河畔に咲く鮮花  

再会への序章


 
  蝶子の家に世話になって一週間ほど過ぎた頃、公人は彼女に呼ばれて私室へと向かった。
 蘭のことが分かったのかと胸を躍らせていたのだが、蝶子から服を脱げと命令されてしまい落胆の色を隠せなかった。
 いつかは命じられると思っていたことが今起きただけなのに、公人は一瞬だけ躊躇いを見せる。昔とは違い、感情というものが出てきた公人はもう簡単に女を抱ける人間ではなくなっていた。
 それでも、これは蘭のためだと思えば……。
 公人はシャツのボタンをゆっくりと外しながら、ベッドに腰掛ける蝶子を見やる。だが、その手を止めて、もう一度だけ蝶子を見つめた。
「本当に蘭様のことを探し出してくれているのでしょうか」
 これだけは確認しておかないと、この身を投げて蝶子を抱く意味がない。
「あなたも疑い深いわね」
 真意を図ろうとしている公人の目を見ていた蝶子はベッドの上に置いてあったファイルを手渡した。すぐにそれを受け取り、中の資料に目を通す。
 そこには今川義鷹が所有している不動産や、別荘が写真付きで綴じられていた。
 その何個かに赤い丸印がつけられていて、それが怪しい場所ということらしい。
「下の者に探らせているわ。それに今川義鷹にも尾行はつけている。あの下虜の居場所もすぐに分かるでしょう」
「それなら……いいのですが……」
 あの今川義鷹が尾行に気づかないほど抜けているだろうか。いや、蘭を手に入れた今なら気が緩んで隙が生まれているかもしれない。なんにせよ、蘭に近づいていると思って安堵の溜息を漏らした。
「さぁ、分かったなら今度は私を満足させなさい」
 蝶子がベッドに腰掛けたまま脚を伸ばしてくる。履いているストッキングから脱がせろと催促しているのが分かり、公人は胸元をはだけさせたままその場に跪く。するすると脱がしていくと、蝶子の爪先が公人の顎に添えられて上向かされる。
「嫌悪感たっぷりの顔ね。いつからそんな表情を覚えたのかしら」
 蝶子は面白くないと言った顔をしながら悪態をついた。だけど公人はそれに対して意見を言うことはなく静かに蝶子を見据える。すると突如、脚で頬を叩かれて公人はバランスを崩し、床に片手をついた。 
「嫌な目ね。以前みたいに無表情の方がよっぽどよかったわ」
 なるべく平静を装っていたつもりだが、蝶子にも分かるほど感情があらわになっていたらしい。気が削がれたのか、蝶子は怒りが収まらないようでベッドから立ち上がる。
 そしておもむろに部屋の中を歩き回ると、細いベルトを手に取って戻ってきた。
「感情を出せるようになったなら、少しは楽しませてくれるでしょうね」
 蝶子はそう言ってベルトを振り上げると、跪く公人の背中を思い切り叩く。
「――っ……!」
 ひりつく熱さの後に、ずきずきとした痛みが走り始めて公人はぐっと唇を噛み締めた。
「ほら、痛いのでしょう? もっと可愛く鳴いていいのよ!」
 蝶子が縦横無尽にベルトを振り下ろして、公人を思う存分に痛めつけた。それでも公人は蝶子の思い通りになりたくなくて、痛さを我慢しながらこの場をやり過ごす。
「私に感情を出すのは嫌ってこと? あなたにそんな権利はないのよ!」
 ベルトがしゅるっと公人の首に巻きつき、ぎりぎりと締め上げられた。酸素が薄くなり呼吸が苦しくなってくると、さすがの公人も苦悶の表情を浮かべる。
 助けを願わないと、公人はこのまま首を絞められて殺されるかもしれない。そんな考えが薄れていく意識の中でふっとよぎっていった。
 だけど蝶子の戯れはそこで強引にも中断されることになる。
「お待ちください、そちらは蝶子様の私室でございます!」
 なにやら廊下が騒がしく、数人の足音がどかどかとこちらへ向かってくる。それに意識が散漫になったのか、蝶子のベルトを締める力が弱まった。
「お邪魔しますよ〜」
 蝶子の部屋のドアが開いたと同時に、のんびりとした口調が耳に届いてくる。
「あれ? お楽しみ中でしたか。申し訳ありません。でも、ちょっとお時間いいでしょうか〜」
 蝶子と公人を見ても、その人物は自分の調子を崩さずに私室へと足を踏み入れた。ベルトが解かれ、自由になった公人は訝しく思いながらも顔を上げる。そこにはまだあどけない顔をした青年が、にこにこと笑いながらこちらへ向かってきた。
「誰なの? ここが誰の部屋か分かって入って来ているの」
 蝶子が警戒を露わにしながら、青年を凝視する。どうやら蝶子も知らない相手のようで、青年を睨みつけていた。
「蝶子様、申し訳ありません。さぁ、君、出て行ってもらおうか」
 後から蝶子の家で働いている男がやって来て、青年の肩に手を置いた。だけどその瞬間、見えない速さで男の手はねじられ、いつの間にか関節技を決められている。
「いっ……!」
 男は顔を苦痛に歪ませ、その場に膝を着いた。調子が良さそうな青年だが、ただ者ではない雰囲気をありありと見せつけてくる。
「あなた、なんの用事でここに来たの」
 蝶子の顔つきがさっと変わり、敵を見るような視線で青年を射る。青年はぱっと男を離して解放してやると、またにへらと締まりのない笑顔を浮かべた。
「あ〜、あなたに用事はないんですよ。私があるのは、そっちの人なんですね」
 青年の指さした先には公人の姿がある。公人はその青年を見つめるが、どうしても誰だか思い出せなかった。  
「はぁ? なにをおっしゃるの。公人は私に手元に下ったの。用事があるなら私を通してくださいな」
 蝶子があからさまに不機嫌になり、手に持っているベルトをぎゅっと握り締める。
「あ〜、それは無理だね。その子、私が引き取らせてもらいますので。ほら、君。いつまでも座ってないで行くよ」
 青年があっという間に距離を詰めて、公人の前に立つと強引に立ち上がらせた。
「待ちなさい、こんなことをしてただで済むと思ってないでしょうね」
「どうして? あなたに意見出来るのは御三家だけだから? ……あ、いや織田が没落したから徳川と、豊臣の二家だけが意見出来る。そう思っている強みから来ているんでしょう」
「あ、あの……どなたか存じませんがここは引いた方がいいかと……」
 斎藤家にたてつくなど、この青年の未来が心配になってくる。公人は親切心で青年に言ったつもりだけど、それがなにかの癇に障ったらしい。みるみる顔が曇っていき、いかにも不機嫌そうな様子で、公人の腕を引っ張る。
「私だってどうでもいい、君がどうなったって。だけど、志紀様の命令なんです。あの方の期待に応えるのが、鬼龍院京之介の最大の愛なんですよ〜」
 京之介と名乗った青年は、志紀の名前を出した途端にうっとりとした表情になる。
「志紀様が……僕を……?」
 彼は志紀の命令で自分を取り戻しに来てくれたのだ。
 まさかよそ者の公人を案じてここまでしれくれるなんて。
 胸に熱いものがこみ上げ、公人は自分の行動がどれだけ浅はかだったかを思い知る。
「鬼龍院京之介……まさか、嘘でしょう。あの十三老院の……トップ三家の一つ……」
 蝶子が唇をわなわなと震わせて、手からベルトを滑り落とした。呆気に取られている半分に、恐れを抱いているのに半分といった感じだった。
「あ、それに〜こんな資料は役に立たないよ」
 京之介が放り出されているファイルを手に持ち、中身をぺらぺらとめくって見る。
「あの今川義鷹が、自分が登録している不動産に蘭ちゃんを隠すわけないでしょう」
「えっ……?」
 それに驚き、掠れた声を出したのは公人の方だった。京之介はにっこり微笑むと、無造作にファイルを床に放り投げる。
「もうスパイ(和葉)は送り込んでいるんだ。だから、心配する必要なし。ね、志紀様が来るんだから早く行こう」
「お待ちになって……どうしてあなた方が動いているの」
 蝶子が我に返ったように、京之介に問いかける。京之介は愛らしく顎に指先を添え、小首を傾げた。
「変なことを聞くんだね? もちろん、もう覇者たちに出しゃばらせないためさ。だから、志紀様の邪魔をするなら君を排除するよ」  
 仕草は可愛らしいのに、京之介の瞳は獲物を射るように鋭く残忍なものだった。あの蝶子でさえ京之介の凄みに負けて、ぐっと言葉を詰まらせる。
 なにも言えなくなった蝶子に対して興味を失ったのか、京之介は公人を連れて彼女の部屋を後にしたのだった。


***


ともは自分の部下からの報告書に目を通して、勢いよく椅子から立ち上がった。 そこには信じられないことが記載されていて、その衝撃にいつもの冷静さを欠いていた。
 広い部屋の中を何度も往復しては、その報告書に目を通す。
「これ、本当なの?」
 そばに控えていた初老の執事、徳山は少しだけ顔を頷かせともの様子をじっと窺っていた。長い付き合いの中で徳山が不確かなことを言っているのではなく、真実を語っていることをともは知る。それでもともはすぐに現実を受け止め切ることが出来ず、用意してあったカクテルを一気に飲み干した。
 色は淡くてもアルコール度数の高い酒は一瞬で喉を焼き、脳をふらつかせるが、どうも今日だけは何杯飲んでも酔えそうになかった。 
「確かめに行きたい。僕がこの目で」
「まさか、今からですか坊ちゃん? 稲穂様との夕食会がありますが……」
 ともがひと睨みすると、徳山はやれやれと大げさに肩をすくませる。言いだしたら引き下がらないと分かっていて、徳山はなかば呆れたような溜息を吐き出す。
「分かりました、キャンセルしましょう。車もご用意させておきます」
「ああ、今すぐに頼むよ」
 ともはすぐにジャケットを羽織り、報告書を手に持ったまま私室を出た。慌てながら螺旋階段を駆け下りたら、そこに稲穂の姿があった。
「家朝様……遅かったのでお迎えに参りました」
 エントランスで足を止めたともは、稲穂の姿を見て戸惑いをみせる。徳山と入れ違いになったらしく、稲穂は本宅までわざわざともを迎えに来た。本多家の稲穂は重要な人物であるが、今のともは先立つ気持ちの方が勝っている。
「ごめんね、夕食の約束なんだけど次でもいいかな。これから少し予定があってね。また埋め合わせはするから」
「え……ええ……了承いたしました」
 稲穂はあからさまに顔を曇らせ、がっくりと肩を落とした。わがままを言わず、引き止めない謙虚な姿勢は可愛くもあったが、今のともは早くこの場から去りたいばかりだ。   
 稲穂がともに好意を持っているのは知っているし、楽しみにしていた夕食をキャンセルするのは悪いと思っている。
「あ、あの、お気をつけて」
 稲穂が気遣って優しい言葉をかけてくれることもありがたい。彼女なら本当にともの支えになってくれて、どこまでもついて来てくれる女性だろう。それは十分分かっているはずなのに、ともの気持ちは違うところへと向いていた。
「うん、ありがとう」
 表面だけの言葉を返して、稲穂の頭を撫でようとした手を宙で止めた。それを待っていた稲穂が顔に陰りを落とし、それでも明るくしようとこわばった笑顔を作ろうとする。
「行ってくるよ。遅くなるだろうから待たなくていいよ」
「は、はい……」
 それを告げると、稲穂は視線を落として手に持っていたハンカチをぎゅっと握り締めた。
 夜の方の期待が見事に打ち破られ、ショックを隠せないといった感じだった。あれから何度か稲穂との夜は過ごしたが、稲穂と最後の一線を超えていない。
 自分の中にまだ残っているくすぶりが、その一線を超えさせないようにしているのか。
 それはとも自身にも分かっておらず、明確な答えというものが見つかっていない。魅力的で情欲にもそそられるが、なぜかその気になれなかった。
 稲穂がまだ顔を俯かせているが、ともは気づかない振りをしてエントランスを足早に去っていった。
 ともは待っていた車の後部座席に滑り込むと、すぐに発車する。流れゆく景色を気にすることもなくともはもう一度だけ報告書を開いて、それを目に焼き付けた。
 もう諦めていた愛しの人――そこには、義鷹と蘭の姿が写真に映されていた。
 ざわっと肌が粟立ち、ともは見入るように蘭だけを見つめていた。 







 


233

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next/  back

inserted by FC2 system