
 去ってもらおうと強い口調で発した言葉は途中でぴたりと止み、目の前に立つ男に釘付けになった。風が吹き荒れ、蘭の視界が男の漆黒の髪一色に彩られる。
 月を背に立つ男のオーラに圧倒され、呆然と見上げてしまう。仮面の奥から覗く夜露に濡れた黒曜石の瞳は燃えるようで、それでいて哀情に満ちたものだった。
 なぜか、言葉が出なかった。
 男の引力に惹かれるように蘭はただただその男を見つめる。そして、男も蘭を見つめ返してきて言葉を発さなかった。
「あ、あの、蘭さん、場所を変えましょう」
 おかしな空気を察したのか、佑樹が蘭に声をかけてくる。そこで蘭は我に返り、何度か目を瞬かせた。ここは佑樹の言う通りこの場から離れた方が良さそうだと思ったが、どうしてか身体が動かなかった。
「ほら、最後の曲だ。踊るぞ」
「えっ……?」  
 男はこちらのことを一切気にしていないようで、すっと手を差し出してきた。庭園に漏れてくる軽やかなワルツ曲がますます場に似つかわしくないと思いながら、どうしてかその手を振り払うことが出来ない。
「ま、待ってください。勝手に困ります!」
 佑樹が蘭の変わりに断りを入れるが、男は少しだけ顔を向けるとふっと口元を吊り上げた。
「外野は引っ込んでろ。お前はそこで見ていればいい」
「なっ!」
 不遜な物言いをされて、温厚な佑樹もかっと顔を赤らめる。争いが始まるかと思ったが、男が蘭の手を掴むと無理やりベンチから立たせた。
 そしてワルツに合うように手を組まれた瞬間、全身の血が沸騰するような衝撃に見舞われる。これまで異性に触られてもこんな感覚は経験したこともなく、身体の奥からなにかが目覚めるような気持ちになった。
「わ、私、踊りは下手で……」
 声が掠れて上手く言葉に出来ない。暗闇に溶け込むような黒い服に身を包む男と、庭園で踊っているなどあまりに現実味がなかった。
「気にするな。俺が踊りたいだけだ」
見知らぬ彼に強引ともいえる態度で手を握られているというのに、ふいに胸から熱いものがこみあげてきて涙が溢れ出しそうになった。
 なんでだろう。
 彼に初めて触れるはずなのに、しかしそれでいて郷愁すらも思い起こす懐かしい感覚に胸が騒ぎ、彼の踊りに合わせたままでいる。このまま振り回されてはいけないと感じながらも、この胸の内に渦巻く正体を知りたかった。
「最初に踊る男より、こうして最後に踊る男の方が印象的だろ?」
 すっと伸びる鼻梁がこちらを見下ろし、美しく煌めく瞳を意地悪く細める。その言い様はもしかして最初から蘭のことを見ていたのだろうか。ともと踊ったことを知っていて、そんなことを言っているのだろうか。急に警戒心が芽生え、手を離そうとしたが余計に力をこめられて彼の方に引き寄せられる。
「逃げるな。何も悪いことはしていない。それにお前はともの婚約者じゃないだろう」
 決定的な言葉を言われたような気がして、蘭は思わずその男の顔を見上げた。
「あ、あなたは……誰?」
 名前も身元も知らない彼の言葉を鵜呑みにするのはおかしい。なのに、どうしてか蘭にはそれが真実のような気がしてならなかった。
「俺を、覚えていないのか」
 初めて彼がふっと寂しげな声を漏らし、なぜかそれに対し申し訳なさが募る。
「わ、私、記憶がなくて……」
 相手が誰かも分からないのに、言い訳がましく自分のプライベートなことをぺらぺらと喋ってしまう。
「そうか……。やっぱり記憶がないのか」
 彼が泣いてしまうのではないかと思ってしまい、ぎゅっと手を握り締めた。
「ごめんなさい……。ごめんなさい」
 誰に謝罪しているのか自分でも分からなくなるが、どうしてもその言葉を彼に伝えたかった。
「謝るのは俺の方だ」
 音楽はまだ奏でられているのに、彼がぴたりと動きを止めてじっと蘭を見下ろす。彼の瞳が悲しみに彩られた瞬間、蘭は男の腕の中にすっぽりと収まっていた。抱き締められて驚くはずなのに、その時感じたのは彼の身体から香る清々しい匂いの懐かしさだった。
「済まない。俺がお前を守っていれば……蘭」
 彼が切羽詰ったように蘭を掻き抱き、ぽつりと放たれた名前を聞いた瞬間、涙腺が崩壊し、溢れる涙をせき止められなかった。なぜか溢れてくる涙を止めることが出来ず、温かくも力強い彼の腕の中で泣いてしまう。
 こんなの、おかしい。
 そう思っていても、感情だけは待ってくれない。彼が優しく髪を撫でてくる心地よさも、身を折るほど抱き締めてくれる様も、なぜかその全てが愛しくも苦しかった。
 あなたは、誰?
 志紀を想う穏やかな気持ちではなく、全てを奪い取られそうな激しく荒々しい気持ち。
 こんな激情が自分の中にあるなんて知らなかった。
「泣くな、泣くのは今度再会した時だ」
 彼の力が緩み、硬く節くれだった男らしい指が蘭の頬の涙を拭っていく。蘭はその言葉の意味を理解してはっと顔を見上げた。
「行ってしまうの?」
 なぜ、こんなことを言ってしまうのか分からない。誰かも知らない彼に追いすがるような言葉をかけてしまうなんて。それでも去って欲しくなくて、蘭が彼の服を掴もうとしたら後退されてしまった。
「お願い、待って! 顔を見せて」
 彼の服を掴むはずだった手が空を切り、少しでもこの場に留まらそうと言い募る。彼は蘭にくるりと背を向け、顔に装着している仮面に手をかけた。そしてゆっくりと外し、僅かに顔を向けてくる。
 風が吹き、彼の滑らかな頬に髪がかかる。夜露のように濡れた切れ長の瞳、すっと伸びた鼻梁、肉感的な唇の全てに吸い込まれそうになり、じっと見つめていたら。
「俺に見惚れんな」
 からかうような口調でそう言うと、彼は口元に笑みを留めたままさっと仮面を装着して今度こそ本当に去って行く。
「あ……」
 少ししか顔を見ることは出来なかったが、その一瞬は蘭の目に焼き付いて離れてくれそうになかった。
 どうしても彼のことが気になり、暗闇に消えるまで目で追ってしまう。すっかり姿が消えていなくなっても、切ない気持ちは押さえきれなくてその場に佇んでいた。
 彼の存在に圧倒され、余韻に浸っていたところ楽しそうな笑い声が耳に届いてくる。
 女性のきゃあきゃあという笑い声と、なまりのある関西弁が聞こえてきたかと思えば、そこにふらっと現れたのは秀樹と取り巻きの女性達であった。
「蘭ちゃん、また会ったなぁ〜」
 ほろ酔いなのか秀樹が両腕に女性を抱えたまま、千鳥足で固まったままの佑樹と蘭の前で立ち止まった。
「秀樹さん……」
 夢のようなひとときから一気に覚めたような気になり、どこかげんなりとした気持ちで秀樹を見てしまう。そのまま立ち去るのかと思えば、秀樹はなぜか蘭の前に止まったままでいる。どうしたのだろうと見ていると、秀樹は両腕に抱いている女性をぱっと離してひらひらと手を振り、どこかへ行けと促した。
 女性達は文句を言いながらも離れて行くのを見て蘭は少々呆気に取られる。にやにやと笑っていた秀樹がしゃきっと背を正して、すうっと笑みを引かせた。
 その変貌ぶりに背筋に冷たいものが走っていく。
「蘭ちゃん、さっき誰と踊ってたん?」
 まさかそういうことを聞かれるとは思わず、虚を突かれた形になる。いつから見ていたのか分からないが、なんとなく見られては行けないものを見られたような気になった。
「それが、名前を教えてくれなくて」
 そう言うと黙り込んでいた秀樹の口端がくっと上がる。そして何がおかしいのか声を立てて笑い出した。
「まさか、ほんまに……こんなことがあるとはな」
 秀樹はくっくと堪えきれないような笑いを漏らし、去って行った正体不明の彼の方向に目をやる。
 そして。
「ええやん、ええやん、おもろなってきたわ」
 秀樹にしか分からないことを呟き、蘭は困惑するばかりだった。そんな蘭のことも眼中にないのか、もう一度秀樹は笑う。
月明かりの下、それはどこか狂気的な熱を宿し、見るものをぞくりとさせるような笑みだった。



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