河畔に咲く鮮花  



 
 
残酷な命令A


「蘭、ほら髪が乱れている」
「ありがとう、とも君」
 ともに随分と慣れてきたのか、髪に触れられてもこのところ頭痛はなくなってきた。今日は天気が良いので、バルコニーにテーブルセットを出して、午後のティーを楽しんでいる。
「蘭、今夜は少し遅くなるかも。その後でよければ、一杯相手して欲しいんだけど」
「うん、いいよ」
 蘭としてもともが席を外してくれる方が都合良かった。今夜はいちるが蘭の部屋に尋ねてくると言っていたからだ。秘密の友達とのお茶会を楽しみにしているので、今から気持ちが浮ついている。
「会合があるの?」
「会合、というより義鷹に会う約束をしていてね。その後、連れて来ようと思ってる」
 蘭の胸がどきりと跳ね上がった。義鷹の屋敷を出てから、すでに一ヶ月近く経とうとしていたが、その間彼に会うことはなかった。
「義鷹に会うのが楽しみ?」
「そうだね。義鷹様、忙しい人だからなかなか会えないし」
「義鷹は、仕事だけでなく女性相手にも忙しいからさ」
「え……」
 ともが何気なく発した言葉に、不穏な響きを感じる。
「あ……義鷹に憧れている蘭の前でこんなこと言うのはよくないよね」
 ともが失言だったとばかりに、顔を曇らせた。
「大丈夫。義鷹様がもてるの知っているし」
「本当に、本命を作ればいいのにさ。一度抱いた女には見向きもしないって、義鷹ってば非道な男だよね」
「一度抱いた女性には見向きもしない……」
 その言葉が蘭の胸に突き刺さる。義鷹の屋敷で、義鷹が蘭を抱いたのはたったの一度きりだった。ともの言うことが本当だったとしたら、蘭にも当てはまるのではないだろうか。
 背中がひんやりと冷たくなっていき、嫌な方に考えが進んでいく。
 だから、義鷹様はあれから一度も会いに来てくれないの? 
 蘭に対して興味を失い、どうでもいいと感じているのなら。
『愛している』
 だけど、何度も紡がれた甘い言葉を思い出すと、義鷹が本当にそんな人なのだろうかと疑問を持ってしまう。彼は売られた蘭を救ってくれた貴族で、下虜ということも気にせずにずっと優しくしてくれた。
 そうよね。そんなのただの噂だよ……。
 自分の中に残る義鷹を思い出して、どうにか納得させようとする。
「誰にでも、愛しているっていうのも貴族の癖なのかな。僕には理解出来ないところだけど」
 なのに、追い打ちをかけるようにともが言うから蘭の心が揺らいだ。
 誰にでも愛しているって言う?
 そう言われてみれば、義鷹は貴族だ。だから、挨拶がてらの気軽さでそういう言葉を囁くのを得意とするだろう。
「やっぱり、今夜連れて来るのはやめようかな」
「どうして……?」
「以前、蘭も見ただろうけど、僕の客人が別邸にいるんだけどさ。義鷹ってば、その内の一人を気に入っちゃってね。手を出されるんじゃないかと思って」
 瞬時にいちるの顔が思い浮かぶが、そういえばもう一人女性がいたことを思い出す。確か、本多稲穂さんと、いちるが言っていた。あの二人のどちらを気に入っているのだろう。
「客人に失礼のないように義鷹にはきちんと言っておかないとね」
「大丈夫だと思う。とも君の大事なお客さんだもん。義鷹様もそこらはきちんと考えているはずだよ」
「……そうだね」
 一瞬、ともの笑みにうすら寒さを感じて、嫌な予感がしてしまった。こういう時のともは何を考えているか分からない。それでも今の蘭には、ともが与えてくれる世界が全てで。
 彼を信じることで、なくしてしまった時間を埋めるしかなかった。
 
 ***

「いらっしゃい、いちる」
 相変わらずいちるはバルコニーから現れ、蘭の部屋に入ってくる。蘭はそれを迎えると、ティーセットを用意したテーブルへと招いた。
「ちょっと遅くなって、ごめんな」
「ううん、大丈夫。来てくれるだけで嬉しいから」
「……なんか、あった?」
 いちるが蘭の顔を窺い、目を細めた。この後、義鷹に会うにつれ、少しばかり緊張していることを見抜かれているようだ。それは、昼間にともが言っていた言葉が胸に残っているというのもある。
「何にもないよ。さぁ、座って」
「だったらいいんだけど」
 これ以上、いちるに変な心配をかけさせてくなくて、無理やり笑みを作る。うじうじとして暗い奴だと思われたら、いちるがここに来てくれなくなってしまいそうで。
 せっかく出来た友達を失いたくない気持ちが勝り、これからは気をつけようと身を引き締める。
「ほら、今日はアタシもお土産を持ってきたよ」
 いちるが小脇に抱えていた箱を受け取り、中を開けてみる。そこには装飾がきらきらと施されたケーキが二つ並べられていた。
「いちる、これって」
「そんな嬉しそうな顔するな。まぁ、柄でもないけど、今流行りの店で買ってきたんだよ」
「凄く、可愛くて綺麗。食べるの持ったいない」
「あのな、食べないと意味ないだろ」
「それもそうか」
 いちるの買ってきてくれたケーキを見て、ふわふわと浮いた気持ちになる。わざわざ蘭のために選んでくれたと思えば、とても心が温かくなった。
 さっそくケーキを皿の上に載せて、淹れたての紅茶をいちるの前に置いた。
「いただきます」
「どうぞ」
 手を合わせてケーキをフォークで取り分け、食べてみると幸せの味が口の中に広がっていく。
「これ、凄く美味しいよ」
「高いんだから、上手くなければ詐欺だろ」
「ふふ、いちるったら」
 彼女のまっすぐな物言いに思わず笑みがこぼれる。
「なに、笑ってんだ。あんたと話していると、脱力するわ」
 いちるはずずっと身体をソファに深く沈め、その格好のままフォークで切り取ったケーキを口に含む。
「うん、上手い」
「いちる、そういう食べ方……」
「お行儀悪いっていうんだろ。だけど、こういうのもたまにはいい」
「ううん、私もやってみたい」
「は?」
 目を点にするいちるにお構いなしで、蘭も同じようにソファに身体を深く沈ませる。そして、だらしない格好のままケーキを口に含んだ。
「うん、悪くないけど食べづらくない?」
「ばーか。顔を天井に向かせすぎだからだよ。もう少し、顔は下」
「こんな感じ?」
 フォークを持ち直し、顔を平行にしてさっきと同じようにケーキを食べる。
「あ、本当だ。さっきより食べやすい」
「なにやってんだか、アタシたち」
「本当だね」
 いちると目が合い、お互いに馬鹿げたことをしていると笑ってしまった。それでも蘭にとってはとても貴重で、楽しい時間には間違いない。
 心が温まり、幸せを感じていたところ――。
「あれ、お客さん?」
 唐突に部屋の扉が開かれ、そこに立っているともの姿を見てぎょっと目を剥く。
「とも君……っ」
 慌てて姿勢を正し、手に持っていたフォークを皿の上に載せる。
「家朝様!」
 蘭よりも狼狽しているのはいちるで、彼女は弾けるように立ち上がり目を大きく見開いていた。
「こ、これは、その」
 いちるが急にしどろもどろになり、もじもじと指を動かせる。
「あのね、とも君。いちるは、私が呼んだの」
「そうなの? 二人とも仲良くなったんだね。僕も早く紹介したらよかった」
 なにも気にしていないともの態度に、蘭といちるはすっかり拍子抜けしてしまう。
「アタシも勝手に入ってごめん。徳山執事に言っても入らせてくれなかったから」
「ああ、それは徳山が蘭に気を使ったんだろうね。体調が悪いから、休養させようとしていたみたい」
「え、そうだったのか?」
「それ以外になにがあるっていうの、いちる姫?」
「いや、なにも……」
 いちるが口ごもり、なにかを考えるように顔を俯かせる。
「それより、思ったより早かったんだね」
 奇妙な空気を振り払おうと、蘭がともに話かける。ともはネクタイを緩めながら、襟を開くと疲れたように肩を竦めた。
「そうだね。用事が早く終わったから、蘭には悪いけど先に義鷹と飲んできちゃったよ」
「そう……なんだ」
「残念そうな顔しないで、蘭。きちんとここに呼んでいるよ。さぁ、場所を変えよう。いちる姫も一緒に来て」
 ともに促され、蘭といちるは目を合わせた。だけど断る理由もない以上、彼の後についていくしかない。
 片付けも出来ないまま、蘭といちるはともの後を追った。


*** 

 ともに連れて来られたのは、本宅の地下にある来賓室を改造した部屋だった。部屋にはバーカウンタが設置されており、その後ろの壁にはずらりとお酒の瓶が並べられている。中央にはくつろぐためのソファがあり、その前方には大型スクリーンのテレビが置かれてあった。
 間接照明が施され、なんとなく淫靡な雰囲気を醸し出している。
 大人の雰囲気に呑まれ足が止まっていると、ソファでくつろいでいた義鷹がさっと立ち上がった。
「あ……」
 久しぶりに見た義鷹を見て胸が詰まってしまう。情けないけど、なんて声をかけていいか分からなかった。
「お久しぶりですね、いちる姫」
 義鷹が貴族然とした花のような笑顔を浮かべ、優雅にお辞儀をする。そのたおやかさも、繊細な美も以前となに一つ変わらなかった。男勝りないちるでさえも、そんな風に笑いかけられると、恥じらうようにぎこちなく会釈するだけだ。 
「とも様、お酒を用意しておりますので、こちらに」
「うん、ありがとう」
 だけど、なにかがおかしいと感じたのは義鷹が蘭に話かけてこないということだ。さっきから蘭のことなど目に入っていないような態度で、義鷹はいちるとともだけに視線を向けている。
「どうしたの、蘭、おいでよ」
「え? あ、うん」
 ともに促された蘭はソファの端っこに座らされ、その隣には当たり前のようにともが腰を下ろした。
 ともの右隣にはいちると義鷹が並び、横一列に座るという構図になってしまう。
 これでは義鷹と喋ることも出来ないし、目を合わすことも出来ない。
 義鷹様、どうして……?
 蘭に対してだけ明らかに態度が違う義鷹に不安を覚える。それでも蘭の胸中などお構いなしで、宴は始まった。
「では、乾杯」
 ともが音頭を取り、蘭といちるには喉越しのよいシャンパンが与えられ、義鷹とともは白ワインを飲んでいる。つまみを食べながら、鈴を転がすような義鷹の涼やかな声が聞こえてきた。どうやらいちるとの話が盛り上がっているようだ。気にしても仕方ないと思いつつ、つい聞き耳を立ててしまう。
「蘭、ほらこのチーズを食べてみて」
「ありがとう、とも君」
 ともに手渡されたチーズを受け取り、食べてみる。
「美味しいね、これ」
「そう言ってくれて嬉しいよ」 
 ともが微笑み、ワイングラスをゆっくりと回した。時間だけ進む中、義鷹は話かけてきてくれず楽しそうに笑い声を立てるいちるの声がなぜか耳障りに感じてしまった。
もやもやとわだかまる胸の澱を掻き消すように、蘭はぐっとシャンパンを飲む。
 そうしているうちに、テーブルの上に並べられていたつまみがなくなってしまう。
「私がおかわりを取ってきましょう」
 義鷹が立ち上がるのを見て、蘭は彼と話すチャンスだと思った。
「チーズがなくなったから、私も取ってくるね」
 少し強引だったかもしれないが、ソファを立ち上がると、ともはにっこりと笑い了承してくれた。義鷹の背中を追うようにバーカウンターの中に入り、冷蔵庫を開く彼の横に並ぶと思い切って話かける。
「義鷹様、お久しぶりです」
「……」
 きちんと聞き取れなかったのだろうか、彼からの返事は来なかった。蘭はもう少しだけ声を張り、義鷹に挨拶をする。
「義鷹様、お久しぶりです。私、屋敷を出てからきちんと話すことができなくて」
「話などすることなんてない」
「えっ?」
 聞いたことがないほど低く、冷たい声に聞き間違いだろうかと一瞬だが呆気に取られる。
 義鷹が視線をこちらに向けた時、びりっと緊迫した雰囲気が流れて、身体が固まってしまった。いつも蘭に対して穏やかで、慈しむように見ていた瞳には、無感動で蔑んだような色が滲んでいる。
「あ、あの、」
 見たことがない義鷹の雰囲気に飲まれ、喋ろうと思っても喉の奥がひきつり声を出せずにいた。頭が真っ白になり、馬鹿みたいに棒立ちになっていると、腕を掴まれてぐいっと引き寄せられた。
 義鷹は唖然としている蘭の耳元にその形の良い唇を寄せ、
「私は一度抱いた女に興味はない。それに勘違いして、恋人面をするのはやめてもらおうか」
 彼は残酷で非道とも取れる言葉を言い放った。
「ど、どうしたのですか」
 唇がわななき、ただ呆然と義鷹を見上げるしかなかった。そうしていると、義鷹がふっと表情を崩し、口の端を吊り上げる。
「ああ、それとも、とも様の愛撫じゃ満足しないというのかい? お前さえよければ、秘密の愛人にしてあげてもいいよ。将来、覇王の奥方になるお前を利用できるわけだしね」
その言葉に、冷水を浴びせかけられた気持ちになる。
「何を言っているんですか、義鷹様」
 こんなのは義鷹じゃない。優しく、いつも労ってくれていた彼なんかじゃない。
 否定しようと頭を振り彼の手から逃れようとしたところ、義鷹は先程より手に力をこめて、蘭の腕を掴んで離さない。
「今夜どうだい? 私の身体を忘れられないんだろう。お前は最高に淫乱だからね、とも様じゃ相手にならないだろう」
「私、とも君とはまだそんなことをしてません!」
 そう言うと一瞬だけ義鷹の瞳に揺らぎがよぎり、その後どこか安堵したように小さな溜息を漏らした。それが蘭の知っているいつもの義鷹に見えて、彼に近づこうとしたらゆるりと腕を離される。
「義鷹様?」
「悪かったね。戯れが過ぎたようだ。一度抱いた女を誘うほど女には困っていない。だから、お前ももう私を忘れなさい」
 一方的に突き放され、焦燥感が広がっていく。
 義鷹様、それが本心なのですか……?
 こちらを振り向かず、バーカウンターを出て行く義鷹の背中を見送り、なんとも言えぬ苦い思いが胸の中にわだかまりという形だけを残していった。
 
***

「どうしたの、蘭。なにかあった?」 
 ソファに戻ると、ともが心配そうに声をかけてくる。蘭は力なく首を振り、ともに促されるように身体をソファに沈めた。それから義鷹の言葉を振り払うようにグラスを持ち上げ、嫌なことを忘れようとシャンパンを一気に飲み干した。
「蘭、あまりアルコールは強くないのに、大丈夫?」
「これくらいなら大丈夫よ」
「そう。それならいいんだけど」
 ともの心配をよそにちらりと義鷹に目を向けるが、彼はいちるの相手に忙しいのかこちらを気にしている様子はなさそうだ。どこか切ない気持ちを抱えたまま、あまり得意ではないアルコールをおかわりする。
 今日はあまり酔いそうにないと思っていたけど、何杯か飲んでいるうちに頭の芯がぼんやりとしてきた。頑張って意識を保とうとしたが、襲ってくる眠気に負けてしまい瞼を閉じてしまった。
「蘭? 大丈夫?」
 ともの声が遠くに聞こえ、なにか返さなければと思いながらも蘭の意識はゆっくりと落ちていった。
 
***

 アルコールに酔ってしまい、いつの間にか寝てしまった蘭は少しばかり肌寒さを感じて意識が舞い戻る。気がつけばともの肩に頭を寄せて眠りこんでいたようだ。
 少しだけ身じろぎすると、ともの声がかかる。
「蘭、起こしちゃった?」
「ううん、私こそごめん。いつの間にか寝ちゃっていて」 
 ともの肩から頭を起こすと、ソファではいちるがぐっすりと眠りこけている。義鷹の姿が見えず、部屋の中を見回してみた。
「どうしたの、蘭」
「義鷹様は帰ったの?」
 まだ寝ぼけた頭でそう聞いてみると、ともは少しだけ困ったように眉を下げる。そして顔を真正面に向けて、視線だけでモニターを見てと促してきた。つられてそちらに目を向けるとモニター越しの映像に知った顔が映り、一瞬にして目が覚める。
 場所は別邸だろうか、仄暗い室内には義鷹といちるの友達の稲穂の姿が間接照明により浮かびあがっている。
「そこに映っているのは別館のゲストルームだよ。迎賓の安全のために防犯カメラをつけているんだ。義鷹は知っているはずだけどね」
 モニターの中の二人はなにやら話をしているようだ。声は聞こえないけど、どことなく親密に見える。
「困ったもんだよ、義鷹には」
 わざとらしく溜息を漏らし、ともがソファに深く腰を沈めた。
「ま、こういうのは本人同士の合意だしね。僕がとやかく言うのはおかしいか」
「合意?」
「覚えていないかな。義鷹があの子のことを狙っているって」 
「あ……」
 その相手が稲穂と知り、愕然とする。まさか本当に義鷹が稲穂を気に入って手を出そうとしているなんて信じたくなかった。だけど、その考えを嘲笑うかのように、義鷹は稲穂に手を伸ばす。
 冷たい表情を封印し、蘭にいつも見せていたような花のような笑顔を受かべて稲穂に微笑みかける。
 それがあまりにもショックで、蘭は我を忘れて食い入るようにモニターを見つめたのだった。






 


240

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next/  back

inserted by FC2 system