河畔に咲く鮮花  

最終章 義鷹との夜1


 月の綺麗な夜だと――そう蘭は思った。
 義鷹に連れて来られたのは、人魚の里と同じぐらい鬱蒼と木が茂った山奥である。
 恐ろしく静かな家は人の気配がまるでせず、ここには蘭しかいないような気がして奇妙な不安に駆られてしまう。
 人魚の里に戻ると思っていたのに「また健吾が来るかもしれない」――そう説得されて一時だけこの場所にいることを約束した。
 ここに連れて来た張本人の義鷹は何やら色々と忙しいようで、家にいないことがほとんどであった。
 それでも合間を縫って義鷹が部屋に訪れる時は、上品なお菓子や服などを用立ててくれる。
 そんなある日、ある女が蘭の身の周りの世話をしてくれることになった。
 それを見て、蘭は思わず目を見開いてしまう。
「蘭様の身の周りのお世話をさせていただきます」
 深々とお辞儀していた女が顔を上げた瞬間に、にぃっと薄く笑った。
「佐伯和葉と申します」
 佐伯――苗字は違うがそこにいたのは、紛れもなく綾門院和葉である。
「か、和葉さん?」
 人魚の里では存在を隠されていた和葉が目の前にいる。
「ほ、本物ですか?」
 蘭は驚いて、和葉の顔をべたべたと触りこの世に存在していることを確認した。
「嬢ちゃん、生きているって分かった?」
「和葉さんって人魚の里にいたんですよね? みんな、知らない振りをして……夢かと思っていたんです」
「まぁ、アタシの存在は知られないようにしていたからねぇ」
 和葉がにこにこと笑い、蘭の髪をわしゃわしゃと掻き回す。
 この癖は同じようで、蘭は乱れた髪を直しながらも自然に微笑んでいた。
「え、でも、何でここに?」
「ふふ、志紀様から連絡があってね。今川の若様の行動を見張っていたのよ。偽名まで使用して、嬢ちゃんの世話役を買ってでたのよぉ」
――志紀が?
 志紀が和葉に命令してここに来てくれたかと思うと、気持ちが温かくなっていく。
「じゃあ、義鷹様と志紀が協力してくれたんですか?」
「半分は正解、半分は不正解」
 和葉がそう言うので、蘭はどういうことかと首を傾げた。
「若様と志紀様が接触してあることを頼んだのは本当。でも、ここに嬢ちゃんを連れて来ることは若様だけの独断」
「独断……ってことは、ここにしばらく住んで、ほとぼりが冷めた頃、人魚の里に戻してくれるってことですか?」
 蘭が問いかけると、和葉がにこりと微笑んで唇を塞いでくる。
――この人……動きが早い……
 驚いて目を見開くと、ぬるりと和葉の舌が忍び込んできて何かが口の中に押し込まれた。
「うぐっ……ンっ……」
 小さな塊が気管支に詰まり、どんどんと胸を叩く。  
「ま、また何か飲ませましたね、和葉さん!」
 和葉がぱっと離れて、ふふと怪しく笑いを漏らした。
「眠り薬とかですか?」
 人魚の里の時も和葉に何かを飲まされた後、ふっと意識がなくなった。その類かと思ったが和葉はゆっくりと首を横に振る。
「嬢ちゃんに飲ませたのは避妊薬」
 和葉が冷静に言うので、蘭は一瞬何を言ったか理解しかねる。
「え、ど、どういうことですか?」
 瞬時に和葉が男だったということを思い出し、思わずじりじりと後ずさってしまう。
「ここから脱出したいんだけどぉ、意外に入るのは簡単でも出るのが難しくってさ。嬢ちゃんは知らないと思うけど、かなりの数の者がこの屋敷に配置されてるの」
 和葉がちらりと部屋の隅を見て、ぽりぽりと頭を掻く。
「あちこちにカメラも設置されてるし、若様って嬢ちゃんをここに閉じ込めたいのね」
「義鷹様が……私を?」
 ざわりと胸が騒ぎ、視線を部屋の隅に移す。そこには小さなカメラが設置されてあった。「そ、だからぁ、嬢ちゃんが若様に犯(や)られるのは目に見えているから……アタシからの餞別ってわけ」
「そ――んな」
 蘭は掠れた声を出すが、和葉は絶対に起こりうると確証しているようだった。
「怖い? だったらアタシが先に抱いてあげようか? 死ぬほど優しくしてあげるから」
 和葉の手がそっと頬を撫で、蘭の顔を輪郭をなぞっていく。
 優しいタッチで触られるとぞくぞくと体が震えた。
「か、和葉さん――」
 和葉の指が触れるたびに、身体の全てが性感帯になったかように痺れが走っていく。
「ふふ、これだけでも気持ちいいでしょ? こうやって情報を女から取るのもアタシの仕事だしねぇ」
――仕事……
 和葉の指に堪能していたのも束の間、その言葉にはっとする。
「和葉さんっ! せ、背中は?」
「ちょっとぉ、大きな声出さないで。びっくりするじゃない」
 蘭の大きな声に驚いたのか、和葉はびくっと肩を跳ねさせた。
「お願いします、和葉さん。背中を見せて下さい!」
「まぁいいけど。別に楽しいものじゃないわよ」
 和葉はシャツを脱ぎ、背中を蘭に向けたままその場に座る。
 ところどころ小さな傷や、ひきつった跡があるが、その中でも新らしいものに目がいった。
「これ……私を庇った時のですか……?」
 そっと傷に触れると、どうしてか涙が溢れてきそうになる。
 昔も誰かが蘭を庇い、その背中に大きな傷を負ったことがあるような――
 痛ましい背中を見ていると誰かと姿が重なった。
それが誰かは分からないけど胸を締め付けるほど切ない気持ちになる。
 それだけが蘭の心を支配して、涙がこぼれ落ちていく。
「嬢ちゃん、泣いているの?」
 和葉がふと振り向いて蘭をそっと引き寄せた。
「大丈夫よ……アタシは慣れているから」
 和葉の胸はしっかりとして逞しく、やはり男だったのだと頭の片隅でそれだけを考える。
 それでも涙は止まることがなく、悲しみが心を濡らしていった。
誰も、もう傷ついて欲しくない。
 そういう強い気持ちが募り、泣くことしか出来ない自分を悔しく思った。
 それは誰に対して思ったことなのか、どうしてか思い出せない。
 いつも出てくる陽炎のような人物――。
 手に取ろうと思っても、すぐに消えゆく幻の人――。
 志紀を想う優しい気持ちではなく、激しく燃えるような感情。
 あなたは――誰?
 そう問うてもその人物は沈黙して、蘭に歩み寄ろうとはしない。
 掴もうとすると指の間からすり抜けていき、空中で霧散してしまう。
やっぱり消えてしまう……影の人……。
 それが男か女か分からなかったが、この締めつけられる気持ちは女に対するものではないと思っている。
 きっと――男の人に違いない。
 そう確信するが、やはり思い出すことは出来なかった。
 和葉の腕の中で泣いていると、すっと体が離される。
 そして、視線を扉の向こうに移し、何かを確認しているようだった。
「音がする。この優美な歩き方は義鷹様ね……来るわよ嬢ちゃん」
 和葉は音もなく部屋の隅に移動して、すっとその場に正座をした。
「大丈夫、アタシは嬢ちゃんの味方だから」
 和葉がそう言って、蘭の気持ちを落ち着かせる。
 数秒、和葉が言っていたように襖が開かれて義鷹がその場に現れた。
 布に包まれた四角い箱を持っており、優雅にその場に座ってすいっと和葉に視線を送る。
「席を外してくれるかい」
 和葉は静かに頷くと楚々とした動きで部屋から出て行ってしまった。
「お菓子を持ってきたんだ。今日はタルトだよ」
 義鷹はいつも訪ねてくる時は用立ててくれて、好みそうな上品なお菓子を持ってきてくれる。
 さっと座り、お菓子を自ら用意してくれるとすぐに口元に持ってきてくれた。
「はい、蘭。口を開けてごらん」
「義鷹様……一人で食べられます」
 そう言ってみたところで義鷹は意に介することなくそのままタルトを手に持っている。
「腕が痺れてきそうだよ、蘭」
 そう言われるといつまでも持たせているのが悪いと思ってしまい、義鷹の思惑通りに口を開けてしまう。
 そしてタルトにぱくりと食いつくと、口内に甘くて爽やかな香りが広がっていった。
「おいしいです……」
「ふふ、柚子の香りがいいだろう」
 義鷹はにこりと笑うと、蘭が噛み付いた後のタルトをぱくりと口に含んだ。
「義鷹様……」
「おや、貴族ともあろう者が下品だって?」
「いいえ、そうではないですけど」
関節キスでいいのかな……。
 急に気恥ずかしくなり、顔を俯かせると義鷹の優美な指が伸びてくる。
 そっと顎に手をかけられ蘭はゆっくりと上向かされた。
「義鷹様……」
 蘭を見つめる義鷹の瞳が揺らぎ、花のような麗しい顔が曇っていく。
どうして、そんな表情を……。
 義鷹は蘭を見つめる度に、どこか悲しそうにするのだ。
「蘭……お前は幸せだったかい?」
「それは……人魚の里でのことですか……」
 蘭の幸せに直結するものは、人魚の里での出来事が全てだった。
 それ以降の記憶は曖昧だし、未だに思い出せないことばかりだ。
 志紀の顔、そしてその大輪の花のような笑顔を思い出すと、ぎゅっと胸が絞られる。
「はい……人魚の里の私は幸せしかありませんでした」
 その答えに義鷹は目を見開き、苦しげな表情を浮かべた。
「幸せしか……なかった……か」
 何かいけないことを言ってしまったのかと思い、不安が広がっていく。沈黙が気まずくて何か喋らなければと思っていた時、義鷹の表情から迷いのようなものが消えた。
 それはどこか決意し、燃えるような激情を込めた瞳で蘭を見つめる。
 顎を持ち上げていた義鷹の長い指が蘭の頬をじっくりとなぞり――、
「ごめんよ、蘭。私はお前の幸せを今から散らす」
「――え」
 どういう意味か聞き返そうと思った瞬間、蘭の視界は反転した。
 あっという間に押し倒され、蘭は天井を見つめる。
「私が幸せに……するから……」
 どこか自分に言い聞かせるように囁きを落とすと、義鷹は用意をしていた紐で蘭を手早く縛り上げていく。
「義鷹様っ……」
 両手を持ち上げられたまま手首を固定され、身体の動きを封じられた。
 義鷹の悲しげな表情だけが胸を痛め、なぜだか悲しみが広がっていく。
 なぜ、そんな顔をしてまで抱こうとするのか。
「義鷹様……」
 蘭を抱こうとする義鷹の方が傷ついた顔をして、それ以上何も言えなくなってしまった。






 





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