河畔に咲く鮮花  

第三章 三十四輪の花 4:囚われの伊達春編


***

 「……るっ……いちるっ……起きて、風邪ひくよ」
 稲穂は地下室の食事ルームの隣の部屋で寝ていたいちるの体を揺さぶる。
 ベッドがあるというのに、いちるはソファで撃沈していた。
 体から酒の臭いがぷんぷんとしては、それだけで酔いそうになる。いちるはようやく目を開けて、稲穂の姿を確認した。
「あ……れ……稲穂……」
 まだねぼけ眼でいちるは、ぼんやりと喋る。
「もう起きて、お昼よ」
 そこでようやくいちるは体を起こして、一つ欠伸を出した。
「う〜ん、もうそんな時間? あ〜二日酔いだわ」
 いちるはぐったりと体を丸めて、手を額に持っていった。
「そう言えば、この地下室に薬を置いている部屋があるみたいよ。そこに行って、二日酔いの薬をいただきましょうよ」  
 稲穂はいちるの腕を引っ張って、ソファからなんとか立ちあがらせた。そして、部屋を出ては長い廊下を歩き始める。
 かつかつと稲穂といちるはヒールの音を響かせながら、部屋を見て回った。ほとんどの部屋は鍵がかかって、室内には入れない。
 いちるが稲穂の隣に肩を並べては、にやりと意地悪い笑みを浮かべた。
「ねぇねぇ、昨日はどうだった? 家朝様と!」
 いちるが軽く肩でとんっと稲穂の体をこづく。もちろん一夜の営みのことを聞きたいのだろう。
 いちるってば、本当にはしたないんだから。
 そう稲穂は思うが、徐々に顔に翳りを落とし始めた。
 なにもなかったわけではないが、稲穂としては釈然としないものだった。
 ともは、稲穂の体に指先の一つも触れていない。
 キスすらも貰っていなかったのだ。
 ただ、稲穂がともの欲求の処理をしただけ。
 そう、捉えても間違いではない行為。
 言い淀んでいる稲穂の顔を心配そうにいちるは覗きこんできた。
「……どうしたの? すっごい失敗しちゃったとか?」
 いちるは静かになった稲穂を見て、不思議そうに首を傾げる。
 稲穂は言うか言わないかを迷ったが、いちるの意見も聞きたくて昨日のあらましを説明した。
 いちるは腕を組んで、うーんと唸っては考え込んでいる。
「やっぱり……ただの処理かな……仕方ないよね」
 稲穂はいちるに心配かけさせまいと、自嘲気味に笑って見せた。
「……いや、そう考えるのは早いよ。もしかしたら、稲穂を大事にしたかったんじゃないかな」
 いちるは笑顔で稲穂を見て、得意げに喋る。
「だって、普通は祝賀会の夜に抱かれていてもおかしくはなかったんだ。稲穂が嫌って断っても、家朝様には権利がある。無理強いでもモノに出来たはずなのに。これだけ時間をかけるってのは遊びじゃないからだよ」
 いちるはともの行動の答えを導きだしたように胸を張った。それを聞いてようやく稲穂の顔にも笑顔が戻ってくる。
「そうだよね……本当ならいつでも抱けるはずなのに、それをしないっていうのは、私のことを思ってくれているのかも」
 稲穂が元気を取り戻して、いちるはほっと安堵の息を吐きだした。
「そうそう、そう思ってどーんと構えておきな!」
 いちるはニカッと豪快に笑って、しゅんと項垂れていた稲穂の肩をばしばしと叩く。
「痛いよ、いちる!」
 稲穂は叩かれた肩をさすりながらも、にこやかに笑った。そうやってお互いに笑顔を浮かべながら、歩いているといちるが足を止める。
「稲穂、あれ見てよ。あんなところに鉄柵がある」
 いちるが神妙な面持ちで、前方の行き止まりを見つめた。
 そこにはアーチを描いた鉄柵の扉が壁に嵌めこまれている。
 家の色と同じで、その鉄柵も白であった。
「うわぁ、秘密の扉みたいだね。行ってみようよ、稲穂」
 いちるが目をきらきらさせながら、稲穂の腕を無理やりに引っ張る。
「いちる! 駄目だよ。そこだけ雰囲気が違うよ」
 稲穂は必死でいちるに呼び掛けるが、いいから、いいからというのが答えであった。
 鉄柵の前まで来て、いちるはギィっと引いてみる。すると鍵がかかっていないようで、扉はすぐに開いた。
「階段があるよ。ここからまたさらに下るみたい」
 いちるが少しだけ開け放った鉄柵から中に入り、下へ降りる階段を確認する。
「いちる、やばいよ。怖くない?」
 白い石段には明かりが灯されておらず、暗闇が階下に広がっている。稲穂はいちるの袖を引っ張るが、全く意に介していない。
「家朝様のことをもっと知りたいでしょ? だったら秘密を見てみようよ」
 いちるの言っていることは、ただの好奇心旺盛であるが、稲穂もなにがあるか知りなくなってきた。
 稲穂の掴む手が緩んだ隙にいちるは、さっさと身を躍らせて白い石段をかつかつと降りて行く。
「いちる、早いよ。暗くて見えない」
 稲穂はいちるを見失わないように、服の袖をきゅっと掴んだ。
 そのままいちると稲穂は階段を下りて行く。
 階段はカーブを描いて、またさらに下へと繋がっている。
 とてつもなく、長い――長い時間、いちると稲穂は黙々と誘われるように地下へ向かって行った。
 ようやく地下に降り立った場所には、鉄柵が突きあたりにある。
また地下への扉かといちると稲穂は顔をしかめながら、その鉄柵へ無防備に近づいて行った。
 天井に嵌めこみ式の電灯が埋め込まれ、仄かに明かりがこの空間を照らし出している。
 それでも薄暗い中をいちると稲穂は、足を進めては鉄柵の前へと行く。
 鉄柵をいちるが引っ張るが、どうやらここにはしっかりと鍵がかかっているらしい。
「なんだ、ここから先には行けないみたい」
 いちるが残念そうに肩を竦めると、闇から低い男の声が聞こえて来た。
「……誰だ、お前達は?」
 姿が見えない者から問われて、いちると稲穂はひっと体を縮ませる。
「いちる……その鉄柵の中に人がいるよ……」
 稲穂がいちるの背にある、鉄柵の中を指差した。いちるは指摘されて恐る恐ると鉄柵に振り返る。
 鉄柵の中は一段と暗くなっており、中は見えづらい。
 いちるが目を凝らして見ると、声の人物らしき男が動いた。       
 じゃららと重たそうな鎖を引っ張り、男が闇からぬっと姿を現した。
「ぎゃっ!」
 いちるが飛びあがり、稲穂のいるところまで後退する。男は鉄柵に手をかけて、ゆるりと顔を近づけてきた。
 いちると稲穂は抱きあったまま、その様子を見つめている。
 男は怪我をしているのだろうか、ところどころに血の跡が残り、服はぼろぼろで、右目には眼帯をしていた。
 だが、男はそんなナリでも、薄闇で分かるほどの怪しき美貌を湛えている。
 覇気はないが、覗いた左目は凍てつくほど冷たく、強い力を宿していた。
「あ、あんたこそ誰よ。そんなところで何をしている?」
 いちるが虚勢を張って、その男に力強く問いかける。
 男は口端を上げて、不敵に微笑んだ。
「見れば分かるだろう。ここに捕らわれている者だ。良ければ俺をここから出してくれよ」
 疲労している青白い顔からは想像もつかない、しっかりとした声音で男はそう言う。いちるは稲穂と手を繋いだまま、男の方に近寄った。
「いちる、止めなよ。もう、戻ろう」
 稲穂はいちるの手を強く握るが、引っ張られて鉄柵の前まで連れて行かれる。
 目の前に男の顔が現れて、稲穂はどきどきとしながら様子を見た。男は一瞬だが、眉をしかめて稲穂の顔を見据える。
 何事かと稲穂は肩を竦めて、いちるの手をぎゅっと掴んだ。
「……お前……徳川のなんだ?」
 男の声はいちるではなく、稲穂に向けられている。稲穂はごくりと唾を飲み込んで、素直にも答えてしまう。
「私は……徳川様と懇意にしている本多家の娘です」
「家朝様が稲穂を気に入って、ここに置いているんだよ。まぁ、将来のお嫁さんってことかな」
 いちるが男が聞いてもいないことをぺらぺらと喋るもので、稲穂はつい眉をしかめてしまう。
「……あいつ……そういうことかよ。あの、狸がっ」
 男がぼそりと呟いて、鉄柵をガンッと手でぶん殴った。
「きゃっ!」
 稲穂はその音に驚き、思わず一歩さがる。いちるもそろそろと下がっては男と距離を保った。
「おい、悪いことは言わない。俺をここから出せ。お前はどうせ利用されているだけだ」
 男は今度は取り澄ました顔で、稲穂にそう囁いて来る。
「稲穂、騙されちゃ駄目よ。大体、あんた何者なの? そんな檻みたいなところにいれられて、鎖に繋がれてさ」
 いちるが稲穂を庇うように立つと、男に息まいた。
「……俺を知らないのか? ふん、徳川の奴、公表していないのかよ。俺は伊達政春だ。世間では覇王殺しの謀反人だ」
 春が堂々と自分の自己紹介をすると、いちると稲穂は顔を青ざめさせる。
 この冷たそうな男は、一代前の覇王・織田信雪を殺した謀反人。
 実際のことは詳しくは聞かされていない。
 もう一人、革命を起こした明智光明のことは知っているが、謀反人の首謀者のことまでは公表されていなかった。
 噂では聞いたことのある、伊達政春。
 この男が、その本人だというのだ。
「あ、あんたが以前の覇王を殺したの?」
 いちるは春の正体を知り、怖々と様子を見る。だが春はゆるりと首を横に振った。
「俺は殺していない……本当に死んだかどうかは知らない。世間では死んだって言われてるのか?」
 春が逆にいちるにそう返してくる。いちるはこくりと頷いて春をまっすぐに見つめる。
「行方不明とされているけど、覇王は覇者の世界ではもう死んでるって……家朝様が必死で捜索したらいしいけど、全然見つからないみたいで」
 いちるの話を聞いて、春はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「捜索ねぇ……どういったつもりの捜索なんだか」
 春の言葉の真意が計れずにいちると稲穂は眉をひそめる。
 とにかくこの場所にいてはいけないと稲穂は思った。この男は謀反人の大悪党なのだ。反勢力でいつも織田信雪を狙っていたと言われる。
 誰もが噂に聞いたことのある男だ。
 その人物がよもや目の前にいるとは思いもしなかったが。
「い、行こう。いちる。もうここにいちゃいけない。見つかったら家朝様になにを言われるか」
 稲穂が臆して、いちるの服の袖を引っ張る。
「ああ、もう出よう」
 いちるは稲穂の意見に同意して、そろそろと春から距離を取った。十分に離れたところ
で、いちると稲穂は駆けだすように階段へ向かった行く。
「おい、待てっ! 聞きたいことがまだある。真田家は無事か? それと元覇王の花嫁はどうなった? 答えろ!」
 階段を上る足を止めて、稲穂は一瞬だが春に視線を向けた。先程とは違って真剣な表情。
 冷たい左目も微かに暖かい光を宿している。
 だが留学して覇者争いのことを細かく知るはずのない稲穂は、その必死の呼び掛けに応えることは出来なかった。
「徳川はお前を利用している! あいつを信じるなっ! それが分かりたければ、またここへ来い!」
 足が完全に止まってしまった稲穂は、いちるに腕を引かれて無理やり階段を上らされた。
 上に出た時は逃げるように稲穂達は自分の部屋へ走って戻る。
 部屋に戻って来て、ようやく二人は安堵の息を吐きだした。
「怖かったね、ぼろぼろになっても迫力があるというか、なんというか」
 いちるが息を整えて、春のことを思い出したように話す。
「……うん」
 稲穂はそう小さく答えるが、春の放った言葉が強烈に食い込み、心の中に不安を植え付けた。
 真田家の唯直は伊達政春の幼馴染で、協力していたと噂では聞いたことがあったが。 それを気にするのは分かる。
 だが稲穂にとっては、春の後者の質問の方がかなり気がかりである。
『元覇王の花嫁はどうなった?』
 伊達正春が、覇王の妻のことを聞くとはどういうことだろうか。なにか知られざる問題でもあるのか。
「ねぇ、いちる。前覇王の妻のことって知ってる?」
 稲穂は気になり、自分より詳しいであろういちるに問いかけてみた。
 いちるはきょとんとしていたが、視線を彷徨わせてうーんと低く唸る。
「あんまり良くは知らないんだ。戴冠式と同時に結婚したとは聞いたけど……アタシは出席していなかったから実際見ていないし。世間的にも揉み消されて、謎の人物になっているよ。噂では下慮だとか」
 いちるはあいまいな記憶で、頭をぽりぽりと掻きながら、真相を捻りだしているようだ。
「あ、そうだ! 家朝様に聞けば分かるじゃん! それか、あの女みたいに綺麗な貴族の義鷹様」
 いちるは閃いたように声を張り上げる。稲穂はなるほどと思ったが、それを聞いてしまっていいものかと躊躇いが生じる。
 徳川に利用されている、春の声が木霊して稲穂は顔を俯かせた。
 まさか、あの家朝様が、利用しているなどそんなわけはない。
 利用されるほどの力があるわけでもないし、稲穂はともの得にもならないはずだ。
 それを思うと、やはり春の言葉は揺さぶりをかける嘘の囁き。
 自分を檻から逃がして欲しいが為に、そうやって稲穂を動揺させているのだ。
 なんて、ずる賢い男なのだろう。
稲穂の気持ちに疑念を持たせて、ともと不仲にさせようとしているに違いない。 
 稲穂は自分でそう信じ込み、春の言葉を打ち消した。
「そうだね、家朝様か義鷹様に聞いてみるのもいいかもね」
 稲穂は顔を上げて、いちるににこりと微笑んだ。春の気にしている前覇王の妻。
 そのことを聞いて、すっきりさせればいい。なにも問題はないのだから。
 開け放たれた窓から風が入り込み、花器に活けていた蘭の花がゆらりと揺れる。
 濃厚で芳しい香りは、あの夜のともからも漂ってきた。
 稲穂がともの夜伽の相手をした時に、蘭の花を嗅ぎながらその行為に酔っていたことを思い出す。
 きっと稲穂が活けた蘭の花を気に入ってくれたのだ。
 だからあんな風に、愛おしげに愛でてくれていた。
 本家の庭にも植えると言ってくれた。
 そこまで思うと、稲穂の心はようやく晴れ渡り、今度いつ来るか分からないともに思いを馳せた。






 

 4:囚われの伊達春編 end



187

ぽちっと押して応援して下されば、励みになりますm(__)m
↓ ↓ ↓



next/  back

inserted by FC2 system