河畔に咲く鮮花  

     

 

 
  
恋の誘惑と陰謀のマスカレード 前夜祭 秘めた恋 佑樹編
 
佑樹は今日の夜会が始まる前に蘭に渡す山茶花の花を一輪だけ購入した。ピンク色の小さな花びらを咲かせる花は女性的で可愛らしくて彼女にぴったりと思っている。
 本当は両手から溢れるほどの花束を贈りたかったのだが、そんなことをしては家朝の気に障ると思い、自分らしく一輪にした。
 花屋を出た後、街を歩いて帰っていたところいつもと違う変化が訪れる。女性と通り過ぎるたびにちらちらと見られたり、振り返ってくるのだ。挙句は声をかけられてしまい、連絡先まで押しつけられる。こんなこと初めての経験でどうしていいか分からずに、シャツのボタンを無意識に弄ってしまう。
 このボタンは蘭のブラウスから弾け飛んだものだった。慌てて自分のズボンのポケットに押し込んだのを忘れていて、クリーニングに出してくれるメイドから返された。
 なにを思ったか、佑樹は新調したばかりのシャツのボタンの一つをこのボタンに付け替えて、彼女がいつも側にいるような感覚を味わっていたのだ。
 蘭に指摘された時、バレたかと思ったけどなんとか誤摩化すことが出来た。それは、彼女が信じやすいという性格だったから良かったものの、他の人ならこうはいかなかったと思う。ボタンを指で弄りながら、夕日に暮れる街並みを急ぎ足で別邸へと向かった。
 夜会に出る前に風呂に入って汗を流し、買ったばかりの香水をつけて清潔にしなければならない。
 浮きだつ気持ちに逸りながら、別邸の近くまで来たところあの男が目の前に現れた。
 今川義鷹だ。
 この暑い日に彼は前と同じように黒い洋服に身を纏い、そこに立っているだけでただならぬ気配を放っている。彼が流れるように視線をこちらに向けた途端、僅かに目を瞠ったのに気づいた。
「随分と雰囲気が変わられましたね。一瞬、誰か分かりませんでした。ああ、もちろん素敵だと言っているんですよ」
 褒め言葉に聞こえないほど、冷たさを滲ませてこちらに優雅な仕草で歩いてくる。漂う威圧感に息が詰まりそうになり、一歩後ずさりしてしまった。いくら外見が変わったとしても性格がこのままでは意味がない。恐怖に竦む身体の震えを押さえ、今度は退かずに義鷹をその場で待った。
「連絡をくれないから、どうするのかと思いましたが協力してくれるんでしたね? 今夜はその一歩である夜会が開かれる。とも様に進言ありがとうございます」
 その瞬間、分かってしまった。夜会という提案は稲穂ではなく、義鷹が出したものだということを。
「それに仮面舞踏会など、私の想像以上のものをご提示してくれてありがとうございます。仮面を被れば、いつもと違う自分になれるし、変わることもできる」
 ぽつりとこぼされた言葉に悲哀な色が滲んでいる気がした。
 義鷹の中になにが渦巻いているか知らないが、佑樹にはそこを違う意味に捉えてしまう。
 仮面を被った瞬間、義鷹はその日ばかりは貴族という面を捨てて覇者として変わる。そして覇王の婚約者である蘭に近づける、そういう風に聞こえてしまった。
 それは蘭から義鷹と仲違いしていると事前に聞いていたからだ。マスカレードを機会に、蘭の側に近づいて許しでも願うのだろうか。佑樹の中にいい知れようのない感情がこみ上げてきて、つい言い返してしまう。
「お言葉ですが、今日の夜会は前夜祭になっていて覇者の一部しか招待されていません。貴族の皆さんが入れるのは、本祭の明日からのはずです。いくら徳川家と懇意にしていても今川様では入れませんよね」
「ええ、存じておりますよ」
 精一杯牽制する佑樹の言葉を真綿でくるむように柔らかく包み、義鷹はなにも動じていない笑みを浮かべる。その態度に触発されて、佑樹はもっと踏み込んだことを言ってしまった。
「マスカレードの最中は俺が蘭さんのホスト役を務めるんです」
「そうなのですか。大変名誉なことですね。でも、どうしてここで蘭の話が?」
「失礼ですが、あなたは近寄らせません。近寄れば、変なことを吹聴しそうですし」
「蘭にとも様の相手に似合わない、相応しくないと?」
「ええ、そうやって蘭さんを傷つけるのはやめてください。あなたが蘭さんを身請けし、助けて何でも言える立場かと思っているようですが、あまりに酷くないでしょうか」
「よく分かりませんね。佑樹さんにそのようなことを忠告されるとは。あなたも協力者でしょう」
「これは俺の意思でなく、蘭さんの意思です。彼女、あなたに冷たい態度を取られて傷ついていましたよ」
 そこで初めて義鷹の鉄壁の仮面が剥がされた。なにを言っても右に左へと流していく義鷹に動揺が走ったのだ。どうしたことだろうか、彼は口を閉ざしてしまい美しい顔をにわかに曇らせる。
「俺は俺の意思で蘭さんの幸せを願っているんです。だから、協力と言っても、全面的にあなたに力を貸すというわけではありません」
 強気で突きつけると、清々しい気持ちになりこの男に勝ったとさえも思えた。良い気分になりこのまま立ち去ろうとしたところ、今まで黙っていた義鷹の雰囲気ががらりと変わる。
「くくくっ、何も知らないくせに」
 喉の奥からくぐもった笑い声が響き、義鷹の瞳に狂気めいた色がよぎった。そこには貴族然とした優美さや華やかさもなく、佑樹は呆気に取られるばかりだ。
 唇を歪め笑いを立てる歪な態度に、彼の本性を見たような気がして恐怖に身震いする。
「な、なにがおかしいんですか」
 からからに乾いた喉の奥が張りついて、頑張って振り絞った声が上擦ってしまう。
「蘭の幸せを願っていると言うなら、教えてあげましょう。彼女の惚れた男を探してあげるべきです。全力で」
「な、なにを?」
 義鷹の言っていることが理解出来ず、眉を顰めてしまう。そうすると、義鷹が人の悪い笑みを浮かべて足音立てずに佑樹に近づいてきた。
「蘭には心底愛している男がいるんです。それは、とも様ではありません」
 決定的な答えを突きつけられた気がして、愕然とする。そんなの信じたくない、と切望する一方で全てのパズルが揃った気がした。
 以前に家朝と蘭は偽りの恋では、と小さな疑念を持っていたことがある。だけどそれを裏付けるものはなにもないわけで、それは疑念の域を越えないままだった。
「で、でも、蘭さんは幸せそうですよ」
「記憶がないから、いくらでも塗り替えられるでしょう。自分を婚約者だと信じ込ませ、思考を鈍らせる薬を与えて洗脳していく。とも様らしいやり方ですよ」
「そ、そんな……」
 違和感がすっと消えていき、あの蜂蜜を蘭に飲ませる理由を理解してしまう。それはそれで驚きを隠せないが、それよりも蘭の惚れた男を探せと言う言葉の方が佑樹の胸の内を焦燥という形で占めていく。
「き、記憶がなければ、誰が蘭さんの愛している人か分からないじゃないですか」
「そうですね。私も、そこまで教える気はありません。だけど、彼女を幸せにするのは、とも様でもなく、あなたでもない」
「お、俺ですか……?」
 どうしてそこで佑樹が出てくるのか分からず、眉を寄せる。その態度を見て義鷹の剣呑な瞳がすうっとシャツのボタンに向けられた。
「さっきから弄っているそのボタン、女性物ですね」
 図星を差されて、佑樹は無意識に弄っていた指を離した。彼は貴族といっても、佑樹よりファッションについて精通しているだろう。上辺だけの誤魔化しなど聞かないと思い、口を閉ざす。
「それに、その山茶花。花言葉は『秘めた恋』という意味ですね。誰にあげるつもりなんですか」
「え、あの、そんな花言葉が……」
 佑樹の態度を見た義鷹が失言だったとばかりにしまったと顔を顰めた。佑樹はそこで初めて、蘭に対する気持ちを知ったような気持ちになり、顔が熱くなっていくのが分かった。
「えっと、あの、俺……」
「失礼しました。今、言ったことは忘れてください」
 佑樹の知ってしまった気持ちを打ち消すように強い口調で言われるが、一度芽生えた感情はそんなことで消えるわけがない。
「佑樹さん、馬鹿なことは考えないでくださいね」
「馬鹿なこととは?」
 頭の中が蘭のことで一杯になり、ふわふわとした気持ちになって義鷹の言うことが耳に入ってこない。
「こちらが段取りするので、あなたが勝手に蘭を連れ出して逃げないように」
 念を押すように言われるが、それすら遠い声のように聞こえてくる。困ったように柳眉を曇らせる義鷹のことすら視界に入らなくなって、佑樹はこれから始まる夜会に思いを馳せらせた。
 蘭の笑顔が思い浮かぶと、胸がどきどきとしてくる。
 義兄の政春と女性の趣味が同じだと思っていたのは、蘭という女性に好意を持っていたからだ。だけどその好意も、己を満たす欲望の相手という意味で思っていたのに。だけど彼女を欲望の相手として想像し自慰をするのは、そういうことだったのだ。
 それが皮肉にも苦手だと思っている相手、義鷹から気づかされた。
 佑樹はふと大事に持っている山茶花に目を落とし「秘めた恋」という花言葉を思い出すと、まるで自分の立場を物語っているような、そんな気がして胸が絞られる思いに駆られた。
 












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