河畔に咲く鮮花  

     
 
 
 ともの計画A

ともの腕を切りつけたナイフは骨まで達しておらず、出血の割に傷は深くなかった。
さすが、プロだ。
 三角巾の包帯に吊り上げられた左腕に目をやり少しだけ動かしてみる。
「つっ――」
 大きく見積もって全治二ヶ月といった診断を受けた。痛みはあるけど、蘭の心を掴むならこのくらい安いものだった。
蘭の記憶が一瞬戻った時は少し焦ったが、雪だということまでは思い出せなかったらしい。
 だから僕が昔も彼女を庇ったその人物だったと、そう思わせた。
 蘭には上級階級の女性を狙う通り魔だったと言って誤魔化している。あの男にはたくさんの金を渡したし、もしこれ以上なにかを言ってくるようなら徳山に処理を任せている。
 さすがにやりすぎだ、と徳山に窘められたが、実行して良かったと思っている。
 怪我をした日から蘭との距離が縮まり、甲斐甲斐しく世話をしてくれるからだ。利き腕でにはないにしろ、生活に支障を来すと思った彼女は毎日看護をしてくれていた。
 ああ、最高だ。
 今日も彼女に世話してもらえると思えば、顔が自然に緩んできてしまう。机に積み重なった書類の山を見ても、いつもよりペンが進んだ。
 集中していたのか、窓から夕日が差し込む時間になっているのに気がつく。ペンを置いて椅子をリクライニングにし、一息ついた。疲れを取ろうと窓の方に椅子を向け、目を閉じる。
それなのに、廊下が騒がしくて休憩も出来なかった。
 足音がこの部屋に向かってくる音と、徳山の「お待ちください」と言う声が聞こえてくる。
「はぁ……」
 少しは休ませて欲しいのに、そうもいかないようだ。そんなことをぼんやり思っていると、部屋の扉がノックもされずいきなり開く。
 走って来たのだろうか。息が弾む声が聞こえ、ともはゆっくりと椅子を回して正面を見据えた。
 そこには別邸にいるはずの稲穂が立っている。いつもより余裕のない表情を顔に張り付かせ、随分と取り乱しているように見えた。
 それもそうだろう。
 別邸にいる稲穂といちるには、蘭のことを正式に伝えたのだから。
「家朝様、お話があります。どうか、少しだけでいいので、お時間をくれませんか」
 この様子ではいちるの制止も聞かず、ここにやって来たのだろう。いてもたってもいられないと言った様子が窺える。
ともはゆっくりと立ち上がり無表情のまま稲穂のもとに歩いていく。後ろから追って来た徳山に片手をあげ、部屋から去ってもらった。
「話ってなに?」
分かっているはずなのに、取りあえず用件を聞いてみる。どこか壁を感じさせるように、しかしそれでいて親しみも忘れずに。
「あ、あの、婚約したって本当のことでしょうか?」
「うん。そうだね」
 きっぱり答えると、彼女の目が驚愕に見開かれる。信じられないと言った風に、がくがくと身体を震わせた。言葉を詰まらせ、稲穂はなにかを考え込んでいる。
違う、と言って欲しかったのだろう。
 ともは何も言わず、彼女の様子を観察した。幼少の頃から大人の中で育ったために洞察力に長けていて、その先どんな風になるかまで想像できている。
 稲穂は悲しみに暮れていたのもつかの間、徐々に怒りを顔に滲ませ、恨めしい目でこちらを見てきた。
「家朝様は私を花嫁候補として呼んでくれたのではないですか? それなのに、他の方を花嫁にするなど、こんなのは本多家の家名に泥を塗る行為ではありませんか」
 そうだね。そうくると思ったよ。彼女に罵られようと、ともの心はさざ波一つ立たないほど凪いでいた。
「し、しかも、下虜だというではありませんか」
 下位の女性に負けた悔しさからなのか、稲穂の唇が屈辱にわななく。
下虜? そんなのとっくの昔に知っている。蘭のことをけなされると、少しばかり苛立ちが増した。それでもここで感情的になれば、稲穂と同じになるからぐっと我慢する。
「なにかおっしゃってください! このまま侮辱されるのであれば、父も黙っていません」
 癇癪を起こす稲穂にどこか哀れみを覚えた。彼女もまたともの人生の駒にされているだけなのだから。それでも、彼女だって覇者の位だ。こういうことがあるくらい、想像して欲しいものだ。
「こんなのは裏切り行為です!」
 涙を滲ませ、怒りに孕んだ瞳がともを射抜く。そこまで黙っていたが、ようやく口を開く時が来たようだ。
「裏切り? そういう稲姫はどうなんだろうね」
 ともはわざと冷たく棘を含ませた声音で彼女を見つめる。そんな声を聞いたことのない稲穂が目を点にした。
「ど、どういう意味ですか」
 聞く耳を持った瞬間、隙を与えずに畳み掛ける。
「僕がなにも知らないとでも? この前の夜、義鷹が稲姫のところに訪ねたよね」
 突きつけると、思い当たったのか稲穂の顔が蒼白になった。
 まぁ、それもともの計画の一部だったのだが、彼女は知るよしもない。
「花嫁候補として僕の目の届く範囲にいながら、他の男に股を開くなんてね」
「ち、ちが……あれは……」
「いくら稲姫が違うと言っても、証拠が残っているんだ」
 ともはがくがくと震える彼女に近寄り、髪の毛をそっと耳にかける。そして露わになった耳に唇を寄せ、
「あのゲストルームね、防犯カメラがついているんだ。知ってた?」
 密やかに笑むが、それを知られないように声のトーンを落とす。彼女は聡明だ。それを聞いただけで、動画が証拠として残っているのだろうと理解したはず。
 一つ言えば、義鷹が命令違反して一線を越えなかったのは想定外だったが。
 それでも媚薬で感じてしまい、あられもない声をあげていた彼女にとって言い訳なんて無駄だと分かっているだろう。
「随分、感じていたようだね? 最低の女だ」
 顔を離し、氷のような眼差しで見つめる。彼女は顔からみるみる血の気を引かせて、ふらりとよろめいた。
「あ……あ……」
 後悔と絶望に彩られた瞳から涙が溢れ、稲穂ががくりと膝を崩す。だけど、これからが本番だ。ともは、身をかがませて慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
 迷える子羊を救い、道を指し示すような天使の笑みを。
「本来ならこれこそ侮辱罪だ。本多家は、徳川家に泥を塗った」
「そ、それは……お、お許しください」
「う〜ん、どうしようかな」
 少しだけ考えるようにして、勿体ぶるような態度を取りながら稲穂を見下ろす。彼女は顔を蒼白にし、胸の前で合わせた手をぶるぶると震わせていた。
 自分が仕組んだこととはいえ、ここまで狼狽する稲穂を見るとなんとなく可哀想な気がする。だからそろそろいいかと思い、にこりと微笑みを浮かべてみた。
「いいよ。許してあげても」
「え……」
 信じられないと言った風に稲穂が顔を上げ、掠れた声をあげる。
「だから、いいよ。もとより別邸に呼んだのは僕だ。これからも、稲姫には徳川家を支えて欲しいと思っている。もちろん、いいよね?」
 有無を言わさない強い響きをこめると、稲穂の顔に安堵した表情が戻る。そう。彼女を切るのではなくて、生殺しにするという残酷な方法で縛りつける。
 本多家を切りたくないが、だからといっていつまでも稲穂に花嫁気取りされるのも困ってしまう。
 それでこういう手を使うことにした。こうして繋げておけば、親友のいちるも協力せざるを得ないだろう。綺麗に型にはまったところで艶然とした笑みを浮かべる。
 彼女はもう反論する余地も残っていないようで、床にしゃがみこんだままだ。
 チェックメイト――。
 机の上にある呼び鈴を鳴らすと、徳山が颯爽と現れる。指示をすると、床に座っている稲穂を立たせて部屋から退室した。
 ようやく杞憂していることの一つが終了しほっとしているのもつかの間、机の上に残っている書類を見てため息を吐き出す。
 今日は蘭にたくさん癒してもらおうと考え、もう一度椅子に座りペンを持った。










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