河畔に咲く鮮花  

第四章 四十二輪の花 4:志紀の正体


 ***



 義鷹は人魚の里に訪れて、蘭が上杉健吾に連れ去られたことを知った時には体が燃え上がりそうな怒りを感じた。
 すぐにでも取り戻し、蘭を保護しようと思ったが、もう人魚の里には置いておけない。
 この場所はもう露見してしまい、蘭を戻してもまた健吾がやって来ては意味がない。
「こうなったのも全てあなたのせいだっ」
 公人に強く言われた時は、義鷹は正にその通りだと自分らしくないほど、気持ちを沈ませた。
 義鷹が浮ついた気持ちを制御出来ずに健吾などに尾行されたことがいけなかったのだ。
 何を思って健吾が蘭を連れ去ったのかは分からないが、ともにはまだばれていないようだ。
 変わった様子はないし、この頃、稲穂とも会話の量が増えているように思える。
 だが、このままにしておくことは出来ない。
 義鷹はとうとう決断を下す時がやってきたと肝をすえる。
「志紀殿にお話があります、お時間をもらえませんか」
 義鷹が志紀を目の前にして、神妙な面持ちをすると深く頷かれた。
「もちろん、俺も聞く権利はあるからな」
 アユリがずいっと志紀の隣に並ぶと、公人も視線を投げてくる。
「公人も一緒に聞くがいい。この志紀の本当の正体を明かそう」
 志紀がそう観念したように呟くと、公人は人形のような美しい顔を少しだけ崩した。
アユリや義鷹を見回すが、二人とも表情を変えていない。
「志紀殿の本当の正体……?」
 公人が戸惑いながら呟くが、ざあっと吹く強たい風によって、言葉はかき消されていった。
 


***


 志紀の家に招かれた義鷹は、蘭の痕跡を残す靴や洋服を見て胸を痛める。
 蘭は今頃、どのような扱いを受けているのだろうか、それだけを考えるだけで、苦しくなる。
 ここでの話し合いが終われば、すぐにでも上杉健吾を追いかけよう。
 そう心に決めて、義鷹は簡素な造りのダイニングに腰を下ろした。
 貴族のトップである権力者の義鷹が座ることのない、貧乏臭いテーブルと椅子。
 だが、ここで蘭が食事をして、いつも笑っていたと思えば、ひどく愛しさが湧いてくる。
 くたびれたテーブルクロスをそっと撫でると、蘭の暖かさが残っている気がして、少しだけ心が満たされた。
 茶を淹れる志紀の後ろ姿を眺めながら、この美しき青年に抱かれたであろう蘭を思うと、胸が焼かれそうになる。
 だが仕方のないことだ、記憶のない蘭にとっては、この場所は新しき世界で、雪のことすらすっかり忘れているのだから。
 それにこの里にいるときの蘭は、本当に幸せそうで、いつも良きところを教えてくれていた。
 それを思うと、義鷹という修羅の世界のものが、この極楽浄土のような場所に踏み入ってしまったのは間違いだったのかもしれない。
 今更、後悔に悔やみながらも蘭を諦めきれない、悲しいほどの執着に苦しむ。
「高級な茶ではないが、喉を潤すことは出来るだろう」
 目の前に湯呑を置かれて、義鷹は現実に戻ると、真正面に座る志紀を見つめる。
 その隣にアユリが座り、義鷹の隣には公人が腰を下ろした。
「まず、蘭のことを教えてもらおう。あなたなら全てを知っているはずだ」
 志紀の深い瞳に見据えられて、義鷹はまるで神に懺悔するようにこれまでのことをゆっくりと話はじめた。
 幼き蘭に初めて会った時から恋をして、心を奪われたこと。
 そして明智光明に出会い、壮大な計画を立てて、覇王失脚を狙ったこと。
 そのために愛しの蘭を影では利用し、織田信雪に会わせて、恋に落とそうとしたこと。
 そして義鷹に裏切られた蘭は、本玉寺の出来事で、記憶を失い、この人魚の里へ流されてきたこと。
 雪の行方は今も不明で生死さえも分かっていない。
 その変わりに徳川家朝が少年覇王として、成り代わり国を統一していること。
 全てを話し終えた後に、場は深閑と不気味なほど静まり返った。
 それもそのはずだろう、これまでに義鷹がしてきたことは、悪魔のような所業なのだから。
 さすがの志紀も参っているようで、その美しい顔に苦しげな翳りを落としていた。
 まだ年端もいかないアユリはわなわなと体を震わせている。
 公人に至っては、恨むような目つきで義鷹をずっと睨みつけていた。
 自分がどれだけのことをしてきたかは分かっている――後悔しても過去には決して戻れない。
 苦しくても前に進むしか道は残されていなかったのだ。
「蘭の背景については薄々は勘づいていたことだが、そこまで酷いとはな……あなたは本当に恐ろしい方だ……今川殿」 
 長い沈黙の後で、志紀はようやくそれだけをしんみりと呟く。
「僕は……蘭様のお付きでした……志紀殿、嘘をついてすみませんでした……」
 公人は自分の正体を明かすが、志紀はそれ程度ではもう驚きを顔に刻むことはなかった。
 それよりも義鷹から話された内容の方が、重くのしかかっているようだった。
 志紀の愛した蘭は、元覇王の妻だというのだから、そのショックは計り知れないだろう。 
 それでも義鷹には勝機があった。
 志紀はそれを知ってなおも、蘭という女性を愛して、全てを受け入れる許容の広さがあることを。
 その気持ちが今の義鷹の計画に大きく携わる一つの要因である。
 心の隙間を突いて、それすらも利用する義鷹は、すでに腐っているのだろうか。
「あなたが何を思っているのかは分かっている、今川殿。この志紀に王位返上して、この国を制して欲しいのだろう」  
 志紀のどこか決意を臭わせる静かな目を見て、義鷹は縋る思いを胸に秘め、大事にしていた分厚い紙面をテーブルに置いた。
「これは……?」
 公人だけが理解出来ないと、紙面に記載された王位返還状を見て綺麗な眉をしかめる。
「その昔、秘密裏にされていたが法皇がこの世界を制していた時期があった。
 だが、子孫の代で覇者に権力を譲り、出家してしまわれた。
 その名を法明院天音ノ宮(ほうめいいん あまねのみや)。
 そこから朝廷は解散し貴族として名を残し、今は覇者に仕えているというわけだよ」
 義鷹の説明を初めて聞いたとばかりに公人は唖然と口を開いて、反芻するように名を紡ぐ。
「法明院天音ノ宮……天音……天音志紀……」
 志紀の本来の名を聞いて公人はとうとう正体を知ったのだろう。
 驚きを刻む瞳を浮かべて、取り澄ましたまま茶を啜る志紀を見つめた。
「――神の血を引く――それは、比べるものがないほど気高く清らかで汚れのない血を持つ者。法皇の末裔が、志紀殿というわけなのですか」
 公人も噂ぐらいには聞いたことがあったのか、まさか本当に法皇の子孫がこの世に残っているとは思っても見ない表情を浮かべる。
 人魚の里の者は知っていたようで、口々に神の血を引く高貴な人と言っていたのを思い出したようだ。
「我が祖先は、国の争い事に辟易し、静かな道を選んだと言われる。そしてこの志紀も同じくその意に賛同し、俗世のことには干渉しないようにしている」
「分かっております、だが、あなたがもう一度主上になられるなら、朝廷を動かしていた貴族達は再興致します。今でも、あなた様の復興を臨まれる者は数多くおられ、法皇を支えていた政を担った十三老院達も力を貸すでしょう」   
 志紀の突っぱねるいいざまにも義鷹は諦めず、情熱的に語り述べる。
「……十三老院……かつて朝廷の組織が作った役所のトップの子孫達……そこまで知っているとはな……」
 志紀は物思いに耽るように瞳を揺らめかせて、ふぅと溜息を吐き出した。
「はい……今でも裏では絶対的な権力を持ち、密かに覇者達の争い事を鎮めていたりします。志紀様もその少年を助けた時に、その者達の力を借りたと調べはついています」
 その少年――それはアユリに向けられたものであった。
 義鷹はアユリが覇者の男に秘密倶楽部に斡旋され、女相手にオークションにかけられていた事件を知った。
 世のことに干渉しない姿勢をみせていた志紀はそれを破り、アユリを助け出した。
 その時に、十三老院の者の力を借り、男ともども密かに秘密倶楽部ごと潰した。
「あの時のことは……綾門院和葉……あの者に世話になった……そこまで調べておいでか?」
 志紀の深い瞳に見つめられ、義鷹はこくりと静かに頷いた。
「……はい。十三老院の中でも三大トップの一つ……綾門院家の者……調停者の一人であることは」
「ふん……良くもそこまで調べたな」
 志紀は驚きを目に刻みつけ、感嘆した。
 義鷹は調べをつけて、志紀は本当は懐の深い人物だと推測する。
 俗世に興味は本当にないのだろうが、この里の一部の者が危害を加えられ、苦しむ姿には耐えられないようだ。
 その熱い熱情はきっと蘭にも向けられているはず。
「……だが、それには現覇王のサインと覇王の記の返還が生じる」
 志紀が前向きにもう一度、国のトップに立つことを検討していることはその言葉で理解出来る。
「――では、志紀様は王位を返還していただければ、本当にトップに立たれる決心を――」
「まだ、立つとは言ってはいない」
 義鷹の熱を帯びる声に上乗せして、志紀の冷ややかな視線が降ってきた。
 冷たい空気を肌で感じながらも、義鷹は負けずと顔を上げた。
「もう――あなた様しか頼れる方はいらっしゃらないのです……お話をした通りに蘭は下虜でございます。もし、私に力があればこんな思いをさせずには済みました……勝手な言い分ではあると思われましょうが」
 義鷹の綺麗な瞳は苦しげな色を滲ませ、悲壮感を漂わせていた。
 これは演技でも何でもなく、本当に義鷹の真の気持ちである。
「勝手なこといいすぎだよ、あんた。蘭ねーちゃんを利用して、裏切ったくせに」
 アユリが毒を吐くような言葉はどす黒くこの空間を埋め尽くす。
 同じ心境なのか公人も同情も哀れみもない瞳で、勝手な言い分の義鷹を凍てつく眼差しで睨んでいた。
「私がっ――私がもし蘭を利用しなくても……結果は同じだったでしょう。雪様は私の屋敷にいる蘭に恋をして、この腕からやすやすと奪ったはずです」
 義鷹は綺麗な顔を歪ませて、ぶるぶると怒気を体に纏い、怒りに孕んだ瞳を志紀にぶつけた。
「だが、貴族程度の私が雪様を阻止することなど出来ないっ! 覇王に誰が逆らえるとでも? 蘭をそのまま下虜街に住まわせていたら、きっと彼女は身売りして、今頃どこかの腐った男に囲まれているか、遊女の菫街に売られていたはずだっ! 下虜とはそのようなゴミのような扱いで、人権も尊厳も踏みにじられるっ」
 鬼気迫る義鷹の変わりように一同は呆気に取られて、驚いたまま固まっている。
 それもそのはずだろう、義鷹はいつも貴族の雅な仮面を身につけ、優美に微笑み、柔らかく囁いているのだから。
「蘭を……下虜としての蘭を……この手で幸せにしたいのに……私は何一つ力を持たない……だから、覇者の時代を終え、法皇の世界を求めているのだ。志紀様なら十分に値する。そうでしょう? あなたなら、こんなくだらない身分階級など崩すはずだ」
 迫力ある義鷹の演説に聞き入っていたのか、志紀は少しだけ動揺の色をその澄んだ瞳ににじませた。
――そう、あなたならこのくだらない世界を壊してくれる
 義鷹は志紀という青年を見て、世を制するに値する人物だと睨んでいた。
 その許容の大きさも、思慮深さも何一つ非の打ち所はない。
 圧倒的な存在感で人の上に立ち、上手くこの里の者を収めている。
 志紀ならきっと闇に沈んでいる世界をその眩しいほどの光で照らしてくれるだろう。
 神のように君臨する姿を想像しては、義鷹にはこの者しかいないと断定が出来る。
 蘭だけを見ていた公人さえ、志紀には一目置き、随分と慕っているように思える。
 この青年にはそう思わせる魅力と信頼が兼ね揃っていた。
「そのためなら、私はこの命を捧げてもいい――下虜の世界を廃して、蘭がもう誰にも尊厳を踏みにじられない為にも――それには公人も同意してくれるはずだ」
 義鷹が鋭い視線を向けると公人は言葉に詰まったように口を閉ざす。
 公人は蘭が覇者争いの駒に使用されることに、心を痛めているようだった。
 その公人なら義鷹の気持ちは痛いほど分かるであろう。
 どれだけ自分が守ろうとしても、覇者達のゲームの盤上に乗せられたら、誰も逃れられないことを。
「どうすんの、志紀……本当に法皇復活させるの……?」
 アユリは志紀が法皇として復活したなら、この里がなくなってしまうことを危惧しているのか、不安そうな声を出す。
 志紀はまだ迷っているようで、静かに視線を落としていた。
「だが、王位返還といっても先ほど聞いたように、覇王のサインと記を戻して貰わなければならないでしょう? まさか、また蘭様を利用して、徳川様にけしかけるのでは?」
 公人の鋭い指摘に志紀の長い睫毛がぴくりと震えて、ゆるりと瞳が義鷹に向けられた。
「そうだよ、また利用する気なのかよ! あんたの話じゃ徳川家朝も蘭ねーちゃんに執着しているみたいだし。王位返還を促すうってつけの人材じゃないか」
 アユリも怒気を孕んで義鷹が何を企んでいるか推し量ろうとしていた。
 義鷹は深く溜息を落とし、決意したように一同を見つめる。
「私がとも様にお話して説得致します。蘭の為ならこの命などやすいものです」
 義鷹の真剣な眼差しに固い決意を読み取ったのか、志紀はようやく重い口を開いた。
「ならば……この志紀を徳川家朝に会わせてくれないか」
 それに驚いたのは義鷹だけではなく、アユリも公人も目を丸くした。
「徳川家朝という男を見て決めるのも悪くはない。もし、覇王として世を正す気がないのであれば……この志紀が立ってもいい」
 志紀の決意を宿した姿は光明(こうめい)を湛えたようにも見え、義鷹はその気高き美しさが眩しくて目を細めた。
 強いのに暖かい慈悲の光は正に神の如く神々しく輝いている。
――ああ、このお方は本当に生まれついて元より、神の血を引いておられるのだ
 義鷹でさえ一瞬で、志紀の強き心に打ち震えて、目を奪われる。
「志紀っ! そんなことしなくてもいいじゃん! 蘭ねーちゃんを取り戻して、この里で暮らせばいい」
 アユリが反発するが、志紀はもう決意を固めたのか首を横に振った。
「蘭を取り戻しても、もう遅いだろう。すでに我々もゲームの盤上に乗ってしまった。
 徳川家朝に蘭が生きているのが知られるのは時間の問題だ。そうなれば、どうあがいても覇王はこの里に目を付け、あの上杉健吾と同じように焼き払おうとするだろう」
 先日、上杉健吾から脅された夜を思い出したのか、アユリはぎりりと奥歯を噛み締め、苦渋の色を浮かべる。
「あんたさえ、来なければ俺たちは幸せに過ごしていたのに!」
 アユリが弾くように椅子から立ち上がると、義鷹に強い口調で抗議をする。
 義鷹はその意見に反論することは出来ずに、済まなそうに顔を俯かせた。
 アユリの言うことは間違っておらず、義鷹さえこの里に来なければ、蘭は幸せに過ごしていたはずだ。
 義鷹こそが蘭の鬼門に当たるのではないかと今更ながらに後悔をする。
 少年時代に会わなければ、蘭の運命をここまで捻じ曲げることはなかったであろう。
 幸せにしたいと願った相手を自ら不幸にしてしまっているのだ。
「アユリ……すでに起きたことを否定しても始まらない。
 俺たちはこの現実を見据え、前を向いて進むしかないんだ」 
 志紀の落着き払った声音にアユリはようやく気が静まったのか、力をなくしたようによろりと椅子に身体を沈める。
 肩を落として顔を俯かせてしまったアユリの頭に志紀は手を乗せると優しく撫でた。
「……蘭ねーちゃん……蘭ねーちゃん……会いたいよ……」
 アユリが悲しげに発せられる悲哀を帯びた声は、義鷹の胸にもしんみりと染み込んでくる。
 年端もいかない少年の心を痛めた様子を見て、義鷹は済まないと囁くように詫びた。
「――本当に徳川様に会うのですか、志紀殿」
 公人も不安そうな面持ちで志紀を窺うが、すでに本人は決意を固めているようで迷いを一つも見せない。
「言っただろう、公人。俺は蘭とお前をこの里の一部と受け入れた瞬間から、全ての禍から守ると」
 志紀の柔らかい微笑みを見て、公人ははっと目が覚めたように顔を上げる。
 すると志紀は慈愛に満ちた瞳に、優しさを滲ませて大輪の笑顔を咲かせた。
「お前たち二人の絶望がこの世界のどこまで広がっていても、この志紀があまねく光で照らして見せようと」
 志紀の心の深さを見せつけられた公人は、瞳にじわりと涙を浮かべた。
「志紀殿……あなたは誰よりも大らかで深いお方だ……」
 公人はわななく唇を震わせて、最大の賛辞と敬愛の念を志紀に送る。義鷹は胸の前に拳を作り、静かに目を閉じると、止まらぬ運命の奔流に身を投じることを決心した。
 蘭の為に――たった一人の女の為に、覇者を倒す義鷹は滑稽だろうか。
 貴族のトップという権威を壊してでも、世を平定しようとする愚かな男。
 それでも義鷹はもうこの足を止める気などはなかった。
 貴族の座を奪われても、志紀が身分階級を打ち崩し、下虜が――蘭が自由に生きていける世を望む。
 その為には悪鬼だろうが、修羅王になろうが義鷹はかまわない。
 たった一人――この命を懸けても、蘭の幸せを願わずにはいられないのだから。
 未来――この伸ばした手の先に蘭がいることだけを祈って。
 瞼を閉じれば目を灼く落日の中で、蘭が隣に肩を並べ笑っている姿が思い浮かんだ。
 ようやく一緒にいることが叶ったねと、あの時の約束を交わした日々を懐かしそうに語る。
 この胸に抱き優しいキスを重ねる――それだけを思い、義鷹は瞳に決意を宿らせた。  





213

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next/  back

inserted by FC2 system