河畔に咲く鮮花  

見知らぬ彼との再会


 
  義鷹は今日も遅いようで、蘭は一人きりで夕食をいただいてその後にお風呂にも入り部屋でくつろいでいる。
そうした変わりない日々を過ごしていたある日のこと――。
夜半に差し掛かり、そろそろ寝ようかと思っていた時である。
いつもは静かなのに、珍しく外が騒がしくなり始め、蘭は部屋の中でそっと耳を澄ました。 車の音が近づいてくるのが聞こえてきて、誰か来客でも来たのかと思った。
義鷹の乗っている車の音とは違っていたためそう思ったのだが、それにしては外壁の向こうが騒がしい。和葉が言っていた通りに、この屋敷には見えないところでたくさんの警備の人間が詰めているようだ。
ただでさえ静かなところなので、数人が騒ぐだけでなんとなく落ち着きがなくなる。 急な来訪があっても義鷹なしでは警護の者も対応が出来ないだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、蘭はそっと窓際に寄り添い障子を開け放った。窓を開けると冷たい外気が蘭の頬を優しく撫でていく。
すぐ目の前には庭園が広がり、夜でも灯篭の明かりが点っていて幽玄な美しさを演出させていた。
その時。
誰かが庭園の潜戸から入ってきたのだ。それを知って蘭はびくりと肩を跳ねさせた。
そこには青年、いやまだ少年のあどけなさを残した者が目の前に立っている。
「あ……」
 ぽろりとこぼれた声は、恐怖からではなくどちらかと言うと感嘆だった。
 あんなに警備の者が騒がしくしていたから、怖い人がやって来たのかと思っていた。けれどそれとは反して、目の前に立つ少年は驚くほど繊細で美しい男の子だった。
 灯篭の明かりに点された金色の髪が艶やかに輝いていて、その見慣れない髪色にそれだけでも驚いてしまうのに、彼の青い瞳からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。
 どうして彼は泣いているの……?
 まるでここだけ時が止まっているかのように、しばらくの間見つめ合った。
ざぁっと二人の間に一陣の風が吹いていく間、彼は目を逸らすことなく蘭だけを見ていた。
その瞳には悲しみや嬉しさ、慈しみなどといった様々な感情が浮かんでいる。
それでもお互いは言葉を発することができず、静かな空間の中で息を潜めて視線だけを交わし合っていた。
風がやみ、ようやく落ち着いたところで蘭は彼に問いかける。
「なんで、泣いているの? どこか痛いの?」
「――っ……」
 蘭の問いに彼はようやく停止した時間の縛りから解けたように目を見開いて、片手を伸ばしてきた。
「どこか痛いというならば……僕の心が」
 少年と思っていたけど、声はしっとりと低く落ち着きのあるものだった。思っていたより大人かも知れないと蘭の中に警戒心が生まれる。
「そっちに行っていい?」
彼はただただ真珠のような美しい涙だけを流してそれだけを静かに問うてくる。
どう答えていいか分からず、蘭が目を彷徨わせていると彼は一歩踏み出してきた。 
 彼は涙を拭うこともせずに、一歩一歩と雲の上を歩いているようにこちらへと向かってくる。どこか熱に浮かされたような表情を浮かべ、蘭がいる窓枠までやってきた。
「蘭おねーさん……」
 彼は見惚れるほど綺麗な涙を流しながら自分の名前を呼んでくる。窓枠に置いていた蘭の手の上に彼の手が重なって、力強く握られた。線の細い彼からは想像もつかない力に驚いて蘭はすぐに手を引き抜いた。
「ごめん……痛かった?」
 彼が悲しそうに問うてくるから、蘭はゆっくりと首を横に振る。すると彼がほっとしたように軽く笑みを浮かべるので、なぜか蘭も安堵してしまった。
「あなたはどこから来たの? 義鷹様は外出しているから屋敷にはいないんだけど……」
 そう言ってみると、彼は大きな目をさらに見開いて言葉を失った。なにか悪いことを言っただろうかと小首を傾げる。だけど、すぐに気がついて彼を困らせないように説明を付け足した。
「私の名前を知っているってことは……昔の知り合い? ごめんなさい。私、記憶の一部をなくしていて覚えていないの」 
 気分を害さないで欲しくて言ったのだけど、彼はますます困惑したように顔をしかめる。
「僕の名前……分からないの?」
 悲しそうに瞳を揺らす彼には申し訳ないが、蘭は素直に頷いた。
窓枠に残された彼の指先が細かく震えているのに気づき、蘭は困惑を覚える。自分の記憶がないことによって、彼を苦しめているのが分かったからだ。
「僕の名前は徳川家朝……君は僕のことを『とも君』って呼んでいたんだ」
 徳川家朝という名前を聞いて、なぜか胸がざわめいた。分からないけど、なんとなく嫌な予感がして蘭は窓から一歩後ずさる。
だけど、ぽろぽろと涙をこぼすともを見ていると放っておけない気にもなった。
「どうしてそんなに悲しいの?」
 蘭がともに対してなにか嫌なことでもしたのだろうか。彼は蘭を見てからずっと泣いているので、その昔彼との間にトラブルでもあったのかと不安になる。
「私……いじめたとか?」
 ともの顔を窺ってみるが、それを聞いた彼は初めて笑みを浮かべた。
「まさか、そんなことないよ」
 夜にぱっと花咲く笑顔に蘭は一瞬見惚れてしまう。泣いているより、ともは笑っている方が年相応に見えて可愛らしく見える。
「君をずっと探していたんだ。一度は絶望するほど失意したんだけど」  
ともが自分の心臓を服の上からわし掴み、苦悩の表情を浮かべる。芝居めいた大げさな表現も彼ならどことなく様になっているから不思議だ。
それだけともは本音で言っていることが、鈍い蘭にでも伝わってきた。
「私を……どうして? 義鷹様はなにも教えてくれないの」
ともは義鷹以外で始めて蘭を訪ねて来てくれた人だ。義鷹では知らない過去を彼なら教えてくれるかもしれない。彼は一瞬だけ喘ぐように口を開いたかと思うと、またすぐに閉じてなにか考えるように目を伏せた。
数秒、沈黙が下りてしまい蘭はわけも分からず首を傾げたままともを見やる。するとようやく彼が顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
深く青い瞳に囚われて、蘭はしばしの間言葉を失った。
「なにを考えているの?」
ともから質問をされて、我に返った蘭は素直に思ったことを口にする。
「空のように綺麗な色だね……。とも君の瞳」
それに虚を突かれたようにともは驚いて、くっと眉を寄せた。なにかを堪えるような切羽詰まった雰囲気に、危うげなものを感じてしまう。その直感は正しかったようで、ともが動いたかと思った瞬間、蘭は彼の腕にかき抱かれていた。
「その言葉、初めて僕に会った時にも言ってくれたよ」
 失った記憶の中で、同じ台詞を彼に言ったらしい。全然成長していないなと思いながらも、蘭は彼の腕の中でそれがいつの頃だったのだろうと思考を巡らせる。
「私……とも君とつき合いが長いのかしら?」
 公人からは彼の名前を聞いたことがないのに、どこか懐かしさを感じる香りがした。
 華やいだ清廉な香りの中に交じる仄かに毒めいたものも――。
 昔、どこかで彼の腕に抱かれた気がする。
 少しだけ腕の力を緩めてくれた彼は、蘭の顔を覗き込んで淡い笑顔を浮かべる。
「そうだよ、僕たちは長いつき合いだよ。だって、蘭は僕の婚約者だもの」
「……え」
 聞き違いかと思って目を見開くが、彼は至って真剣な様子だったからそれが真実を告げていると悟ってしまう。
「ずっと探していたんだよ。おかえり、蘭」
 いつの間にか彼は自分のことを「蘭」と呼び捨てにして、優しく頭を撫でてきた。
 とも君が婚約者……?
 呆気に取られる蘭は何度も瞬きを繰り返して、この現実をどう受け入れようかと試行錯誤していた。
「で、でも……公人君はなにも言わなかったし……義鷹様も……」
「それについては、ゆっくり話しよう。僕のもとに戻って来てくれるね?」
 柔らかい雰囲気だけど、有無を言わさない力強さに言葉を失ってしまう。
 なぜか鼓動が速くなってくる。
 その上、ずきずきと頭痛もしてきて、蘭はともの腕の中から逃れた。
「蘭?」
 ともが悲しそうな顔をして見てくるが、どうしてか彼の傍に行ってはいけないと警鐘が鳴る。
 分からないけど、彼は危険だ。
 それはただの直感だけど、当たっているような気がする。彼から一歩、一歩距離を取っていくと、ともが見かねたように溜息をついた。
「無駄だよ。僕からは逃げられない」
「どういう意味……?」
 今初めてその言葉を聞いたはずなのに、なぜか肌が粟立つ。どうしてだろう。昔も同じようなことを言われたような。
 どく、どくと脈拍の流れを感じながら、彼から距離を取る。
「だから、諦めて」 
ともがさっと手をあげると、どこかで待機していたのか黒服の男たちが庭園に集まってくる。
「彼女を車に連れて。丁重にね」
 彼よりも随分と大人の男性たちは、その指示通りに動き始めて蘭の部屋にまで上がりこんできた。
「ま、待って。義鷹様に連絡を……」
「大丈夫だよ、義鷹は僕と仲がいいんだ。彼にはきちんと連絡しておくから」
 いつの間にか脇を固められ、蘭は黒服の男たちに連れ出される。まるで逃げないように両方から挟まれ、長い廊下を出口に向かって歩んでいく。
「蘭ちゃん……!」
 慌てたように和葉が出てくるが、黒服の男に制されて蘭には近づいてこれない。この人数を相手に暴れられないと思ったのか、和葉は悔しそうに唇を噛み締めた。
 玄関を出ると、黒服の男たちがさっと蘭から離れる。目の前にはともが待っており、優雅な仕草で手を差し伸べてきた。
 本当に彼に着いていっても大丈夫なのだろうかと、蘭は戸惑いを浮かべる。
 底知れない重圧に肌を刺されながらも、恐る恐る手を伸ばしたらすぐさま握り締められた。
「帰ろう、僕たちの家に」
 ふわりと優しく笑んだ彼の顔からは涙はもう引いていた。一抹の不安を胸に抱きながらも蘭はともに引っ張られるまま車へと乗り込んだ。
 







 


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