河畔に咲く鮮花  

◆*†*◆ 第三章 終焉 三十九輪の花 人魚の里を去る夜 ◆*†*◆


 
◆*†*◆ 第三章 終焉 人魚の里を去る夜 ◆*†*◆

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 蘭にとってその日は最悪な夜となった。
 いつものように人魚の里で働いて、志紀とアユリ、公人や真紀子と会話をしながら一日を過ごす。
 志紀とアユリと三人で甘美な夜を過ごした後でも、何も変わりはしなかった。
 いつもの日常が待っているだけで、そこに義鷹が来て話をして帰って行っただけ。
 変わり映えのない静かな日で、これからもそうして生きて行くのだと思っていた。
 いつかは志紀と婚姻を結び、この美しく清らかな里を守って過ごす――そう何一つ疑いはなかったのに。
 おかしな客が来たのは、一日の仕事が終わった後で、もう夜になった時刻のことだった。
 人魚の里の入口で警護をしていた源太は敢え無くその男に突破され、堂々と志紀の前に立たれていた。
 里の人は固唾を飲み、家の中からその様子を伺っていたが、聞いていると男は義鷹の後を密かに尾行して来たのだという。
 そして男は義鷹が逢引している女を引き渡せと志紀に要求をしてきた。
――義鷹様と会っている女って私のこと?
 蘭は自分のことを言われているのだと悟るが、志紀は何のことかとシラを切り通している。
「出て行っては駄目だよ、姉さん」
 公人が眉をしかめながら、外を覗き見している蘭の肩を強く掴んできた。
 その隣でアユリも同じ意見なのか、蘭の手をぎゅっと固く握り締めてくる。
 蘭も得体の知れない男にわざわざ姿を現す気持ちもなく、志紀のことを必死で応援した。
「いるんだろ、今川義鷹が足繁く通って、密会している女がよ。出てこいよっ!!」
 男が大声で叫ぶと静かな里は段々と騒然となってくる。
 早く諦めて帰って欲しいと胸の中で思うが、男は怒鳴る声を止めようとしない。
 そうやって騒いでは、蘭の精神を追い込み、自分の元へ姿を現させようとしていた。
「今川殿のことも知らぬし、ここは世捨て人の里。そのような貴族と親しくしている娘もいない。何かの間違いであろう」
 志紀が平然と言ってのけるが、男はふっと鼻で笑うだけで取り合おうともしなかった。
「しらばっくれんじゃねぇ。義鷹がこの里に来て、帰って行くのをこの目で見たんだ。出さないと、実力行使させてもらうぜ」
 男はすっと手を挙げると、里の外から明かりが漏れ始めた。
 それはおびただしい数で、風に揺られては不気味に明滅を繰り返している。
 焦げつく炎の匂いがここまで届いてきて蘭の背中はぞくっと震えた。
「わざわざ交渉してやってんだ。今のうちに大人しく出せ。じゃないと、この里を焼き払う」
 男がに口の端を吊り上げて笑うと、志紀の顔に困惑の表情が刻まれる。
 明かりは松明のようで、今にもこの里に火を解き放つ合図を待っているようだった。
 この傍若無人な男は本当にこの里を焼き払うつもりでいる、そう蘭は感じ取り公人とアユリの手から離れて、とうとう姿を現してしまう。
「……私がそうです……なにか御用ですか」
 志紀の隣に立つと、男は一瞬だが眉をしかめて蘭の顔をまじまじと見つめてきた。
 そして近づいては腰を屈めて、ぶしつけに顔を覗き込んでくる。
 蘭は身を引いて僅かに視線を逸らすと、男から距離を取った。
「稲姫に何となく似ているな……へぇ……これはこれは……楽しくなってきそうだぜ」
――稲姫?
 男は蘭にしか聞こえないほどにぼそりと呟いて、精悍な顔に楽しそうな笑みを浮かべる。
「俺と一緒に来い」
 男は蘭の腕を引っ張るが、志紀がすぐさまがしりと掴んでそれを制する。
 男は志紀に視線を投げ動きを止めるが、腕を掴まれているにも関わらず余裕ぶった態度は崩さない。
「私は行きません、理由もないですし」
 蘭は腕を掴まれたまま背の高い男に毅然といい放つ。
「そうです、連れて行く理由が分かりません。姉さんに用なら僕におっしゃって下さい」
 蘭の後を追って来たのだろう、公人が刀を手に持ち、鋭い瞳を男に向けた。
 静かな怒気は空気をぴりっと張り詰めさせて、その場の温度を何度かひんやりとさげた。
「そうだよ、それに蘭姉ちゃんは貴族の女なんかじゃない。ここにいる志紀の女だ」
 アユリもいつの間にかその場に駆けつけて、男に恥ずかしげもなく言う。
 男はくっと喉を鳴らして笑うと、蘭の腕を力の限りに掴んで、自分の胸に引き寄せた。
「おもしろいな、この里は。そのくらいこの女が大事か? お前らがどうあがいても、この覇者の上杉健吾には関係ないことだ」
 覇者の上杉健吾と聞いても志紀は何一つ同様を見せずに、じっと見据えていた。
――覇者? この男が
「いいな、その余裕な態度」
 健吾が愉快そうに肩を揺らして笑うが、蘭の腕を掴んで離そうとはしなかった。
 暴れる蘭を簡単に力で押さえつけ、ぞっとするほど冷酷な志紀の視線を正面から受け止める。
「覇者だろうが、なんだろうが関係がないのはこちらの方だ。この人魚の里は何人たりとも侵略は許されていない」
 志紀の声に暗い響きが交じり、静かな場にぴりぴりとした緊張感が滲みはじめた。
 志紀が怒りをほとばしらせているのを肌で感じ取り、蘭はぶるりと背筋を震わせる。
 苛立ちを周りに振りまいている健吾を見上げると、蘭ははっと息を呑んだ。
 にやついていた健吾の顔から笑みが引き、獲物を狩るような獰猛な目つきに変わっている。
 覇者という者の恐ろしさを遠い記憶の中で知っているような気がして、蘭の心臓はばくばくと乱れはじめた。
――この男……なんて迫力なの……怖い……
 静かなのに肌をひりつかかせるような空気が一面に漂う。
 だが志紀も一切引くことはなく、毅然とした態度で立ち向かっていた。
――志紀……
 健吾と志紀の間でじりっと焼け付くような、激しい視線の交わし合いが無言でなされ、その緊迫感に誰も口を開くことが出来なかった。
「俺はお前に言っているんじゃない。この女に聞いているんだ。さぁ、この俺と一緒に来いよ」
 健吾は時間の無駄だと思ったのか、先に志紀から視線を外すと、蘭の方へ体をねじる。
 健吾に顎を掴まれて無理矢理に蘭は顔を上向かされると、長い髪の毛から覗く片方の目と視線がばちりと合う。
 決定権を自分に託されたと知るが、蘭の気持ちが一向に変わるわけがない。
 だが、健吾は凄みを増す笑みを浮かべて、平然と言い放つ。
「これは頼んでいるんじゃねぇ。決定された事項だ」
 あまりにもさらりと言う健吾に、蘭は覇者という生き物に嫌悪感を催し、激しいまでの感情で睨みつけた。
「あなたが決定しようが私は行く気はないわ」
 突っぱねる蘭を見て、健吾はヒュッーと軽く口笛を吹くと、先ほどと同じようなにやつく笑みをその精悍な顔に取り戻す。
「いいな、気の強い女は嫌いじゃないぜ。言うこと聞かせたい楽しみが増える」
 健吾の笑いの種類が変わり、ぞっとするほど凄絶な笑みがその顔に刻まれる。
 その圧倒的な威圧感に慄然とし、蘭はぎゅっと心臓が押しつぶされそうな感覚に陥った。
 本当は怖かった。
 その証拠にかたかと指先が震えている。
 だけど、この上杉健吾という男に悟られたくないために、必死で堪えているのだが。
「さぁ、来いよ。俺と一緒に」
 蘭は圧倒される威圧感に押しつぶされそうになり、ごくりと唾を飲み込んだ。
 覇者はやはり逆らえないほどの恐ろしさを身に纏っている――。
 そんな考えがふっと浮かび、なぜ覇者のことを知っているのか蘭はざわりと胸が騒いだ。
「どうあっても渡すことは出来ない。本気ならばこの志紀にも考えがある」
 志紀も負けておらず、覇者となんら変わらない威厳で健吾に威風堂々と立ち向かった。
「志紀……」
 それを見上げているアユリの顔に動揺が滲み、それ以上は言葉をなくしている。
 そのぐらい怒りを孕ませている志紀の本気を読み取り、長年一緒にいたアユリも畏怖を覚えているようだった。
「僕も志紀殿に続いて守って見せる」
 公人も志紀の気持ちに同意し、すらりと刀を鞘から抜き出すと、健吾に向かって構える。
 真剣な表情に蘭はごくりと唾を飲み込み、一触即発の場に神経がすり減りそうになった。
「いいな、その傲慢で勝気な態度。そんな美貌で凄まれると怖いねぇ」
 おどけた調子とは反面、健吾の口元からは笑みが引き、依然獣のような獰猛な瞳をぎらつかせている。
「だが、言ったろ? これはもう決まった事だと」
 健吾が指を口元に持っていき、高い指笛をヒューッと吹くと、里の外で待機していた松明の明かりが揺らめき、焦げ付く草の香りが風に乗って漂ってきた。
「う……そでしょ? 火を放ったの?」
 蘭だけではなく志紀の顔にも驚きが刻まれているが、当の健吾は涼しい顔をしている。
「すぐに消せるようにしている。だが、これ以上、もたつくと全部一気に火を放ち、この里を焼き尽くす」
 覇者は簡単に自分の欲望だけで、他の者を不幸にすることが出来ると蘭は慄き、ゆっくりと顔を志紀にねじった。
 里はざわめきが増し、静かな夜は無情にも消えていく。
 火を放たれたことが里の者の心理に恐怖を植えつけ、場は騒然となった。
「一人の女と里の者の命、さぁ、どっちを差し出すんだ?」
 健吾が愉快そうに大声で笑いを立てる。
 蘭は自然に、顔をねじって志紀を捉えた。
――志紀
 騒然とする中、蘭は志紀と視線を交わし、心の中だけで対話をする。
 志紀はよそ者を里に迎えることは禍を招くと当初は言っていた。
 それでも蘭と公人を受け入れ、この里の一員としてたくさんの恩恵を与えてくれた。
 いつしか志紀と愛し合い、この里で一緒に過ごそうと心に決めていた。
 それはもう敵わぬことかも知れない――。
 燃える赤い炎の揺らめきは蘭の心を激しくざわめかせ、よからぬ記憶を舞い戻そうとする。
 この炎の中で大切な何かを失ったような――そんな記憶に揺さぶられ、蘭は決意を固める。
 今こそ里を守る時だ。
 この身一つでそれが出来るのであれば、喜んで差し出そうと――そう決めた。
 もう、炎の中に大事な物を奪われたくない――志紀にこの里を失って欲しくない。
 美しく清らかな志紀と同じような、清廉な里――。
 何人にも侵略されず、みんなが平等に生きていける、夢のような理想郷。
 そこを離れるのは辛いが、焦げ付く炎の匂いが強くなるにつれ、別れが近いことを悟った。
 志紀の瞳は悲しさを滲ませ、必死で行くなと呼び止めてくる。
 それでも蘭は、志紀に向かって口元を僅かに動かせて、最後の別れの言葉を放った。
『志紀、今までありがとう』
 その言葉は喧騒によって虚しく空に溶けていってしまうが、志紀には伝わったようだった。
 志紀から剥がすように視線を外して、蘭は健吾に向き合うと意を決して震える唇を動かせる。
「行くから、火は消してちょうだい」
 健吾はようやく緊迫した空気を打ち消すかのような、柔和な笑みを浮かべて、ぐいっと蘭の腕を掴み直した。
「蘭っ! 行くなっ!」
 ざわめきの中でも志紀の声は凛と涼やかにこの空に澄み渡るように響く。
 強い声音に体が引き戻されそうになるが、ここで帰っては意味をなさない。
 ちぎれそうになる胸に片手を当てて、蘭は健吾に引っ張られるまま歩いていく。
「蘭姉ちゃんっ!」
 続いてアユリの必死の叫びが背中に届くが、振り向くことはしなかった。
「行かないで下さい、この公人、命に変えても――」
 公人が動く気配がして、蘭はぴたりと歩みを止めて、大きな声で言い放つ。
「公人君っ、この里を守って。志紀の愛しているこの里を。それが私の願いよ」
 公人の声を遮って、蘭は残酷とも言える命令を下す。
 一緒に田舎に行って、二人で静かに暮らそうと言ってくれた公人。
 一人でこの里へ置いて行くのは心もとないが、公人に取っては最高の場所になるだろう。
 ここに居れば、志紀が見守ってくれるはずだ。
 ごめんね――みんな。
 やはり禍を招いてしまった。
 だから、この決着は自分自身でつけよう。
 それが蘭からの恩返しになるだろう。
 勝手な言い分かも知れないが、それしかこの里を守る方法はない。
「もういいか。行くぞ」
 健吾に促されて蘭は顔を俯かせると、悲しみと苦しさでないまぜになった心の中で静かに泣いた。
 涙を表面上に見せると、この健吾という男に屈した気分になる。
 そんな無様な姿は見せられるわけがなかった。
 何が待ち受けているか分からない不安に駆られて、蘭は得体の知れない健吾という覇者に連れられて行く。
  名残り惜しそうに振り返ってはならない。
  振り向いた瞬間に、真っ直ぐに志紀に駆け寄っていき、その体を離さまいと抱き締めてしまうだろう。
 だから、振り向いては駄目なのだ。
 背中に痛いほどの視線を感じるが、必死で意識から取り払う。
 もしかしてこれが最後になるかもしれない。
 志紀と――会えるのも。
 ぐっとこみ上げてくる涙を飲み込み、真っ直ぐに向き直る。
 泣いてはいけないと思えば、思うほど悲しくなってくるのはなぜだろう。
 里の外で待機している松明の火がゆらりと悲しそうに揺れて、それがまるで心の中のようだと――そう思い、蘭は唇を固く引き結んだ。
 そしてそれが、蘭が人魚の里にいた最後の夜となった。 

 




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