河畔に咲く鮮花  

第四章 四十一輪の花 2:長虎の心


 ***

 片付けが終わったのはもう夕日が沈む頃だった。
 荷物を片して、部屋を隅々まで綺麗にするのに一日もかかってしまう。
 晩御飯は勝手に食べろと言われた蘭は、調理場へ向かう途中に部屋の中から声をかけられた。
「長虎か?」
 障子の向こうで影が揺らめき、蘭に誰だと疑問を投げかけてくる男の人の声。
 低くてしっかりした声はたまに揺らいで、げほげほと咳を繰り返した。
「あの、失礼します」
 咳き込んで苦しんでいる人を見過ごすことが出来ずに、蘭はつい障子を開いて室内を覗き込んでしまう。
 そこで見たものに驚いて、蘭は情けなくも口をぽかんと開けてしまった。
 びっしりと観葉植物が室内の四方を囲み、その真ん中の敷き布団で初老の男性が寝ている。
 蘭に気がつき、体を横向けにして痩せた腕でおいでと促してきた。
「君はメイドさん? でも見たことがないね」
 口調が長虎と似ていることに気がつき、蘭は失礼なほどまじまじと男性を見てしまう。
――もしかして、長虎様のお父さん?
 大切に扱われていそうな初老の男性は、この屋敷でもかなりの権力を持つ人なのだろう。
 人の良い微笑みの奥にはどこか威厳があり、蘭が気軽に話しかけられる相手ではないと悟る。
「ん?」
 だけど男性が答えを求めているようで、微かに小首を傾げて見せた。蘭は我に返るとたどたどしく喋り始める。
「いえ、あの。少しだけお世話になっているというか。そのお、メイドみたいなものです、はい」
 蘭はどう説明していいかが分からずに、結局はそう答えてしまった。男性はうんうんと優しく頷いて、よろしく頼むよと弱々しく言った。
「どこか、加減が悪いのですか?」
 青白い顔は虚ろで、生気も感じられないほど弱々しい。
 まだ五十代ぐらいだろうが、随分と老け込んでいるように見えた。
「一度病気をして寝込んでね。それからこの地に療養しに来ているんだけど、どうも調子が悪い」
 男性はまたごほごほと咳を繰り返し、陽の当たらない背の高い観葉植物に埋もれたまま、苦しそうに顔を俯かせた。
「大旦那様、お食事をお持ちしました」
 障子の向こうからメイドの声がかかり、蘭は思わず振り返る。
「そこに置いてもらえないか」
 男性は弱々しいながらも威厳ある口調でそう命じ、蘭に御飯を取ってくるよう頼んでくる。
 蘭は頷いて障子の向こうに置かれてある男性の食事を見下ろした。
 病弱な男性に与えるようなものかと思うほど、贅沢で豪華な食事。
 ぶ厚い肉のステーキに色鮮やかな体を冷やす生サラダ。
 後は蘭も分からないような、飾りつけがされてある盛りもの。健康なら全く問題はないであろうが、これは病人にはきつい。
「まさか、このようなものを毎日、食べていらっしゃるとか?」
 蘭はそうであって欲しくないと顔をねじり、男性に聞くがそうだとあっさり返ってきた。
「あの、これでは辛くないですか?」
「食欲がなくて、ほとんど食べていないがね」
 それは食欲の問題ではなく、この食事が喉を通らないだけだと蘭は呆れる。
「もし、よろしければ私が作ってもいいでしょうか。このような贅沢な食事ではないですけど」
 蘭の思いがけない提案に男性は目を丸くするが、すぐに口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ、いいとも。持って来てみなさい」
 男性からの許しを得て蘭はさっそく調理場へと向かった。
 長虎に言われているのか、シェフもメイドも一切、蘭を手伝おうとはしない。
 そちらの方が楽なので、蘭は大量にある材料から一般的な料理を作った。
 料理を終えて男性の元に戻り、今更怖気つきながら、料理を目の前に差し出す。
 よく考えるとこの男性は長虎の父親であろうから、蘭が食べるような食事は口に合わない可能性がある。
 健康を考えて作った煮付け物や、魚、おひたしを目の前にして男性は箸を躊躇いがちに伸ばした。
 口に含む男性の表情は和らぎ、次から次へと料理を食べていく。
「うん……深みのある味でおいしいよ」
 男性から褒めの言葉をもらい、ようやく気持ちがぱあっと晴れた。
 食欲がないと言っていた男性は綺麗に御飯を平らげて、これからも作って欲しいと言ってくる。
「御飯の時だけではなくて、見舞いも来てくれるかい? お嬢さん」
 長虎の父は優しく痛ましいほどに切ない顔で懇願してくるので、蘭はこくりと頷いた。
 薬を飲んで寝てしまった父親に布団を被せて蘭はそっと回廊へ出た。
 お膳を下げようとしていた蘭は月明かりの中、凄い形相で迫って来る長虎の姿を目撃する。
「ここで、何をしていたんだ!」
 声を荒げて詰め寄ってくる長虎を見て、蘭は言葉を失ってしまう。
 いつものんびりと事を構え、嫌味を飛ばしてくる冷静さが今は欠けているように見えた。
 激しい感情のまま長虎は我を失ったように、蘭の腕を掴んでお膳を庭先へ払い落とす。
 ぎりっと腕が締め付けられ、蘭は長虎の恐ろしいほどに鬼気迫る、氷の美貌を見上げた。
 この人は本当は激しい熱を内に隠しているのかも知れないと、本性を今更知って蘭は怖々と身体を震わせる。
「さぁ、答えろっ! 僕の父親に何の用だっ、下虜!」
 荒々しい声と反した冷たい美貌は月を背に冴え渡り、ぞっとするほど凄絶な美しさを湛えていた。
「私はただ……晩御飯を作っただけです……体が弱いのに、あのような食事では食欲も湧かないでしょう」
 万力のように込められていく長虎の力の強さに、蘭の体は崩れ落ちそうになる。
「食事だと?」
 長虎はようやく我に返り、自分が払い落としたお膳に目を落とす。そこには綺麗に平らげて空になった皿や、茶碗が無情にも砕け散って、庭に転がっていた。
「……父は残さずに食べたのか」
 ぽつりと漏らす声音にはどこか嬉しそうな調子が滲んでいる。
「ええ、豪華な食事もいいですが、胃腸に優しいものの方が健康的だと思います」
 緩んだ長虎の手から腕を引き抜いて、蘭は庭先に散らばった皿や茶碗を片付け始める。
 それを緩慢な動きで見ている長虎は、月明かりの中、小さく済まなかったね、と呟いた気がした。
「――ツっ……」
 砕け散った破片が蘭の指を傷つけ、挫けそうになるが長虎の前では弱音をはきたくない。
 横暴で傍若無人な覇者などに負けたくないと蘭は淡々と作業を繰り返した。
 それにどうせ下虜が怪我したところで、覇者は心が痛むこともない。
 黙々と作業をしていたら、頭上から呆れが混じった溜息が降ってきた。
 顔を上げると長虎がまだその場にいて、じっと見下ろしてきている。
「何かまだ御用でも?」
 なんの為にそこにいるか分からず、蘭は不思議に思いそう問う。
「片付けは明るくなってからにしたらどうだい? 怪我をしたんだろう。そのまましても、また傷を増やすだけになると思うが」
 長虎の最もな言い分に蘭は何も言い返せなくなる。いつもの嫌味な長虎に戻り、さらりと繊細な髪を撫で上げた。
「それに泥臭い格好で屋敷に上がって来て欲しくはないんだが」
 蘭ははっと我に返り、自分が裸足のまま庭で片付けをしていることに気がつく。
「君は、野猿のようだね。信じられないほど、野生的で粗野だ」
 けなされていることが分かり、蘭はぎりっと奥歯を噛み締める。
 元はといえば、長虎がお膳を振り払ったというのに。
「では、お手を煩わせますが濡れたタオルでもお願いできますか」
 そう言い返すと長虎は詰まったように言葉をなくす。
その目は呆れるほどの厚顔さだといいたげだった。  
「メイドに伝えておくよ」
 やれやれと長虎は大袈裟に肩をすかして、目障りだと言わんばかりにその場を立ち去っていく。そのような辛辣な態度に蘭の胸は傷つくが、唇を噛み締めてもう一度気持ちを整えた。
「どんなことがあっても負けないから」
 いつか人魚の里へ帰れることを信じて――。
それだけを心の糧にした蘭の声はか細く、この月明かりの中に溶けるように消えていった。 










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