河畔に咲く鮮花  

長虎最終編


 あまり遅いと今度は長虎の方が蘭の元へやって来るだろう。
 そう思いながら、蘭はもう一度だけ手を洗って元の場所へ戻った。
だが屋敷がざわざわと騒がしくなり、蘭はどうしたのだろうと不思議に思う。
 戻った時、場は恐ろしいほど緊迫していて、蘭は飛び込んできた光景に唖然としてしまう。
 黒服を着た男達が、どかどかと土足のまま部屋に上がり込んで、長虎の家のものを運び出しているのだ。
 それに目を丸くした咲子と静音も何事かと成り行きを見守っている。
「君たち……勝手に人の家に上がり込んで、どういうつもりだ」
 長虎の声が怒気を帯び、黒服達を制するが一人が向き直り、内ポケットから紙を取り出し広げた。
「この家の資産は全て差し押さえられました。浅井家が所有する全ての会社は買収され、あなたに残されたのは債務のみ。証券・株は全て買い上げられ、この家の権利書もいただきます」
「――なっ」
 長虎は短く声をあげた後に、口をつぐんでしまう。
「何の冗談を言っているのですか。あなたたちどこの者なの? 黒田家がそんなことにはさせません。すぐに全ての株を買い戻してみせます」
 咲子が毅然とした態度でずいっと歩み出て、そう申し立てるが男たちは動じなかった。
「黒田家もそのようなことを言っている場合ではないと思いますが。浅井家よりもっと酷いことになっているでしょう。同じく財産を奪われた後で、莫大な借金が黒田家には残されております。おそらく、咲子様、静音様はその高貴なお体を売らなければならないでしょうが」
 黒服の男は蛇のように目を細め、咲子と静音をねっとりと舐めまわすように見つめる。
「な、何を言っている! なぜ黒田家がそんなことになるんだ。お前は馬鹿かっ」
 静音が髪を振り乱し、男に喚きたてた。
「静音様……綺麗なお顔だ……この私があなたを買ってさしあげましょうか」
 黒服の一人がいやらしい笑いを立てて、不気味な視線を静音に送った。
「な、何を言う、不届きな奴め!」
 静音が怒りながらそう言うが、黒男は冷静そのものだ。
「それならばご婦人相手の男娼をするがよろしいかと……私は両刀なので、姉君でもいいですが」
 ちらりと黒男が咲子に視線を移し、にやりと下卑た笑いを張りつけた。
「そこまで言うなら証拠を見せろ! じゃなきゃ納得出来る訳がないっ」
 静音は焦りを刻んでそう言い放つが、黒男はさっと証書を突きつけた。
「黒田家の借用書全ては若様のところに集まっております。そして、あなた方のお父様の印鑑も押されてある」
 咲子がばっと男から証書を奪い取り、目が空くほど見つめる。
「嘘よ、こんなのでたらめです! この印鑑も偽造したに過ぎません」
 唇が色をなくし、咲子はわなわなと怒りを露にした。
「……それだけではなく静音様は罪を犯した。男娼どころかあなたは牢の中に入らなければならないのです」
 男は視線を静音に戻し、脅しとも取れる言葉を吐き捨てる。
「何を言う、この僕が何をしたというんだっ」
 静音が興奮収まらぬ様子で叫ぶが、男は冷静であった。
「あなたはいつも身分の低い女を買い、暴力を奮いながらカメラに収め、使い者にならなくなるまで陵辱し続けた。それは犯罪でしょう」
 男の言い様に静音は呆気に取られて、ぽかんと口を開ける。
 だがすぐに肩を揺らして大声で笑い始めた。
「その、何が悪い? 下虜など虐げられてあたりまえだろっ」
 馬鹿にした笑いをあげる静音を見て、男はやれやれと肩を竦めた。
「覇者は誰からも裁きを受けないとでも思っているのですか? それならばそんな考えは今日をもって捨てた方がいい。不正を働く覇者を平等に裁くことが出来る……その人物を知っておいででしょう」
 静音の笑いはぴたりと止まり、見る見る内に焦りを刻んでいく。
「それは前覇王から政の一部を担い、覇者を裁く権利を持つ者……今川義鷹様です。静音様も顔を合わせたはずですが」
 その名前を聞いた瞬間、その場にいた一同は驚愕を目に刻みつけた。
「い、今川義鷹だと……」
 静音の声がからからになって絞り出される。
 長虎も同じく、眉根に皺を寄せてなんとも言えぬ怒りを刻みつける。
「あいつ……まさか……この数日で浅井家と黒田家を潰す手配を裏でしていたっていうのか」
 静音が茫然自失と呟き、はははと乾いた笑みを漏らした。
 その一部始終を見ていた蘭は信じられない思いで見つめてしまう。
 義鷹が訪ねてきたのは数日前のことである。
「まさか……あいつ……下虜を殴ったことを恨みに思って……」
 静音の視線がばっと蘭に向けられ、ぎりりと歯を食いしばる。
 その瞳が狂気じみていて、蘭はぞくりと背筋を震わせた。
「蘭……」
 長虎がようやく蘭の存在に気がつき、それだけを空虚に呟いた。
「な、長虎様……」
 蘭はふらりと歩んで、長虎の傍に駆け寄ろうとしたが男に制される。
 何事かと男を振り仰ぐが、視線は長虎に向けられていた。
「浅井様には一つだけ条件があります。若様も無慈悲ではありません」
 その言葉にえっと長虎は顔を上げて、男を見つめた。
「もし条件を飲めば、若様は全ての権利を返してもよいとのことですが」
「それは……何だい?」
 長虎が訝るように問いただすと、男はちらりと一度だけ蘭に視線を移した。
「ここにいる蘭様を若様に譲る……それが条件です。簡単なことでしょう」
 男は淡々と何でもないという風にさらりと言ってのけた。
「それは……出来ない相談だ。他の条件なら飲むよ」
 長虎がぎりっと歯を食いしばり、恨みを込めた視線を男に向ける。
「意地を張っている場合じゃないと思いますが。全財産なしでお父上を守っていけるなら別ですが」
 長虎ははっと顔を上げて、療養している父が寝ている部屋に視線を巡らせた。
「今川……義鷹っ……」
 そして恨みの念を込めた低い声が長虎から発せられる。
 それでも長虎は蘭を引き渡すと言わず、沈黙していた。
「困りましたね。では、お父上に聞いてみましょうか」
 男が顎をしゃくると他の者が長虎の父の部屋へと向かっていく。
「止めろっ! 父には指一本も触れさせない」
 長虎が激しい感情を露わにし、男に強い視線を投げる。男と長虎の間に激しい火花が散ったような気がした。 
「長虎様……私……」
「言うんじゃない、蘭……これは僕が決めることだ」
 義鷹の元に行くと言う言葉を長虎に制され、蘭は押し黙るしかなかった。
 男との間で目に見えない激しい応酬が繰り返され、それを見守るだけで神経がすり減りそうだった。
 そんな折に、救世主とも言える男がぬっと湧いて出てくる。
「よぉ、楽しそうな話をしているなぁ」
 いつもの陽気な声にはどこか険が含まれ、凄みを帯びた顔の健吾がどすどすと歩いてくる。
「なんだ、なんだ。長虎の家は引っ越すのか、あぁん?」
「健吾、見りゃ分かるでしょ。すっごい険悪なムードなんだからさぁ、ちょっとは緊張しなさいよ」
 その後ろからとことことアキが文句を言いながらついてくる。
「健吾……」
 長虎がどこかほっとしたように安堵の息を漏らした。咲子も縋るような目つきで健吾を見つめ、駆け寄る。
「健吾様、どうかお助けください!」
 今にも泣き出しそうな咲子をまぁまぁと宥めて、健吾はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「浅井家、黒田家の権利書はぜ〜んぶ、俺が買い戻す。そう今川義鷹に言っておけ」
「もし、足りなければボクも個人資産から出すから」
 アキが健吾の後ろからひょこっと顔を出し、おっかなびっくりで男にそう言った。
 初めて黒男の顔に動揺が浮かび、焦りを瞳に刻みつける。
――健吾様……アキちゃん……
 蘭もほっと胸を撫で下ろし、余裕を取り戻した長虎と微笑みあった。
「誰が、買い戻すんですか?」
 けれども――そこに降って湧いた涼しい声にぴりっと空気が張り詰める。
「あ……」
 蘭は思わずその姿を見て、目を大きく見開いた。先ほどから話の中心になっている人物、義鷹がこの場に現れたのだ。この惨状を命令したのにもかかわらず、義鷹はいつもと同じように優美な笑みを口に浮かべている。
「ああ、家財がどんどんとなくなりますね」
 義鷹は口では哀れんでいるが、どころか喜悦しているようにも見えた。
「今川……義鷹……」
 長虎が苦痛にも似た声をあげ、そこに悠々と現れた義鷹に視線を投げる。
「買い戻すって話ですが……健吾様、全てはこの手の中に収まっている。私が首を縦に振らなければ権利書はお返しすることはできません」
 あっさりと言い放つ義鷹はいつもの通り、鈴を転がすような音色で喋って――。
 艶やかな瞳をきらきらと輝かせ、たおやかに微笑んだ。
 その笑みがぞっとするほどの凄みを放っているように見えたのは蘭だけなのだろうか。
「これを回避するのは一つ。蘭を私に下さい。浅井様には蘭をしばらく置いてくれた恩赦として、恩賞を与えようというのですが、どうでしょうか」
 義鷹がにっこりと微笑みを振りまき、ぐいっと蘭の腕を引っ張る。
「義鷹様……」
 義鷹の強い力が蘭の腕に食い込み、蘭は動きを制された。
「蘭……大丈夫。何も心配しなくていい。新らしい家は用意したよ。私しかしらない……ね」
 義鷹の綺麗な笑みが降ってくると、なぜだか不安が広がる。
「蘭さえ来れば、浅井家は助かるんだよ。長虎様も心おきなくお父上の看病が出来る」
 義鷹の囁きはまるで悪魔のようで――蘭さえ行けば丸く収まるのだと突きつけられる。
「黒田家はどうなるのです、今川様!」
 咲子が泣きそうになる顔を必死で堪えて、義鷹に問いただした。
「――蘭はどうしたい?」
「……え?」
「蘭が決めていいんだよ、全ての未来を」
 義鷹の囁きが聞こえ、蘭はゆっくりと咲子と静音を見つめた。
「――っ……」
 咲子が驚きを露にして、大きな瞳で訴えかけてくる。
――助けて、と。
「おいおい、随分と意地が悪いな。いじめ抜いた黒田家にそいつが温情をかけるとでも思っているのかよ」
 健吾が呆れた風に言うと、静音はわなわなと震え始めた。
「……義鷹様……助けてあげてください……」
 そうぽつりと言うと、義鷹はにこりと微笑んだ。
「そう言うと思ったよ、優しき蘭……何も変わっていなくてほっとしたよ」
 義鷹は嬉しそうに微笑み、蘭の頭にふわりと手を乗せた。
「もちろん……蘭が一緒に来るという条件で助けてあげるんだよ。分かっているね?」
 義鷹が頭を撫でながら、有無も言わせない力強さで語りかけてくる。
「蘭……行くんじゃない……」
 長虎が声を震わせ、珍しく必死な形相を綺麗な顔に刻みつけた。
「蘭……分かっているね?」
 もう一度、義鷹が囁きかけ蘭は悲しそうにする長虎の瞳を見つめる。
「……はい、義鷹様……行きます」
 蘭 がそうはっきり告げると、義鷹は満面の笑みを浮かべた。
「では、浅井家と黒田家の全ての権利書をお返ししよう……」
 義鷹がくいっと顎をしゃくり、男達が証書を返す。
「ああ、だけど一つだけ。黒田静音だけは罪を償ってもらおう」
 義鷹が嬉しそうに笑い、男達に静音は押さえつけられた。
「な、何で、止めてくれっ! 嫌だっ! 助けてくれっ!」
 静音が暴れるが、男達の屈強な力には敵うはずもない。
「あなたに買われた娘もそうやって、懇願したのでは? それでも壊れるまで犯し続けた……同じ目に遭ってもらい、気持ちを分かってもらいましょうか?」
 義鷹が残酷なことを言っているのに、綺麗に微笑んでいる。
「静音っ!」
 咲子が手を伸ばすが、それもく男達によって取り押さえられた。
「これ以上、静音を庇えばあなたにも同じことを体験してもらいますよ」
 義鷹に冷たい口調で言われた咲子は諦めたようにぱたんと腕を下に下ろした。
「さぁ。引き上げようか。行こう、蘭」
 義鷹の手がそっと肩に回され、蘭は逆らえずにこくりと頷いた。
「蘭……待っていてくれよ……必ず取り戻すから」
 長虎が声を震わせ、怒りを刻む姿が悲しく目に映った。
「……俺が御三家に入って何とかしてやる……長虎」
 健吾も珍しく余裕のない声音でそう低く囁いた。
「蘭……」
 健吾の後ろから出てきたアキがぽつりと囁き、蘭は長虎から視線を剥がすようにして歩き始める。
 ごめんなさい……長虎様……。
 短い間だったが、長く感じたこの屋敷での思い出が心を吹き抜けていく。
 最初は冷たかった長虎がいつしか春のような微笑みを浮かべて、泣いたり戸惑ったりする姿が思い浮かんだ。
 それでも陽だまりのような笑みを心から出来る日がきて――。
 その微笑みを胸に留めて、蘭は義鷹と共に長虎の屋敷を去って行った。



河畔に咲く鮮花 長虎編最終






 





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